ミラノサローネ2018 の記事

Date:18/4/28

デザインウィークで多くのデザインを見ながら、自分の好き嫌いを意識します。しかし好きにも色々あり、一目で惚れること、長い時間をかけて好きになること、両方あります。今回出会ったデザインで長い時間を経て好きになるものがあるかなあ、とぼんやりと考えていて、エットーレ・ソットサスのことが思い浮かびました。

ぼくがソットサスのことを知ったのは多分、1980年代末で、メンフィスの活動が終了した頃ではないかと思います。ただ、ジュージャロの世界に近づきたいとトリノに来たぼくに、ポストモダンのデザインの面白さが、当時のぼくにはよく分かりませんでした。いや、正直に告白するなら、トリノのカーデザインに接していた身にとって(確か80年代の前半か、イタルデザインを舞台にしたタバコのセブンスターのTVCMがあって、これもカッコよかった)、家具・雑貨のミラノのデザインはそうワクワクするものではなかったのです、そもそもが。90年代、ブレラの街角で80に達するかという年齢のソットサスの姿をみて、ただ者ならぬ存在感に驚きましたが、かといってそれ以上の興味はもてませんでした。

 

 

その後、ビジネス上、ソットサスのデザインした作品に多く接するようになります。ポルトロノーヴァ、オリヴェッティ、ビトッシなどの製品に実際に手に触れていくうちに、だんだんとソットサスの秘める想いや思考に惹かれます。2007年、彼が亡くなった後に、いくつかの展覧会をみました。しかし、2017年9月から今年の3月までトリエンナーレ美術館で開催された「There is a planet」で、壁に書かれた彼の1994年の初公開のメモの文章を読み「こうだったんだ!」とソットサスの存在そのものがぼくの身体の内側に入ってくる錯覚を覚えました。

 

 

それは「デザイン:機能的な花って?」というタイトルです。まず「デザインとは産業とデザイナーを繋ぐものではなく、産業と社会を繋ぐ試みなのだ」とデザインの社会的性格に触れますが、「デザインは美と付き合うのではなく、存在に関わるのだ。が、現時点できっとそれはきわめて稀な現象であり、存在そのものは審美的なイベントとして想像されるだろう」とちょっと難しい話になってきます。その次に簡潔に「産業は願いを作る必要があり、デザインは問題を解決するのではなく、願いをつくるのだ」と一気に今のぼくの関心領域に入ってきます(ベルガンティ『突破するデザイン』で触れる意味のイノベーションですね)。「2本以上の鉄のパイプを溶接するのはとても簡単だ。2つ以上の色を一緒にするのは非常に難しい。ピカソはよく言ったものだ、3つや4つの色を一緒にするには、相当の経験がないといけない」とグサッときます。

ここから「デザインするというのは、存在のあり得るメタファーを果てしなく探し求めることだ」ときて「イタリアにおいてデザインは職業ではない。生き方だ」と一息おいて、「オリヴェッティのためにデザインするのは大変だったに違いない、と人は言うが、メンフィスの方がすごく大変だよ、と答える」と佳境に入ります。はい、最終フレーズはこれです。

機能主義・機能・機能的という言葉は、今世紀(20世紀)はじめの猛烈な情熱のなかで生まれたものだ。すべてのものは理屈だけで解決すると見られた」と近代の成立要件に疑問を呈するのですが、それを次の言葉でまとめます。「問題は、私のとても若い、はじけんばかりに愛する人に花束を贈りたいと思い花を選択するとき、私は合理性をどう使ったらいいか分からないのだ

この一連の文章にぼくは膝をうちました。メンフィスのデザインがなぜ難しかったか、というのがこれで分かります。このメモを書いた時、ソットサスは80才ちょっと手前でした。彼は59才の時におよそ30才年下の30才周辺だった女性と一緒になります。若き愛する女性とは、この展覧会をキュレートしたバルバラ・ラディチであると思われますが、そうした勘ぐりはどうでもいいとして、2018年現在のデザイン論議のネタを彼は1994年時点で全て出していました。ソットサスだけでなく、さまざまなデザイナーも当時から語っていた内容とは思いますが、ロジカルな問題解決デザインが如何に「ちょろい」ものであるか、良く描けたメモです。

ぼくは、こうして自分の視点がソットサスのそれに合って(バッチリとは言いませんが)きたことを実感し、ソットサスの作品がより好きになったのですね。まったく遅まきながら(つまりは恥ずかしながら)、やっと存在として近くによったという感をもつのですね。そして花屋のお姉さんに花を選んでもらっていちゃあいかん、とも思うわけです。

 

 

Category: ミラノサローネ2018 | Author 安西 洋之  | 
Date:18/4/25

毎年、サローネの期間中、千葉工大の山崎和彦さんと一度は夕食を共にするのですが、今回「MINIは毎年いい感じですね」と言われ、ぼくもいつもそう感じていたので「そう、そう」と同意しました。大仕掛けな空間を構成するわけでもなく(いや、それなりに大仕掛けであっても、そうは感じさせないセンスがあり)、特に驚きの演出がなくても、しっかり伝えたいことを伝えている・・・というのがよく分かります。およそ毎年出ているとブレがあるものです。MINIに見る側が過剰期待しないという背景もあるかもしれませんが、いつも「ふ~ん、いいねぇ」と思うのです。そして、この印象こそがMINIへのブランドイメージとバッチリと合うから、驚きです。多分、MINIは大きな枠を設けるのが得意なだけでなく、それをカジュアルに示すのが秀逸なんでしょうね。

この点をぼくは恒例のように書いているのですが、フランスなどのブランドメーカーが仰々しく重厚な建物で「これぞ!」と決め技的に見せるのにもいい加減ウンザリするなあ、と感じはじめました。何か頂点のような見せ方は、とてもヒエラルキーを感じさせ、およそデモクラシーとはかけ離れている。そうだ、これがイタリアのファッションブランドが60年代以降に強調してきたデモクラシーなのかも、とふっと思います。よくイタリアのファッション関係者が、「フランスのエルメスやLVはもともと服ではなく、アクセサリーでブランドを作ってきたから、変わらぬラインや世界観というのを誇張しやすいんだよ」と表現します。「でも、彼らも服では右往左往するんだ」とも。たまにああいう世界も悪くないですが、あそこを絶対軸におかない見方を自分でもっていないといけないです。

そういえばかなり前、MINIとFIAT500のユーザーの違いをクルマ業界のマーケティングに解説してもらったことがあるのですが、違いはこれらのクルマをセカンドカーとしてもつ人がファーストカーとして何をもっているか?という点からみるのです。うろ覚えですが、MINIはフェラーリ、FIAT500はベントレーだったような気がします。MINIもFIAT500の両方ともカジュアルなんだけど、ちょっとした匂いの違いがあります。このカジュアルな表現の仕方に世の多くの企業は現在、切磋琢磨しています。ドレスアップよりもカジュアルダウンの方が難しい、その境界に如何に挑戦するかに実力のほどがはっきり出てきます。そういう差は、展示の仕方やモノだけでなく、展示の入口の趣旨説明にも出てきます。

 

 

MINIと同じトリエンナーレで開催していた中国のデザインは、その趣旨説明を読んだだけで「あっ、そう」というものです。もう何処にでも書いてあるようなことが書いてあり、展示されたものはそれなりに面白いものもあるのに、あの説明に基づいてキュレーションされていると思うと、モノを見るのにもあまり力が入らなくなります。逆に言えば、モノはその説明レベルのガッカリを越えないといけないってことにもなります。どうしても借り物のコンセプトを出発点にしているように見えてしまうのです。で、こういうありきたりの説明は、これまで述べてきた観点でいうと、カジュアルダウンがまったくできる感じがしない。つまり、カジュアルダウンは自分のアタマで考えたコンセプトが基礎にあって、崩していくわけ。だから言葉が本物じゃないといけないんですね。

 

 

このテーマ、前回に書いたイタリアンメンズファッションの特徴でもあるのですね。基本はスーツにあり、英国のビジネスパーソンの仕事のためのスーツではなく、南イタリアの貴族が日常生活を送るためのスーツであるから、イタリアのスーツはソフトになっている。そこからバリエーションあるジャケットなどがでてくるのですが、かといってスポーティなカジュアル服ではない、との点に技があります。西海岸文化と大きな差がありますね。

Category: ミラノサローネ2018 | Author 安西 洋之  | 
Date:18/4/22

王宮で開催している”Italiana – Italy through the lens of fashion 1971-2001″という展覧会があります。展示されている服・アクセサリーなどだけを見るのならさほど面白くないかもしれない地味目の企画です。これは展示の各部屋にある説明を読む、あるいはカタログを読むことに意義があります。そうしてイタリア男性ファッションが1960年後半以降、Walter Albiniによる「産業化」にスタートがある、あるいはアルキズームやスーパースタジオなどのインテリアやプロダクトデザインの動きがファッションの世界に影響を与えたことがよく分かります。ファッションを時系列に捉えるのではなく、タイトル通り、ファッションを通じて「イタリアらしさ」を理解することに狙いがあります。ぼくは最近、イタリアメンズファッションがなぜ注目を浴びているのか?に関心があるので、この展覧会はよいヒントを与えてくれました。その後、ファッションブランドのチーフパターンナーにこのあたりの話を深くききました。イタリアメンズのポイントはスーツにありカジュアルにはない、とか。

 

 

そうしてデザインウィーク中、イタリアスーツのトップブランドであるキートンが近世・近代の男性肖像画と自社ブランドの服を並べる展覧会をみて、「これだ!」と思いました。というのも、この展覧会の趣旨に「ファッションといえば女性のそればかりが話題にのるが、男性のファッション史に見るべきものがある」とあったからです。そして会場にいたキートンのマーケティング担当に、イタリアメンズファッション隆盛の起源は1960年代ではなく近世に既にあった、ということを説明受けたのですね。Walter Albini1人の功績を追い過ぎてはいけない、と気づくのです。で、トリエンナーレではアルキズームの作品を多く作っていたポルトロノーヴァの展示がある。自分の関心を抱きながら歩いていると、こういう情報に嗅覚がききやすくなります。

 

 

このような縁に嬉しくなる気持ちで街を歩きながら、「仮設的空間」にフッと虚しさをおぼえます。7年前、日経ビジネスオンラインの連載でミラノサローネ観賞手引き的な記事に「フオーリサローネの面白さは、普段開かれていない扉が開かれ、別のミラノの街が見られること」と書いたことがあります。確かにその面白さがあるのは不変ですが、ビジネス的観点、それも通常、ミラノに販売拠点がない小規模の事業者が「普段開かれていない場」で展示する虚しさ、あるいは経済的非効率を考えざるをえないです。大企業が勉強の予算で何らかのイベントをするのではなく、小規模な企業が必死の覚悟で市場開拓の道を探るにあたりフオーリサローネを有効活用しようとするならば、ほぼ開かずの間に場を求めるのではなく、1年間、常に「開いている場」に頼るべきではないか。POP UPストアのゲリラ作戦にどう距離をもち、店舗やショールームとの協力関係をどう考えるかです。

デザインウィークはたったの1週間です。しかもこの時期に特別な高額の賃貸料を払うわけです。そして1週間が終われば、また扉は閉じる。これでは訪問の機会をもてなかった人は、リアルな繋がりがもてません。が、そこがショールームのコーナーで紹介された企画であれば、「デザインウィークの時に来れなかったけど、どうだった?何か今も見れるものある?」という質問や「デザインウィーク中に出したら結構、評判良くてサンプルを見ます?」との会話が1年間に渡り可能なわけです。1週間の臨時の場とサイトだけで、こういうコミュニケーションは難しいはずです。とするならば、店舗やショールームの位置はもっと重要になるはずです。

 

 

インテルニのフオーリサローネの旗が入口に出ている店舗に派手な見せ方はなく、通常の什器と展示の延長線上で、「なんだ、これか」とがっかりすることがあります。お祭り感がまるでない。だからどうしても意外感ある空間や展示に多くの見学者は引っ張られ、開催する側もそうしたムードに押されてしまうことも多かったです。「一発、話題の人気をとってやろう」と。が、そういう傾向が一段落し、通常の店舗が特に新作もなくフオーリサローネの旗を立てる例は以前よりは減少したように見えます。あまりに対抗馬が多すぎ、そこに無茶な挑戦をしても無駄、と思い知ったところが多いのでしょう。それでも、やはり振り回されてしまうことはあります。

最後に。5月後半から6月中旬にかけて1月に引き続き、立命館大学DMLの主宰でアートXデザインXネットワーキングの連続セミナーを行います。場所は東京の八重洲にあるキャンパスです。毎回、ぼくが講師との対談のお相手をします。

5月26日はアート&ロジックの増村岳史さんによるデッサン講座
6月2日は小倉ヒラクさんによる「発酵文化を発酵させるー微生物と出会うアート+デザイン」
6月15日は松本理寿輝さんによる「保育園の意味の転回ーレッジョエミリア教育を日本でリ・デザイン」
6月16日は藤井敏彦さんによる「ルールメイキングに必要な『愛と寛容』を知ろう」

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