ミラノサローネ2017 の記事

Date:17/4/23

イタリアはイースターから25日までの戦勝記念日、場合によっては5月1日まで非公式GWという感じなので、結構、最近のリズムはゆるいです。先日は、サテリテの20周年記念の展覧会を再度見てきました。あるジャンルの作品に絞り、デザイナーによってどうバリエーションが違うかをみてきました。誰がどういうバックグランドかということを個々にチェックしているわけではないですが、おかれる空間の設計から関わる人と、それに関わらない人ではプロダクトデザインの出来は違うなあ、ということを考えながら眺めていました。建築家とよく話すのですが、建築家とインテリアデザイナーの違いとして空間にみえるのは、建築家の方がより三次元的に考えられていることが多い、ということです。比喩としてはちょっと的はすれなのですが、インパクトの距離という観点でいうと、アーティストの作品とデザイナーの「アート風作品」の差ほどにあるのですね。似て非なるもの、という表現の一つの適用例になります(当然ながら、逆の立場から同じことが言えます)。

さて、このイタリア版GWの前に『デザインの次に来るもの これからの商品は「意味」を考える』のもろもろの作業が終わり、明日、無事に発売のはこびになりました。で、雑誌の連載などまだまだ書かなくてはいけない原稿はあるのですが、少々インプットが欲しくなり、高橋幸治さんの『メディア、編集、テクノロージ』を読みました。デザイン思考というデザイナーの思考に汎用性があるものとするならば、編集思考も同様のことが言える、との趣旨を読んで「そうか、デザイン思考の功績は、エキスパート思考が他分野に普及する確信を多くの人に与えたことなのか」と思いました。ぼくも新著のなかで、医者は人間の生活をバランスよく見る、という見方のエキスパートであり、歴史家は時代による浮き沈みを公平な目でみるプロである、ということを書きました。しかし歴史家の考え方は「教養」という範囲で捉えられるのが一般的なところ、IDEOはデザイン思考を「ビジネス素養」まで飛距離を伸ばしたわけです(もちろん、ビジネス素養よりも教養の方が強い、というのが本当のところですが)。

編集の力といえば松岡正剛さんの編集工学を思い起こすのですが、あらためてサイトで趣旨を読んで思うのは、松岡さんよりも高橋さんの方が「非編集者」への普及に想いが強いなあということです。松岡さんが編集の力という存在を認識させたのに対し、高橋さんは、その力を特殊能力としてではなく、一般の人たちが使いこなすにはどうすれば良いかに心を砕いている。これはデザイン思考がデザイナーの枠を越えてビジネスパーソン向けに適用したとの同様のパターンを編集でも考察すべきではないか、という提案になっているわけです。したがって編集の専門学校で教えるテクニックではないところに焦点を絞る必要性を感じているのですね。

それにしても、何か縁があるなあ、と思います。何がって、ぼくの本では意味のイノベーションについて書いていて、ものすごく久しぶりに読んだ松岡さんのサイトに以下のようなフレーズがあります。

21世紀はこれらの情報群を「意味」のために問いなおし、そこに新たな「方法」を組みこむための徹底編集に向かう時代です。国も企業も地方も学校も、情報と知識を編集的に組みなおし、新たな意味と価値をさぐるべく 意味を工学する必要が出てきています。21 世紀は「方法の世紀」なのです。

編集工学はこうした渇望に応えるために生みだされてきました。編集は新聞や雑誌や映画などのメディア用にあるとはかぎりません。社会と市場に絡まっている膨大な情報群から、大小の意味をプロセス別に仕分け、そこから 必要な価値を見いだす方法なのです。

<中略>

編集工学研究所は、来たるべき「意味の市場」の先端を見据えます。そして、日本が取り残してきた課題を果敢に拾っていきたいと思います。

なるほど、です。編集工学におけるキーワードは「意味」だったのですね。ぼくの本では、世の中はコンテクストの解釈より成立し、そこで意味が生まれるというわけで、解釈と意味がキーです。で、高橋さんの本も、解釈にものすごく力を入れています。一方、欧州のビジネス文化のこの数十年の流れをいうと、解釈→過剰解釈へ距離をとる→解釈の再評価 というところだと思うのですが、解釈の受け皿というか土壌の豊穣具合が、意味が「豊穣かどうか」に繋がっていくのでしょう。

因みに、ミラノサローネに関するぼくのこのブログは、解釈と意味を問うてきたのですが、そのサローネ解釈のためのベーシックな情報をあらためてサンケイビズの連載に「人とは何か」を常に思考の真ん中に サローネで再認識したこと として書いておきました。高橋さんの本を読んでいても感じたのですが、「Human 」と「User」 と「人間」との三つの言葉の間には溝があります。これが解釈や意味を論じる時に、差として浮上してきます。

Category: ミラノサローネ2017 | Author 安西 洋之  | 
Date:17/4/10

今年の連載では、欧州で生まれたHuman Centered Design が米国で User Centered Design になり、このHumanとUserの差に注目しています。なぜなら、狙っているテーマである「意味のイノベーション」はUser ではなくHumanをベースにしないと成立しないからです(このイノベーションでは人としての向かいたい方向=視野の角度、が一番大事)。欧州のイノベーション政策のデザイン関係の公式文書では、デザイン思考のおかげでより定着したUserを使っていますが、欧州においては(Userではなく)Humanを起点に考えることが定着しているので、この差を承知したうえで「ビジネス的に引きの強い」Userをあえて使ってもさほどギャップはないであろう、と考えている節がありそうです(このあたりの事情は、今月後半にでる新著「デザインの次に来るもの」を読んでいただくと分かります)。いずれにせよ、Humanという言葉を全ての出発点におく、という視点でフオーリサローネを見てみます。

例えば、この路線でブレラ地区で展示していたパナソニックを見てみると、まず”Electronics Meets Crafts” というタイトルがひっかかってきます。パナソニックという会社を主体としているので当然のようにElectronics が主語になっているのでしょうが、Humanを起点とした場合、少なくても主語はCraftsになるのが自然な発想です。Craftsが長い歴史のなかで生き残ってきたのであるとすれば、新参者のElectronicsとどう邂逅したのか?という文脈の理解が、欧州文化に馴染んだ人たちへのメッセージを考える際に必要になってきます。これは単なるタイトルの問題ではなく、プロジェクトを進めるにあたり思考プロセスの優先順位の問題になってきたはずです。そうすると、確かに美しい演出はしているけど、「で、どうなの?」という疑問がすぐ出てくるわけです。これだけの仕掛けでやるのならば、ElectronicsとCraftsの邂逅との組み合わせの妙以上の理由が、あるいは意味が見る人に伝わらないといけない。しかし、残念ながらそうとは思えない(少なくても、ぼくにとっては)。それは、やはり出発点が悪かったのではないか、と考えざるをえないのです。

この展示をみた後にブレラのアカデミアの外にある庭に出ると、家庭雑貨のguzziniの展示がありました。ガラスの食器がフワフワと浮いています。このフワフワだけでなく、いくつかインスタレーションがあるのですが、なんというか、「発見感」があるんですね。

このガラスを通して庭を眺めると、当然ながら現実の風景は歪んできます。まったく普通のキッチンにある食器が、外でこれだけの世界を見せてくれるのです。

意味のイノベーションは、「心の記憶に残る」モノ・コトの開発を目指すものです。guzziniのようなイラストレーションに出会う回数を増やすのは有効でしょう。

Category: ミラノサローネ2017 | Author 安西 洋之  | 
Date:17/4/7

昨日、デザイン思考=問題解決(改善された商品)というレイヤーだけでなく、デザイン・ドリブン・イノベーション=意味のイノベーション(心離れがたき新しい意味をもつ商品)というレイヤーに注力すべき時期になっていることを書きました。これを強調しているのが、ミラノ工科大学経営工学研究所のロベルト・ベルガンティ教授の「Overcrowded」(MITプレス)です。今日は、彼と米国ペプシコCDOのポルチーニ(彼はミラノ工科大学のデザインの出身で、3Mで実績をあげヘッドハンティングでペプシコに転職)の講演、それにパネルディスカッションにエコノミストのコラムニスト、デロイトデジタルのコンサルタント、ミラノ工科大学のズルロなどが並びました。

問題解決には大いに力を発揮した人たちが、こと意味のイノベーションには戦力になっていない。それは今回何度も書いている(Userではなく)Humanレベルの理解とコミュニケーションが鍵になっているからですが、問題解決に適用されている方法論が意味のイノベーションのケースには応用できない、と認識すべきというのが第一歩です。問題解決がユーザー観察からスタートしてアウトからインという順序になるのに対し、意味のイノベーションでは個人の熟考→2人(スパーリングパートナー)での議論→7-8人(ラディカルサークル)→解釈者たちのグループを経て初めてユーザーが登場してくるのです。多くの人を最初の段階で巻きこんではいけない。クラウドソーシングやオープンイノベーションは問題解決の作法であり、その限定された目的のために使うべきだ、というわけです。

アイデアは現状の改善のためのもので、変化は批判精神によってこそ起こすことができる、と散々デザイン思考でもてはやされた言葉や方法が小気味よいぐらいにバッサリと切られていきます。ぼくはベルガンティの本は読んであるし、彼自身とも何度か直接話し合っているので、そこに新しいネタはなかったのですが、デザイン経営として注目を浴びているペプシコのポルチーニの話を聞いて大いに納得がいったところがあります。彼はベルガンティの前著「デザイン・ドリブン・イノベーション」から今回の新著に至る内容を支持しており(彼は学生の時にベルガンティの授業も受けていた)、「ペプシコの社内でも、この考え方と近いところでプロジェクトが進んでいる」と話した後、デザインの考え方や現在の戦略などを紹介しました。

ぼくが納得がいったのは、ポルチーニのセリフの一つ一つがまっとうに「自分の言葉になっている」という点です。徹頭徹尾、自分の言葉からはじまり、それらを何度も鍛え直したプロセスが浮かび上がるような話ぶりなのです。「消費者がこう望んでいるようで」という心もとないニュアンスがなく(もちろんマーケット調査は散々やるにせよ)、彼自身にスタート地点があるとしか思えないアプロ―チなのです。それでいてデザインアプローチのアカデミックな裏付けもしている。なるほど、アカデミックなデザインマネジメント研究はこう使うのか、という良い見本です。

さて、この話、ミラノサローネの文脈に落とし込むための、ベースとなる現実を見てみます。

リーマンショック以降のこの10年近く、イタリアのインテリア業界で生じた大きな変化は、1) 従来の流通経路による商品のビジネス比重が下がっている(特に個人客にブランド浸透率が低い場合) 2) オンライン販売は成長している(が、1)をカバーするほどではない)3) ホテルやオフィスなどへのB2Bに売り上げを頼るケースが増えている 4) フィールドごとの商品が生きづらい(オフィスではオフィス家具ではなく、従来の一般家庭向けのデザイン家具が使われるなど脱”小さいコンテクスト”という流れがある 5) 4)とは反対に”大きいコンテクスト” という観点では、よりコンテクストが重視される(それがオフィス家具に一般の家具が使われる、という展開を生む) というようなところだと思います。

これらの事実を前に分析的な問題解決ではなく、意味のイノベーションを考えるとするならば、今年のデザインウィークの何を見るとよいか?を考えることになります。

 

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