ミラノサローネ2011 の記事

Date:11/1/24

メトロクスがジョエ・コロンボのBOBYワゴンを輸入し始めたのは2001年冬です。それから10年。メーカーのB-LINEはBOBYワゴンを起 点に、 ジョエ・コロンボのチェアやボネットの作品を商品化してきました。’60-’70年代の路線でベースを作りながら、じょじょに現在のデザイナーの新作を扱 うようになります。いわゆる雑貨より大きく、ソファのような大きさには至らない、この中間領域が彼らの土俵です。マス市場の上のレベルを如何にとるかが勝 負どころ。世の目を引くだけの機能性に乏しい作品でブランドを作ることを拒否してきたと言ってよいでしょう。以前にも書きましたが、1999年、当時20代のジョ ルジョ・ボールドィンが一人で興した会社です。先週、ヴィチェンツァにあるB-LINEでミーティング(下の写真)をし、パドヴァで夕食を共にしながら(一番下の写真はプレス担当のシルビア)、感じたことがあります。

ボールドィンはヴェネツィアの大学で経済を勉強して、BOBYワゴンを生産していたビーエッフェに勤務をしていました。が、この会社がたたむことになったので、彼は金型を安く譲り受け、そこからB-LINEとして生産を始めました。従来の客を引き継ぎながらですが、資金のないところで樹脂材を入手するのも大変だったようです。また、彼は特にデザインの経験があったわけでもないので、BOBYの次に出す商品開発でも苦労があったと思います。いくらBOBYワゴンが40年売れ続けてきた大ヒット作であろうと、それだけではメーカーとしての発展が望めません。冒頭に書いたように、最初の5年程度は過去のマスターピースの復刻に力をいれ、そこでブランドの基礎を作りました。そして、この数年はコンテンポラリーデザインで新しい挑戦をしています。

この挑戦の一つにミラノという場所を使ったプロモーションがあります。工場や事務所がミラノにある必要は全くないのですが、人に商品を見せる場所としてミラノは意味があります。それで最初はミラノサローネの時期に市内のスペースを確保して展示をしていました。それはそれで沢山の反応がありましたが、その場所の弱さをサローネの会場で出展するようになって痛感します。フオーリでの展示も確かに多くの人の目に触れますが、それらの人たちはトレンドチェックのために歩き回っている人であったり、デートのためであったりする。彼らがその場で商談をすることは少ない。しかし、見本市の会場には、商品を買うためにやってくる人が多いのです。その場で注文書にサインをしていくわけです。

見本市会場に出展するようになっての変化は、注文数だけではありません。デザイナーとの位置関係が大きく変わります。それまではデザイナーを探しに行っていたのが、デザイナーからのアプローチが急激に増えます。ぼくも今までイタリアメーカーのデザイナーとのつきあい、あるいはミラノのデザイン事務所に対する外国人デザイナーの売り込みを目にしてきました。しかし、メーカーとしてさほど知名度が高いわけではない会社が見本市の出展を契機に、そこまで劇的に変わる姿をみて、イタリアのデザインの強さの継続性をやはり考えざるを得ません。その売り込みデザイナーの数、提案の数、外国人比率(イタリア企業にデザインを受けてもらったことが重要なキャリアになる!)・・・どれをとっても、それは日本のメーカーの比ではないです。注意してもらいたいのは、こういう事例がそこかしこにあることです。どこかの一塊の会社の成功事例ではなく、かなり一般的な事例であることに意味があります

こうして営業してくるデザイナーは何も若手だけでなく、世界のトップデザイナーも売り込んできます。そこで何が起こるか?結果として、ロイヤリティのパーセンテージや初期費用の負担において、メーカーは圧倒的に有利な立場にたてます。最新トレンドに食いつきがよくなります。そして、何よりもデザインに対する目が肥えます。例えば、日本人デザイナーに多いミニマリズム的表現が如何に商売のパイとしては小さいかを実感している彼らは、そう簡単にその路線にはのりません。イタリアにこの経験の自己増殖的な環境がある限りにおいて、日本のメーカーやデザイナーが欧州において闘うにはよほど欧州メーカーの戦略の傾向を肌で知っておく必要があるし、日本のメーカーがどうしたらそういう立場に立てるかを、例えば、クールジャパン政策(←これについては、日経ビジネスオンラインの連載に『クールジャパンが日本を救うか?』を書きました)は現実的に考えるべきでしょう

経験の絶対数をどうしたら自動的に増やせるか?フオーリではなく、フィエラで展示する意味が、ここにあります。単に表面的な感想を聞くのではなく、注文書にサインしてもらうことで見えてくる世界です。

Date:11/1/13

自己啓発本が相変わらずよく売れているようです。「君は何も分かっていないじゃないか!このままでは世の中から脱落するぞ!」と散々脅し、一方で「このことだけ分かれば、いいんだ。もう心配することなんてない。これでよく眠れるだろう」と包み込むように語りかける。マッチポンプのようなものです。あるいはSMか、笑。人はそのどちらでもなく、真ん中にいるのだとわかっていても、人から煽られると焦るものだし、その後にやさしくアプローチされるとコロリといきます。だから、どちらをも話半分に聞くトレーニングというのは結構重要な処世術です。で、それだけだと「あいつはしらけた奴だ」と言われるにきまっていますから、それぞれのタイミングで狂喜したようなフリをできないといけない・・・とやれやれです。

自己啓発本対策は、これでなんとかなるかもしれませんが、例えば、外国の日常生活をどう理解するかというような話はかなりヤヤコシイです。何が言いたいって、(6)で書いた「平均的なお宅って何?」の続きです。母国だって、なかなか人の生活なんて分かるものじゃありません。自分のウチと親戚のウチくらいなもので、友人のウチの生態を詳しく知っていることはそうありえない。結婚生活をして経験する伴侶との「違いの衝突」というのは、個人的趣味の問題もありますが、かなりそれぞれの実家のなかでの習慣や考え方の違いが突如に浮上して生じるものです。そのたびにぼくの知っている日本の家庭生活って、ぼくのウチのことだったんだなと思ったものです(過去形なのは、長く結婚生活をしていると、さすがにそういう違いが昇華され「我が家」の習慣ができてくるからです)。

そのレベルで「分かる」ことを基準にすれば、どこでも分かりません。香港で中国人と同棲し、タイタイ人と結婚生活をして、インドでインド人と愛人生活をしないと分からないとなれば、殆どの人は何も分からないことになります。だから何をもって「分かる」という基準が欲しくなります。当然でしょう。しかしながら、「分かる」とか「分からない」というのは、ある名前を知っているかどうかとは違い、誰がみても明らかな基準とはありえません。『イシューからはじめよー知的生産の「シンプルな本質」』の安宅和人さんがブログのどこかで、分かるとは関係性が把握できることだと書いていました。比ゆでいえば、その関係図がいわば30センチ四方で分かると思うのか、1メートル四方に広がらないと分かるとはしっくりこないのか、あるいはその中の関係の複雑性によるのか・・・・と考えたとき、極めて主観的なマッピングによることが自ずと分かります(!)。

即ちーやや唐突な物言いですがー、海外のお宅拝見をして「分かった」とは何をもって「分かった」と思えるかの基準はないけど、少なくても、「分からない」という不安感を解消することが極めて重要なのではないかと思うのです。それには、自分のリサーチテーマの範囲と深さのセッティングを具体的に行うことです。その一つのアイデアが、前回書いた「思春期までの子供のいる家庭を平均的とする」という設定というわけです。


Category: ミラノサローネ2011 | Author 安西 洋之  | 
Date:11/1/10

最近、ビジネスエスノグラフィーの普及のためかどうか分かりませんが、「お宅拝見」というリサーチが増えているような気がします。もともと日用品関係では当たり前のアプローチですが、コンテクストの理解がより重視されている今、リアルな日常生活シーンの把握に力を入れるということでしょう。だから冷蔵庫の中まで覗いて、食品の種類や買い物の頻度などまで知ろうとします。その時、裕福な家庭、貧民層、あるいは平均的とか色々と要望があるでしょうが、例えばインテリアデザインの場合、「平均的な家庭」とは何をもって「平均的な家庭」というのでしょうか?面積あるいか家族構成でしょうか。

もちろんリサーチの目的によって平均の意味も変わってくるわけですが、ここは大雑把にいうならば、思春期くらいまでの子供のいる家族が住む家ということになるでしょう。所得が平均的であっても夫婦だけ住む家は、みるべき平均が見られないのではないかと思います。つまり、大人だけが生活している空間は、整理整頓ができているかどうは別として、大人の意思がある程度コントロールされており、あまりに予想外な衝突が生じにくい。それに対して、小さい子供はインテリアデザインとは何ぞや?という世界に生きており、大人の考える秩序を全く視野に入れないで生活しています。かといって、大人は子供100%で生きるわけではないので、「制御的」な工夫がどうしても必要になります。

また、大きくなった子供であっても、それはそれでインテリアに対して自己主張がでてきて、世代間のギャップが噴出してきます。やはり、価値の折り合いという場面がどうしても必要になります。夫婦間でも同じ趣味ということはありませんが、それでも夫婦ははじめてから折り合いをつけることに合意して生活することを選択しています。問題はここにあります。異なった価値に折り合いをつけ、一方の価値を無意識に破壊する状況での制御するノウハウを不要としない家庭に「平均的な悩みは存在しない」ということになります。有名なインテリア雑誌で紹介されているお宅に「平均的な悩みは存在しない」とは断言しないし、よく見せた空間であればこそ、その水面下の葛藤が浮き彫りにされやすいという論もあるかもしれませんが、「平均であることの出現率」において小さいことが多いのではないかと言えるでしょう。

リサーチを特に海外で実施するならば、ここの家がどこの層であるのかを判断するのはとても難しいです。コーディネーターが若干レベルを底上げする可能性もあります。それを疑いはじめたらきりがないでしょう。あるソファ一つとって、「カッシーナだから平均ではない」と即断しても頓珍漢なことがあります。それよりも子供用の家具や玩具をどう大人の空間に馴染ませているかをポイントにした方が、寛容と寛容の狭間をみることができます。そこに単に趣味の問題ではない、その家庭のロジックが具体的に見れます。お宅拝見の意義とは、こういうところにあるのではないかとぼくは考えています。

Category: ミラノサローネ2011 | Author 安西 洋之  | 
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