ミラノサローネ2011 の記事

Date:11/4/1

2008年に書いたことの2回目です。

以下は欧州における歴史の重要性とその使い方は要注意という内容です。

4月18日

欧州は歴史を常に振り返ることを習慣としていますが、イタリアはその傾向が特に強く、歴史をステップアップのツールとして使います。ですから今年、カッ シーナがデザイナーとその作品を展示して全貌をみせているのは全くの正統派なわけですが、bticinoやTDKがこの手法を取り入れているのは、 2010年からの10年間の市場をとるための戦略的な過去の整理です。実にロジカルな発想です。歴史を如何に自分の味方につけるか、その競争が2008年 から始まっていると思いました。これが仮説2です。

自分が意識しているかどうかではなく、どう人から見られるかということに目を向けると良いです。自分の意識だけが先走るのは危険。

4月19日

イタリア人の作品に「どうして、こんな色が出せるのだろう」と思わず感じ入ってしまうように、日本人の作品は、欧州の人からはミニマリズム的なデザインで あると見られがちです。本人がそうと意識していなくても、「すっきりとしていて日本的だね」と評価されやすいです。2008サローネのサテリテを歩きなが ら気づいたのは、日本人の表現するミニマリズム的デザインに、欧州人がかつてほど熱い視線を送っていないことです。

アイデンティティと感覚の関係を探ることは、要フォローポイントです。感覚は世界共通ではないということでもあります。

4月21日

バッラの展覧会の意味するところ、これを追々考えていきたいと思いますが、会場にいる人たちは、非常に愉快そうにこの企画を見ています。作品とのダイレク ト感が強いのでしょう。先進国に生きる多くの人たちが自分のアイデンティティを喪失しつつあるなかにあって、何らかのベースが欲しいと心の底で思っていま す。その時に、自分の感覚がどこまで通用できるかという確認が欲しいのは確かだと思います。

レクサスの問題は、一昨年トヨタがグローバル戦略からローカリゼーション戦略に転換したことで、以下のような指摘が多かったことが分かります。

4月24日

冒頭のデザイナーは、レスサスの今までのイメージはキャノンが再現した長谷川等伯の松林図屏風を想起させると言っています。白と黒の枯れた世界です。この 作品をアートとして高く評価しても、やはり高級セダンのイメージには似合いません。レクサスがコンセプトを伝えたい気持ちはぼく自身もすごく良く分かりま す。それは過去3回も同じように感じました。しかし、コンセプトを伝えきれないのです。どこかに回路が不足しているか、欧州の人たちの理解の仕方をうまく 把握していない、そのどちらかであると考えます。

日本向けのPRの場であると言う会社もありますが、ミラノにきて欧州の人に評価されるからこそPRになるという基本を見る人たちは見ています。

4月25日

ミラノサローネでの展示は、通常の媒体の宣伝や広報あるいはモーターショーでは伝達しきれていない部分を如何にカバーするかに意味があるのだと考えます何度も書いているように、広義のデザインを語り合う場へのプレゼンテーションとして効果的だったかどうか。そして日本人に対してではなく、欧州人に対してちゃんとこの場が役立つように構成されたのかどうか、それらが一番肝心なことではないかと思っています。

一度全体を大きく捉える意味が、ここにあります。

5月1日

2008ミラノサローネ(32)で「欧州人が40なら、日本人は意識しなくても35という軽さを表現してしまう。こういうことがあります」「この差である5の行き場をどう考えるか、です」と書きました。 あくまでも欧州市場で売るための前提で言うのですが、ぼくは35を40にあげていく発想では、難しいだろうと思います。日本人が得意とするカットしていく 手法が使えません。あくまでも欧州の文脈に沿った形で、45から40へ、そして38あたりまで落とし込んでいくアプローチが必要なのではないかと思うのです。積み上げるのではなく、意図的により重いもの最初に選択し、それを軽くしていくというイメージです。

Category: ミラノサローネ2011 | Author 安西 洋之  | 
Date:11/3/29

頭の準備運動として、2008年のサローネに書いた文章を読み始めました。あの頃から、ずっと同じことを言っているんだなぁと思うのですが、古い日付から引用していきます。

第一のポイントは、全体像の把握です。

2008年3月6日

インテリアデザイン外に広がった一つの理由は、工業デザインのトレンドがファッション産業と密接にリンクするようになったことがあげられます。コンテンポ ラリーアート→テキスタイル →アパレル→雑貨→家具→家電→自動車というようなデザインの流れが特に意識されだしたのも、この10年ちょっとです。90年後半にヒットしたスケルトン のアップルPCのアイデアは、90年前半のテキスタイルのトレンドを汲んだ雑貨デザインに源流があると言われます。もちろん、いまやこんな悠長な流れよ り、もっとパラレルな動きですけどね。

2008年3月11日

ぼくがサローネにやって来る人たちに言っているアドバイスがあります。「それぞれの展示会場でカラーやフォルムのディテールを見るのもいいけど、全体的な文化トレンドを見るといいですよ」 と言います。「マックスビルのポスターを作ろう」で も書いたように、ドゥオーモの横にある王宮やトリエンナーレで開催している企画展を通じて、今の時代をどう見るといいのかがよく分かります。たとえば 2006年にバウハウスの巨匠とよばれるマックス・ビルを紹介したのはなぜなのか、そのキュレーターの意図を読むといいのではないかと思うのです。

全体の把握の次のポイントは、抽象的理解の重要性です。ここでどうしても言語化が必要です。

2008年3月12日

よくパワーポイントで企画書を作りますね。チャート図があってキーワードをちりばめたようなタイプです。やや直感志向ともいえます。昨日、「 ヨーロッパの人たちは、何かを企画するとき、まず抽象的なレベルで大枠をつかまえ輪郭を描きます。 そこから具体的に落とし込んでいくのですね。」と書きましたが、ヨーロッパの人たちは、パワーポイントではなく、まずワードでびっしりと文章を書くことが 多いです。もちろん分野にもよります。あくまでも比ゆ的な話として読んでください。目の前に陳列されているのがプロトであれなんであれ、この文章に書いて あることを理解することがキーです。

2008年3月17日

ヨーロッパの人たちは、抽象的な理念あるいはコンセプトを緻密に練り上げるトレーニングを積んできました。自分の考えを、ある構成モデルにそって文章を書 き上げる。文章に書かなくても、そういう頭の使い方をするのです。ですから、もしあなたが「直感的に分かって欲しいんだよ!」と訴えるなら、どうしてそう いう風に思って欲しいかの文化的背景を説明しないと「なるほどね」と相手は言ってくれないのです。それが粋じゃないと思って躊躇していてもコトははじまり ません。まず、説明です。

全体像とは、カルチャーでいえば、ハイカルチャーとローカルチャーの両方をみることです。

2008年4月3日

ハイがあってこそのサブであり、サブがあってこそハイです。「日本はアニメ生産国でやっていく」と宣言してもいいですが、それはビジネスのあくまでも一部であり、ハイカルチャーの充実をおろそかにしてよいということではありません。このコンテクストを作っていく意識を忘れてはいけません。これをしないと継続性のない、一過性の風景だけが展開されていくことになります。それではヨーロッパの人たちが、日本のアートを十分に理解できません。

ハイコンテクストカルチャーとローコンテクストカルチャーを傾向として使うのは、文脈依存性の高い日本的説明を肯定するためではなく、日本的説明で不利になる地域があることを指摘するためです。

2008年4月4日

ハイコンテクストカルチャーとローコンテクストカルチャーという見方が文化人類学にあります。比ゆでいうと、花瓶と花が描かれた静物画を、花瓶と花 だけで作家の意図を読み取ろうとするのがローコンテクストカルチャー。それらの背景にある様子も含めて理解しようとするのがハイコンテクストカルチャー。 国民ごとにポジショニングさせていくと、ローコンテクストカルチャーはドイツ系スイスで、逆にハイコンテクストカルチャーは日本人。イタリア人は真ん中あ たりになります。

「あまり言葉で説明しなくても、全体のムードで人は分かってくれるよね」と思うのは日本人。「しつこく話し込まないと分かってくれるはずがない」と思うのはスイス系ドイツ人、ということでもあります。何度も書いているように、展示場の入り口のわきにある趣意書をちゃんと読むのがヨーロッパの人です。ヨーロッパのなかでも、北の人は読み、南の人はそれほどでもないという違いはありますが。

今までの説明だけ読むと、欧州文化はえらく硬いイメージになりますが、「暖かい知性」「南欧知」という表現で語られる緩やかさを肯定する方向に時代が動いているのも確かでしょう。

2008年4月17日

今、プログラムし尽し全てを予定調和的に動かすロボットの時代ではなく、人との対話のなかで色々とフレキシブルな対応ができるロボットの時代になりつつあるといいます。前者を「冷たい知性」、後者を「暖かい知性」と呼んでいる研究者がいます。

あまりにガチガチの合理主義的なロジックはもうごめんだということは、この何十年というなかで言われてきました。もっとゆるい、ちょっと人間味のあ るロジックが必要ではないかと語られてきて、「北欧知」に対する「南欧知」であるとか、東洋の思想が注目を浴びてきました。その延長線上に何があるか、それは意図的にある要素を剥してみたらどうだろうという試みが出てきているのではないか、そういうことを昨晩考えました。バロック的な世界を釘でひっかいてみる、ハンマーで叩いてみる・・・・比ゆ的な表現をつかうと、こうなります。

Category: ミラノサローネ2011 | Author 安西 洋之  | 
Date:11/3/28

ミラノサローネのシリーズ4年目にして、一つ自分の立ち位置を変えようと思います。今まで日本のデザインが欧州の文脈と乖離していることに如何に無自覚であるかを繰り返し指摘してきました。その指摘をやめようというわけではありません。自分で気づいてもらうのが一番良いのですが、なかなか気づかない人に対して、「こっちを見ると何か違うでしょう?」というアドバイスはやはり必要ではないかと思います。しかし、その次にどういう頭の働かせ方をすればいいかに関しての考察が今まで不足していたのではないか。そう考えました。震災からの心境と思考の変化の一つです。

日本のデザインを批判的に見るだけでなく、異文化の文脈へ沿うように接近するために、「短距離を短時間」で走りきるにはどうするかを、もっとぼく自身も考えないといけないと思ったのです。試行錯誤は絶対必要なのですが、効率的「試行錯誤」という道を探るという、かなり矛盾した表現に立ち向かうべきではないかと思い立ったのです。いや、正直で正確に言えば、そういうアプローチを自分なりに考えてきたつもりなのですが、もっとスピードアップが要求される状況に陥ったと言うべきなのでしょう。日本の凋落への危機を目の前にした時、もっと応急処置的なドラスティックな考え方を優先しないといけない。そういうことです。

ミラノサローネを約2週間前にひかえ、じょじょに頭をそちらの方にあわせていきます。過去に書いた自分の文章も読み返してみます。そうすると何かが見えてきそうな感がします。ネタは既にあり、再編成することが頭の準備ができ、それでサローネを自分の足で歩き回ると「これだ!」と膝をたたくシーンに出会うだろうという確信があります。人との出会いや読書などの経験がコップ一杯近くになったとき、自分の身体を物理的に揺らすと、一杯分のコンテンツがあるカタチになってきます。日経ビジネスオンラインの今週アップする記事も、先週、関空からミラノに戻る機内で書きました。約一ヶ月の日本滞在のコンテンツが旅を媒介にして、ロシアの上空あたりで、「こういうまとめ方をするといいんだな」と思い、急いでノートに手書きで原稿を書き始めました。チェコかオーストリーの上空でノートを閉じることができました。

今週、新しい文脈え過去の記事を整理していくことにします。まずは2008年のミラノサローネからスタートします。

Category: ミラノサローネ2011 | Author 安西 洋之  | 
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