ミラノサローネ2011 の記事

Date:11/4/29

ワインにおけるテロワールはグローバリゼーションとの対であることを「ワインで考えるグローバリゼーション」でも書きましたが、これはグローバルパラドクスであり、均質化とその反作用の関係にあります。およそ、その反作用には精神性が深く入り込み、「これを今、主張しないと俺の存在感はない!」という思いに囚われていることが多いです。それがゆえに、共感を呼びやすいという側面がありますが、それがゆえに市場は限定的である、というもう一面があります。しかし、限定的であるがためにありがたみがあり、ワインの場合であれば、生産者とのダイレクト感が飲み手をより喜ばすわけです。いずれにせよ、グローバルパラドクスというタームの通り、どちらに転んでも安心できない危うさがあります。そして日本のデザインの場合、このパラドクスに陥ると、この連載で何度も指摘しているように、「ミニマリズム」「曖昧なフィロソフィー」「男性的より女性的」「合理より直感」「動より静」「強いより弱い」という言葉が尊重されやすくなります。フオーリサローネの「暗い空間のインスタレーション主義」とでもいうべき表現も、この範疇に入るでしょう。

「日本型イノベーションのすすめ」は小笠原泰さんと重久朋子さんの書名です。米国的な「意図的イノベーション」ではなく、日本は「非意図的イノベーション」のあり方を提案していますが、このなかに「文明神話と文化トラップ」という章があります。ぼくが文明と文化の使い分けを知ったのは、高校生の時に聞いた桑原武夫の講演会だったと思いますが、文明とはハードやインフラを指し、文化はそれ以外であるという説明で、このときにぼくは「文化開眼」したと自分では思っています 笑。ただ、「ヨーロッパの目 日本の目」を書いて文化を語り始めたとき、文化を「人間の内面的外面的活動のすべて」と捉え直したので、最近、文明という言葉は使いませんでした。しかし、小笠原さんは、この文明と文化という言葉の使い分けで、ものづくりにおける進度を見事に明確化しています。「文明は必ず死ぬが、文化は死なない」という村上陽一郎の本の言葉が引用されていることで、この2つの言葉の定義が分かるでしょう。

さて、その進度の話ですが、小笠原さんはコンソール型ゲーム機器の衰亡を整理したうえで、ハード商品がもつ運命を説明しています。全てのジャンルの製品に、このフェーズが対応するわけではありませんが、考え方のリファレンスになります。冒頭のジレンマ部分を赤字にしました。

フェーズ1:ある技術が、「文明の利器」として、これまでにない利便性や快適性を実現するハードを可能とする。こうしたハードは、「技術の絶対性能がより高いハードがより良いハードである」という公理(一般に通じる道理)のもとで、文化の違いを超えた一般受容性をもつ。各社はこの大きなサイズをもつ市場で首位に立つために、技術競争に明け暮れる。つまり、高度な技術に支えられた「万能なハード」が登場するフェーズ。

フェーズ2:もっとも、「文明の利器」が利便性や快適性という単系的評価軸での受容である以上、「文明の利器」として評価される個々のハードには、自ずと寿命がある。つまり、現在「文明の利器」として高く評価されているハードも、同等以上の利便性や快適性を提供する他のハードが登場すれば、容易に首位を奪われる。しかも、技術の全体的なレベルが向上するに伴い首位交代の可能性が高まるため、市場の成長とともに、個々のハードの一般受容性の持続期間は短縮される。しかしながら、依然として「技術/ハード万能論」が妥当性をもつフェーズ。

フェーズ3:技術の進歩に伴い、ハードの技術(=機能)レベルが市場に対して過剰になった時点で、新モデルが旧モデルを超える訴求力を示すことができなくなる。市場からの合格点以上の技術(=機能)レベルをもつ新旧のハードが乱立し、それらが等しく市場から評価されるという状況が生じるフェーズ。前フェーズでは、個々のハードの価値の一般受容性の継続期間の短縮は生じても、ハードの価値が一般受容性をもつ状況は維持されているのに対して、このフェーズでは、一般受容性をもつハードの価値の存在自体が危うくなる。

フェーズ4:機能を媒介とした技術の訴求力の減衰にともない、自社ハードの差別化を行うために、価値の中枢を「技術」から「文化的適合」へとシフトさせる。企業の関心は単系的技術競争から各文化への適合へとシフトし、一般受容性ではなく固有受容性が重視される。「技術/ハード万能論」と「ハード万能論」が、いずれも積極的に否定されるフェーズ。

成功要因に「適格要因」と「差別化要因」の2つを挙げ、前者を前提に如何に後者を上手く使うかが肝で、文明を適格要因、文化を差別化要因としてみています。クリステンセンの「イノベーションのジレンマ」が文明内のイノベーションをモデルとしたのに対し、上記は2つのバランスをテーマとしています。文化を文明の範囲で認識するのは米国特有であり、そのためこうしたモデルが成立するのだと小笠原さんは指摘します。また、ハードとソフトのポジショニングも、これをベースとすると考えやすいでしょう。

小笠原さんは、このフェーズを日本企業のハード設計の方向として6つのパターンをあげていますが、多機能化などは文化価値訴求の志向としています。そこが日本市場が孤立化しやすい理由でもあります。文明にはそれはそれで神話性ーより一般受容性を高めることだけに腐心するーの罠がありますが、文化についても同じトラップがあります。

「文化」は自己のアイデンティティと密接に関連しているために、内向きな凝集性を高めている一方で、他文化への無関心を引き起こしがちです。外部の異質性の存在を認識することを通じて、内部の同質性を確認・強化するというグローバル環境のなかでは、自己のアイデンティティを守るために、無意識のうちに、自文化の違いを自文化の優位性に転化しがちです

この背後に、文化的要素と文明的要素の混同という大きな問題も存在しています。そして、こうした無意識な自文化の絶対視が、自国で評価されるものは、他国でも同様に評価されるはずだという錯覚をもたらす、言い換えれば、他文化に対する感度を低くするリスクを高めているわけです。しかし、自己のアイデンティティを支える自文化を中立化するという行為は意外と難しいのです。その意味で、無意識に行われる他文化に対するナイーブまでの感度の低さは、常に文化の中立性を意識しておかないと、容易に陥る文化トラップというべきものであると思います。

サローネで気づくのは、この心理的罠をどう回避するか?ということを意識していない日本企業が多いことです。自文化に走りすぎがちなところにどうストップをかけるか?これが「ミラノサローネで世界進出」の大きなテーマになるでしょう。

Category: ミラノサローネ2011 | Author 安西 洋之  | 
Date:11/4/29

ミラノサローネでのデザインに関する日本での解釈などを聞いたり読むにつけ、ある根本的な勘違いが原因で戦略のミスを招いていることに気づきます。結論からいうと、合理的や論理的という言葉の意味を正しく捉えていない、ということです。多くの人は、これらの言葉から近代ヨーロッパ思想にある数学的なロジックやセオリーのみを連想しているのです。これは一部は正しく、大部分が正しくありません。「この時代に限らず」、ローマの時代であろうが、平安の時代であろうが、あるいは江戸の時代であろうが、人の日常生活は合理性や論理性と無縁にあったわけではなく、日常生活で人に話して合意してもらう行為とプロセスは、これらの言葉によって定義される内容によって遂行されています。それにも関わらず、論理というと西洋近代の象徴との概念に囚われ、日本文化のアイデンティティはそこにないという「差別化」に走るのです。そのため、「感性」「直感」という言葉をアイデンティティにもとうとします。それも過剰に。何度も書いた、レクサスのL Finesse というデザインポリシーもその典型でした。


上の写真は以前も紹介した Joep and Annelou van Griensven の二人のオランダ人デザイナーの作品です。”Between Two Lives “というコレクションで”Yesterday’s future, tomorrow’s past”とのタイトルがついています。17-8世紀の家具を違うコンテクストー白いマテリアルに囲むーにセットすることで、過去と未来のエッセンスに共通軸を見出すことを意図しています。下の写真は時計。これが昨日も書いた、2つの価値共存への探りのもう一つの事例だと思います。違った価値に共通軸を見出すというのは、両サイドから似た要素をみつけて一つ にセットする以上の試みであることを暗示しています。多分、この若いデザイナーたちは今後表現を変えていくでしょう。より「曖昧な表現」で洗練させていく かもしれません。が、現在、コンセプトの基礎固めは着々と進んでいる感じがします。

ぼくが、サローネに出展している日本企業のスタンドを見て危惧するのは、「曖昧な表現」は「言葉で表現できない感性の世界」のものであるという固定観念に囚われ、そこに日本の表現の強さがあると信じきっている怠慢さです。囚われた姿です。そして哀しいかな、欧州人の賛辞の評価もできていないー誰が何を褒め、何を褒めないのかというパターンが分かっていない。喩えていえば、日本人の「すみません」を謝罪と受け止める日本語を習いたての外国人のようなレベルで、欧州人の口にする「素晴らしい」を聞いている・・・。

舞台道具に和服や鎧というアイコンを使わない分、一見と違い、問題はさらに深刻なのです。昨晩、ドリームデザインの石川淳哉さんのブログ「ミラノサローネで世界進出」を読み、これは進めるべきと思いました。ミラノサローネが、デザイナーやインテリア業界言語だけで通じる牧歌的サロンではなくなった今、そして日本の経済に余裕が殆どない現在、サローネに出る自分たちの言語=思考方法を根本から見直す必要があります。批評する次元でも、個々の作品のデザイン評やインスタレーション評だけでなく、海外戦略面からの妥当性を問うことが重要になってきています。日経ビジネスオンラインに書いた「ミラノサローネで失敗しないために」は、そのために一石を投じたつもりですが、石川さんが返歌を書いてくれて嬉しいです。

Category: ミラノサローネ2011 | Author 安西 洋之  | 
Date:11/4/28

実験的なプロトタイプでアイデアや考え方を示し、それを見たメーカーのプランナーなりが「君、面白い考え方するね。今、こういう企画があるんだけど、今度、デザインを考えてみないか?」というオファーを受ける、というのがサテリテの位置づけだろうと考えられてきました。したがって、大学の学生たちの量産をまったく考えていないアイデアと若手のプロのそれも、同じ場で競い合う雰囲気があり、サローネの会場と比較してアバンギャルドでさえありました。暇なときはグダグダしていて、誰か来ると、「見れば?」っていうけだるさ(?)さえ漂っていました。しかし、じょじょに「ここまで量産を考えたプロトを作ったから、これに近いカタチでそのまま現実化してくれないかな」という営業顔の出展者が増えてきました。芦沢啓治さんは、「デザイナーはその業界をもりあげるためのボランティアになりさがっているのではないかというのはここ数年よく聞く話だ」と英国紙ガーディアンの記事を引用しながら、ブログで次のように語ります

サテリテに実力のあるデザイナーがいまだに展示をするのは、ここにチャンス、このチャンスしかないのではないかという焦りの表れだ。そしてそれだけの集客 があるという事実。ジャーナリストも多い。おそらくバイヤーも多いのだろう。このイベントのヒーローたちもちらほら見かけた。スーパーデザイナーたちだ。 ジャスパーモリソンやは子連れできていた。

かつてフオーリサローネにおけるトルトーナ地区も「私を見て!」的な印象が強く、デザイナー本人と話すことが面白い場所でした。今年あたりは、ランブラーテ地区の一部にそうした「名残」があります。ただ、こういった全体的な傾向だけを捉えて、「サテリテがつまらない」と評するのは酷な気がします。今週の日経ビジネスオンラインで書いた「世界が注目するデザインイベントで東芝とパナソニック電工の評価は?ミラノサローネで失敗しないために」では、ドイツ人デザイナーの椅子を、「OR」から「AND」への移行の一つとして考えると見えてくることがあると紹介しました。これはサテリテで出会った作品です。また、田村なおさんの作品は、サテリテで目を引いた作品であったと以前書きました

実は、昨年、彼女の評判だった葉をかたちどった作品(冒頭の写真)は見逃していました。今年、田村さんのことを知らずに、蛍のイメージを使った一人一人が自分が使う照度を決められるプロトタイプにぼくは惹かれました。自然をモチーフにして、モチーフがコンセプト自身のメタファーでありコアであり、その背景にはエネルギー削減というテーマがあります。問題意識の持ち方からコンセプト構築の仕方、具体的な表現へのプロセスがしっかりしているとの印象を受けました。他の日本人デザイナーのアプローチと違うなと思いました。彼女がパーソンズを出てNYで活動しているのは、後になって知りました。

明るいサテリテの空間で、このコンセプトのメッセージを伝えるのは難しかったと思います。都会のなかで蛍が見えない苦痛が、彼女のブースにはありました。昨年の作品を作るのはさほど難しくなかったのでーいや、こう書くと語弊があり、じゅうぶんに難しかったが、今年よりはやや余裕がもてたという比較の意味でー、見せ方に注力することができた、とのこと。しかし、今年は照明器具から(「蛍」が薄いテープ線上に何処にでも止まれる)配線まで全て自ら作ったので、プレゼンテーションの練り方が不足していたと語っています。ここで注意すべきなのは、ブースで興味をもってくれたのは、(去年のように)一般の人ではなく、メーカーやデザイナーの方たちだったということです。昨年の作品は6月にイタリアのメーカーから発表されるように、もちろん昨年もプロがみて評価をもらっているわけですが、今年のプロトもプロに見られ、製品化の打診があります。つまり、コンセプト自身がしっかりしているのが如何に重要かという好例です。スピリット的色彩の濃いフィロソフィーをコンセプトであると自ら勘違いし、マーケットのことは殆ど勉強していない。そういう日本人デザイナーがサテリテに多いなかで、田村さんの事例は参照すべきではないかと思います。

 

 

Category: ミラノサローネ2011 | Author 安西 洋之  | 
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