ミラノサローネ2010 の記事

Date:10/4/18

今日は雨の土曜日ということもあり、遅めのスタートです。従来、王宮やトリエンナーレで「大物イベント」でトレンドを掴んでから街を巡るのと反対に、ひたすらこじんまりとした街角を歩き回っています。今年は「レクサスという指標」もないため、日本のデザインを自分の優先チェック範疇に入れていません。偶然、出会えば見るけれど、日本のデザインをわざわざ見に行くことはしないということです。コルソコモにヴィア・ヴォルタから向かったのですが、この数年立っていたインテルニの旗はなく、いつもの日常世界が変わりなく続いています。コルソコモもインテルニの旗は二つだけ。まずはコルソコモ10。ジュエリー作家Kris Ruhsの個人展ですが、目を引くのはそのディスプレイです。意図的なプリミティブ感があり、「西洋文化は暴力的である」という批判に真っ向から対抗する見せ方です。「この何が悪い!」という表現です。ぼくがここで思ったのは、3月に東工大で開催されたシンポジウム「クール・ジャパノロジー」で盛んに出た「西洋論理の暴力性」です。日本文化の幼児性を西洋文化の暴力性という特質の反対位置におくわけですが、「西洋文化の論理にある暴力性」とは何なんだろう・・・ずいぶんと勝手な話ではないかと思ってきましたが、その暴力性とは「論理の説得性」に特徴付けられるのではないかと考えます。

しかしながら、人を説得すること自身が「暴力性」とストレートに言われるわけではなく、説得をする際に思わずでてしまう過剰な力が「暴力性」を伴うのではないかと思うのですが、これを「暴力性」というカテゴリーに入れるのが妥当かと問われればぼくは否と答えます。多分、「過剰な力」はユニバーサルレベルできわめて標準的な許容範囲に入ることでしょう。これがnendoの前哨戦になるとは思っていなかったのですが、彼らの「説得性への無関心」(と思える)は、どうポジショニングさせるかは即断できません。nendoの作品を見てすぐ想起したのは、2年前のヴェネツィアビエンナーレにおける石上純也さんの作品です。ヨーロッパ人の仲間たちが「これは日本の労働生産性の低さの象徴ではないか?」と問うた世界に近い。問題は、この作品をどの市場のどういう規模にマッチすると考えればよいか?です。nendoの方は「売るためではなく、私たちがこうであるという主張以外にはない」とおっしゃりますが、いわばネガティブな反応をどこまで織り込み済みなのか。その点に好奇心が動きます。是非、フィードバックを伺いたいものです。

サローネでは意外なメーカーが街中で出展していることに驚きますが、クリネックスの世界もまったくフォローをしていませんでした。ここで見るブランドの強さは、日用品の基盤に触れています。台所や洗面所で脇役であることが印象の定着を図るに如何に重要であるかを証明されたような気分になります。日常生活の根幹にどこまで侵入できるかは、あらゆるエリアでポイントになるでしょう。

夜はTwitterで声をかけたオフ会を開催しました。総勢24名。多くの方が、ミラノのどこかでご自分の作品を出しています。とても真剣な戦いです。どなたも日本のPRのためにミラノまで来ているわけではなく、日本で掴めないことを掴むために来ています。それぞれの方が何かを獲得し、それも持続性をもって発展していければいいだろうなと願っています。

Category: ミラノサローネ2010 | Author 安西 洋之  | 
Date:10/4/17

サローネ3日目の4月17日はトルトーナに行きました。この地域は人が多すぎることと、ちょっと覗いた小さな場所に企業PRやマーケティングの意図が見えすぎ、その不釣合いにあまり好感がもてないところです。しかも、週末に行くと人ばかりで殆ど何も見えないので、金曜日に出かけておきました。頭のなかにあるキーワードは、この2日間で浮上してきた「クラウド」「持続性」。「エコロジー」という表現に代わって「持続性」がより多用されているのを感じます。そういうところで、トルトーナで最初に出会ったのが、人を模した作品です。それも喜びより苦しみを想像させる人。四つん這いになった人の上にトップがあるテーブル、開腹された人がライトをもつようなランプ。「これを悲劇の底として見ろ!」と言われているのかどうか、かなり判断に迷います。

道をさらに歩くと自作のゲームを道行く人と楽しむ姿が目につきます。通りがかりの人たちが、このまわりにごく自然に吸い寄せられていきます。これがライフスタイルの一つなんだと思います。コミュニケーションのとり方に無理がない。そうすると上の作品を思い出し、「あれはコミュニケーションの拒否ではなく、コミュニケーションの出発かもしれないな」と考え始めます。自己犠牲をも含む素の姿の開示があらゆることの起点になると語っているような・・・・・。

電子デバイスのユーザーインターフェースがますますリアルな世界の表現に接近すればするほど、リアルな世界はネット上の表現を「リアリティをもつ手段」として借用するようになります。以下はビデオデッキの時代からある記号ですが、YouTubeなどの動画の世界の記号的表現としてデザイナーは使ったのだろうと思います。LAVAZZAはエスプレッソマシーンのメーカーですが、一時停止のボタンがイタリアの三色旗になっています。そして”scopri come nasce una pausa italiana”(イタリア的休憩がどんな風に生まれるか見つけてごらん)と書いてあります。あるモノの擬人化や大きなコトの日常性への落としこみが上手く表現できている一例でしょう。

Tom Dixon Factory では蝋燭立て(写真の手間にある金メッキのモノ)が、現場で組み立て売られています。Factory Worker とプリントされたシャツを着た「労働者」が沢山の人が往来して注視するなかで、懸命に作業を続けています。「労働者」であることを表明し、それを演じることが空想性をもつのではないかと、この瞬間にぼくは思いました。労働者であることは決して苦痛ではなく、自分の背中にトップがおかれて皆が楽しく食事してくれることさえー冒頭の写真のようにー、もしかしたら楽しい空想性に富むエクスペリエンスであることを示唆しているかもしれないとも考えるのです。

昨年、ぼくはミラノサローネ2009で、歴史の使い方が「編集作業」に近づいていると書きましたが、「労働」「リアル」「ヴァーチャル」という概念も総合的編集作業の対象になっていることを、ここにおいて確認します。

今までの歴史の扱い方は、歴史を味方につけることで自分の位置を明確にしプ レスティージを与えるか、あるいはファッションにもあったように、70年代のセンス、60年代のセンスの復活でした。しかし、今日ぼくが思ったのは、ある 意味で、価値検証を目指すための歴史(時間)の解体作業と編集作業に近づいているということです。もう何十年も西欧近代主義の終焉が盛んに語られてきたな かで、いったい西欧の使える価値とは何なのか?を積極的に見せているように思います。懐古趣味とみるのは間違いです。

このような思考経路になってくると、水の動きを表現しているインスタレーションもその先を見ているのかどうか、とても気になります。インスタレーションそのものが何を目指すかが曖昧になりがちであることは去年も指摘しましたが、赤ん坊の遊び場以上の価値があるかどうかは常に問われるでしょう。

面白い本を沢山出している出版社をみつけました。世界中の料理の盛り付けが写真に記録されているFood Bookなど、とても興味をひかれました。しかし、重い荷物を持って歩くと動きが鈍るので、購入するのは追って。

今年の展示をみて感じるのは、昨年上述した歴史の扱い方がブランド化でもなく、あるいは懐古調でもなく、記憶のなかでの再編という領域に明確に入ってきているということです。時代の変化への嘆きの時は去り、解体作業もある程度のステップは終え、過去の痕跡を比較的ニュートラルな感覚で使っている・・・これを感じたのはスピーガ通りのTod’sのウインドウディスプレイです。二日連続、このディスプレイを眺め、「この感覚に至るには時間がかかっているよなぁ」と思わないでもないです。

Category: ミラノサローネ2010 | Author 安西 洋之  | 
Date:10/4/16

ミラノサローネ2日目、ファブリカ・デル・ヴァポーレから活動スタートです。ここは工場跡地をミラノ市が文化的ビジネス活動のインキュベーターとして再生した場所です。公共の資金が入っている所で何をやるかは一つの指標になります。そして、橋本潤さんの昨年の作品「くものすのいす」が展示されているので、昨日の続きとして確認もしておきたかったので2日目の起点としました。橋本さんの作品は、「軽い椅子の歴史」というコンテクストのなかでジオ・ポンティのスーパー・レッジェーラなど歴代の代表のなかの一つに入っていました。ただ、これは歴史を純粋に語るためではなく、イタリアのメーカーが自社新製品をアピールするために作ったコンテクストです。こういう歴史を紐解く、あるいは歴史を自作するのはヨーロッパの定番手法の一つです。

スペースからすると不足感は否めませんが、このように「歴史に組み込まれる」ことは評価基準のなかに入るという意味があり、「くものすのいす」にとってポジティブであることは確かでしょう。ここでメーカーの人と話したのですが、ぼくは一つの質問をしました。「西洋の評価では重さが重要であったのが、今回のように軽さのコンテクストを語るのはどうして?」と。「確かにそうだったが、環境負荷の観点からすると、持続性が一番の優先順位にくる。再生できるのが一番であり、重さや軽さは二番目になるかもしれない。しかし、再生の難易度からすれば、軽いもののほうが可能性が高い」という説明でした。それが以下の写真にある部材です。竹のようにチューブになった木材で椅子を開発したのです。

なるほど、重さや軽さの相対的位置は「持続性」という要素で変化が生じるのかもしれないと考えながら、次のブースに行きました。そこには昨日のテーマ「クラウドのあり方」を発展させるヒントがありました。BricoというDIYの店舗で販売された商品を使用した家具や雑貨の提案です。Recession Design というこのプロジェクトは、世の中にあるエレメントを使って自分なりのモノを作ろうというコンセプトで、「これはオープンソースの考え方だ」との説明を受けました。

ITの世界におけるオープンソースという考え方が、モノやコトの世界に浸透してきていますが、Bricoの協賛を得たコンセプト構築は説得性があります。もちろん、この工夫を自分たちで独占するというのではなく、この提案をベータ版として多くの人たちが発展させて欲しいというのがプロジェクトの趣旨にあります。「クラウドコンピューティングにも近いんじゃない?」とコメントすると、「そう、そうなんだよ」との答えでした。それからいくつかを経て、トラックの中古タイヤを使ったバッグやヘルメットを製作・販売しているHK(Hell’s Kitchen) というイタリアのメーカーにぶち当たります。マイクロバスをショールームにしているのもなかなかです。

3年前から起業したようですが、時代の波に上手く乗っています。しかも、イタリアのイメージもトッピングで使い、ジーンズのディーゼルのような位置にいくのではないかという印象をもちました。「FIATの500のプロモーションとマッチしそうだね」というと、写真のパオラは「そうなの。でも500はディーゼルと組んだのよ」。「次は自転車とのコラボだね」とコメントすると、「まさしく次はそれなの」という答え。これでよく分かりました。彼らの客層や趣向はかなり煩い連中です。なにせ、バッグの一つ一つがナンバーリングのように差異化されています。日本でバニーズが興味をもったのも理解できます。

ここでぼくは世界をガラリと変え、モンテナポレオーネやスピーガなどのファッションストリートに行きます。ファッションサイドのチェックを一度したうえでインテリアを見ないと、視点の欠落が起こりそうだと感じたのです。ファッションメーカーがインテリアにどんどんと進出していますが、それはライフスタイル文化の方向としては当然でしょう。この逆はないのです。家具メーカーがファッションに手を出しても敗北は目に見えています。そういう文脈でファッションを見直しておこうと考えました。

そして、一度目をファッションに馴らしてみると、カッシーナがマエストロの作品たちをカラフルにした感覚がかなり自然に理解できました。「カッシーナよ、君もか!」と言いそうにもなりますが、昨日見たカルテルのブラックを思い起こすと、きわめて戦術的レベルでカラフルかどうかをセレクトしているような気がします。カッシーナの思い入れは、下の展示に象徴されるかなとも思います。

ガエタノ・ペーシェは以前から気になる存在ですが、ここまでやると痛快な気分になります。一歩も二歩も出ると、それはトレンドリーダーってこうだったんだという気になるのです。

だから、そのデザイナーのインタビューにも人だかりができるのも故なきことではありません。

そう、一つ忘れていました。ダ・ドリアーデで発表したFabio Novembre のチェアはどうしても頭にこびりついて離れません。見本市会場でひっかかったのですが、今日、やはりこれは暗示的だと感じました。なぜなら、これはクラウドのコンテクストに嵌る表現ではないかと思えて仕方がないのです。

彼の尻を模したチェアとは違う何かがある。それは時代の影響かもしれませんが、このステップの進みが意味するのは、本人が思っている以上かもしれません。

Category: ミラノサローネ2010 | Author 安西 洋之  | 
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