ミラノサローネ2010 の記事

Date:10/4/26

今日、ピアノの発表会がありました。奥さんがイタリア人の子供たちにピアノを教えていて、年度終了前の発表会をスフォルツェスコ城近くの音楽学校の部屋を借りて開催しました。そこで毎年感じることがあります。決して技術的に上手いとはいえなくても、「この曲って、こんな感じに弾くと、それらしくなるよね」という印象を受ける子供たちが多いことです。指が滑らかに鍵盤の上を動かなくても、「それらしい」感じには聴こえる。これはどういうことでしょうか?ここでよく書いている、「世界観の把握」あるいは「世界観の構築」という問題にどこかで関わってくるのでしょうか?子供たちのレベルで、こういうことを語るのは大袈裟でしょうか?

一軒家ではなく何階かのビルにいると、外の天気にひどく疎くなります。雨の音も風の音も聞こえないし、窓の外を見ただけでは、かなりの量の雨ではないと視認しずらい。あるいは窓ガラスに雨が吹きつけていないと分からない。人の生活が自然現象とは無関係に進んでいる、あるいは進むことができると思い込んでしまうのもいたし方がないでしょう。そこで観葉植物で擬似自然共生空間を作ったりするわけですが、どう転んでも、これでは自然との一体感など得られません。だから、自然との一体感は意図的に機会を作らないとできないという状況にあります。また、精神的安定は往々にして自然と接することで得られるので、その意味でも自然との関係をどう維持するかは、極めて重要なことです。

さて、上記はサローネのサテリテで展示されていた作品に言及するためです。慶應大学のSurroundings Swellの作品、フリミフラズミを見て説明ブースで聞き、概要は理解できて面白いと思っても、それ以上には咀嚼しきれないままでした。コンセプトの説明は、「ユビキタスコンテンツショーケース2009」から借用します。

フリミフラズミは、雨の兆しを照明の灯りと音響効果とで直感的に報せる間接照明型のプロダクトです。更新される気象予測をウェブから取得し、その予測変化 に呼応して、照明と音響の効果が変化します。フリミフラズミのコンセプトは、雨漏りの情景として設計してあり、雨の兆しを感覚的に報せるために、降水量予測の情報を取得し、その量や降り続く時間の変化によって、灯りと音が反応します。

降水量の違いで、雨粒の落ちるタイミングが変わる雨漏りの景色を連想する ような灯りと音の演出によって、雨の強さや降り続く長さを感覚的に報せます。さらに、複数あるフリミフラズミの効果が連携する仕組みを持たせることで、そ れぞれの音響効果の重なりが静かな環境音楽のように奏でる工夫をしてあります。フリミフラズミは、突然の雨にずぶ濡れることを防ぐだけでなく、気が沈みが ちな雨の日を楽しく演出したり、雨の静かな情緒を演出することも意図しています。

ぼくが咀嚼しきれないのは、自分の想像力の欠如かなと思っていたのですが、プレゼンのビデオを今日見てみて、「この動画がブースで見れるべきだったのでは?」と考え始めました。ブースには、ビデオの中にあるスピーカー+照明が置いてあるだけで、もちろんその周りは他のブースであり自然現象は建物の外に出ないと分かりません。そこにコンセプトの一部が物理的にあるより、システム全体が鳥瞰できる展示をしたほうが分かりやすかったのではと考えるのですが、このビデオで表現している情緒性から推測するに、ブースでは情緒性を前面に出しシステム説明はブラックボックス化するよう図ったのかとも想像します。これはずいぶんと勿体の無いことをしたのではないかと思います。できれば、ロジックを最初に説明したうえで、情緒性の演出をしたほうが、あのくらいの広さでは適当ではなかったのか?と思案するのですが、見学者のフィードバックはどうだったのでしょうか・・・。

いずれにせよ、少なくてもヨーロッパ市場を相手にした時は、世界観を理解させることを第一優先にするのが妥当であろうとぼくは考えています。子供たちでさえ、世界観などという言葉とは無縁でありながら、明らかにそうした総括的なコンセプトの掴み方をディテールより早く習得していると思えることを前提にすると、コンセプトの伝え方をサテリテでは自ずと変えていく必要があるのではないかと思うのです。フリミフラズミ自身は可能性の高い考え方を示しているコンセプトなので、このプロジェクトを実行した皆さん(上の写真)の今後に期待しましょう。

Category: ミラノサローネ2010 | Author 安西 洋之  | 
Date:10/4/23

3月初め、東工大の世界文明センター主催のシンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」2日目、「日本的未成熟をめぐって」で、映画監督・黒沢清は自分の作品について海外でどう批評されるかを語っていました。それに関し、ぼくは以下のように書きました

黒沢清が自分の映像を「スタイリッシュで静か」と受け止められることを発言の基点においていましたが、学生相手にベーシックな話をしたとすればそれはそれ でよいのですが、いずれにせよ、そうした「見られ方」をすること、あるいは自分自身でももう一つの視点にたつと「そう見えること」を当たり前の認識をもつ ことは基礎的な素養でしょう。

ここでぼくが言いたかったことは、黒沢清の映像が「スタイリッシュ」「静か」と評されることを、まだあまり経験のない学生たちに「ぼくの作品はこう見られるんだよ」と教えているのなら結構。しかし、ビジネスをしている人達が、こういう話で感心していてはいけないということです。こう見られることを常識として知っていなければいけないのです。

今年、ファブリカ・デル・ヴァポーレではジョヴァンニ・レヴァンティ(Giovanni Levanti)の作品展を開催していました。昨年のパオロ・ウリアンに引き続き、巨匠と呼ばれる年齢ではないが20年以上の実績をもつデザイナーの作品を陳列しています。

「そういえば、こういう作品を10年近く前にサローネで見ていたな」と思い出します。Campeggiがマジストレッティの作品で印象に残るスタンドを作っていた頃、このレヴァンティは同じ時期か、それより少し後に上のような作品を発表していたのでした。「リラックスできる空間」が90年代後半頃からスポットを浴び、若い層に寿司やマッサージあるいは温泉が普及しはじめたのは、この時期だったのではないかと頭の中の記憶を探ります。PCを膝の上にのせてネットを使うほどにはまだ無線が定着していなかったけれど、ケータイでだべることは可能になっていた・・・・そうか、リラックスとITは同時進行で普及している。いずれにせよ、リラックスには静けさを伴うことも多いですが、遊びのある高揚感は必ずしも静けさとは両立しません。

どこかに動きを感じる作品の数々を眺めます。今回、日本のデザイナーの作品に接しながら、「どうして、こうも静かなんだろう」とその理由を考えました。今週、ライターの方と話していたときに言われたのは「日本人は人とぶつかることを避けますからね」ということでした。そこで、説得的であることは平和を目指す態度ではない、暴力的要素を含むという認識を正すことが必要なのではないかということを話したと月曜日に書いたのです。同時に、トリエンナーレのボビザでみた作品の数々は完成度は低くても、説得的であることを厭わない風に見えるとも記しました。つまり、日本人の作品が静かであるのは説得を避ける態度に理由を見つけられるのではないか、とも考えたわけです。

やはり今週、日本の広告業の方とこの話をしました。彼は「平和であるには、相手がどの点がOKでどの点がNGかを相互認識する必要があり、納得という状態が重要だ。それには対話が大切」と語ります。ぼくは、「あることに納得するのは、その全体像なり価値体系が分かるから。ある人の性格が分かることによって、その人の行為をエゴとは思わなかったりする。したがって、その全体を知るために対話が大事なんだと思う」と話します。対話がキーであることはお互い一致しています。こうして考えてみると、日本人の作品が静かなのは、対話(あるいはコミュニケーション)を求める態度(意思)の弱さの反映なのだろうか・・・ということになります。

Category: ミラノサローネ2010 | Author 安西 洋之  | 
Date:10/4/22

4月14日にサローネを巡りはじめ考えたのは、意図的に大きなサイズと雲状の表現です。こういう表現を少なくないデザイナーが採用するバックグランドには何があるのか?が気になったのです。以下は、ミラノサローネ2010(19)「クラウドを感じるとき」のいわば書き出しです。

意図的にサイズを大きくすることにどういう意味があるだろうか・・・ということを上の写真のスタンドを眺めながら考えました。何年か雲状の表現が目につきますが、フワフワした気持ちの良いイメージ以上の何かを象徴するものとして考えたことはありません。が、上の大きな照明を見ながら、フッと「いや、雲がもつ収縮性や膨張性にポイントはないだろうか。雲が異常に大きく低く垂れ込んでも、その大きさを受容する土壌変化を物語っているのではないか・・・・」と思い始めました。

サイズの大きさでいえば、ある抑圧的な空気に対する反動という見方ができるでしょう。単色のミニマリズムの時代が去り、カラフルで大げさな素振りが歓迎されるというわけです。上の写真のフロアランプもやや大ぶりです。そして雲状については「オーガニックではない自由な動き」という括りで考えていました。オーガニックなカタチとはこの場合、細胞で想像されるカタチを指しています。下記は雲のようにも見えますが、デザイナー本人に確認すると幾何学模様が発想の原点にあるといいます。「ここに雲の発想はないのか?」と確認しましたが、答えはNOでした。確かに、雲がイメージする膨張性には欠けるかもしれません。

市内のホテルのロビーに吊るした紙でできたオブジェも、雲にモチーフがあるようにも思えますが、そこに本人はいません。ぼくは気になってしかたがありません。

吉岡徳仁のクリスタルの球体は雲ではありませんが、霧がかった空間に浮かぶ作品は、雲の合間にみる恒星ではないかと考えることができるのではないかとも思えてきます。

このように雲の意味を考え続けてきた時に、大聖堂の横にある王宮で「FUOCO(火)」という展覧会を見ました。現在、アイスランドの噴火でヨーロッパは大混乱をきたしていますが、こういう破壊的な役割をする火もある一方、火は再生の象徴であったり、光を生み出すエレメントでもあります。あるいは情熱を表します。古代から今に至るまでの火の概念の西洋史を、モノ、絵画、映像などで説明していきます。火は多義的な存在です。このように西洋の歴史において多義的な存在が生活の中心にあるのに、西洋は二項対立的に考える伝統があるという言い回しだけが流布してきたのだよなぁと、ぼくは思います。目が曇るというのは、こういうことなんだ。

上の照明器具メーカーの人は「この大きさは屋根なんだよ。その大きさに覆われることによる何となしに感じる安心ってあるでしょう」と語ります。曖昧性は日本だけの十八番でもないし、その曖昧性を包括するのが大きな照明に象徴されているのかなと想像していたぼくは、FUOCOの展覧会において、ものすごく大きな枠組みでボーダーを超えて考えることを希求する気持ちが雲状の表現にはあるかもしれないと思いつきます。そこで、まったく雲とは関係のないカタチですが、昨年のアートフェアでみた作品が頭のなかでリンクしてきます。アルファベットを象ったミラーが周囲の事象をそのまま映し出す。その名もBORDERS(境界線)

「仮想化」「拡張性」というクラウドコンピューティングの特性は、デザインやアートの世界と切り離されているようでいて、実は深層のところでは液体が流れているのではないかと思うほどに考えの傾向を共通化させている・・・と感じる一瞬です。

Category: ミラノサローネ2010 | Author 安西 洋之  | 
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