ミラノサローネ2010 の記事

Date:10/5/17

ヨーロッパ文化部ノートに「ローカリゼーションワールドを考える」というエントリーを書きました。6月7-9日にベルリンで開催されるローカリゼーションワールドをサイトでチェックした感想を記したのですが、これを見て分かるのは、ローカリゼーションインダストリーとは、現在大きく二つに分かれ、一つは翻訳です。仕様書やマニュアルを対象市場言語について 1)ローカルユーザーが瞬時に分かるように質の高い翻訳を提供 2)この作業を効率よく正確に行う ためのサービスです。同じ内容の繰り返しをどうデータ化するかもビジネスのネタになります。二つ目はIT業界、特にソフトウェアのローカリゼーションサービスです。基本的には翻訳と趣旨は同じですが、インタラクティブ画面のデザインのように視覚情報ー文字も視覚情報ですがーのローカライズもテーマになります。この翻訳とソフトウェアのローカライズから派生した形として、検索エンジンのSEO対策として、「この国のこの市場で受ける言葉は何か?」を国ごとに提供するというサービスもあります。ローカリゼーションインダストリーとはかなり限定された範囲にとどまっており、料理、食品、日用品などの世界でのローカリゼーションはインハウスのノウハウになっているのか、これは考えさせられる状況です。

さて、この「ミラノサローネ2010」は、特に昨年12月から今年3月にかけ、ヨーロッパを市場として考えサローネに参加する人たちを想定して書きました。そのなかでローカリゼーションの意味と必要性を色々なアングルから語ったのですが、ローカリゼーションワールドのサイトを見ながら、「これは、ローカリゼーションの重要性について、もっともっと色々な人が語り考えないといけないな」と思いました。「グローバルに考え、ローカルに活動せよ」というせりふは世の中に溢れかえっています。しかし、その割りに「ローカルに活動せよ」の中身がよく吟味されていない。そういう印象をもちます。もちろん、それはグローバルに考えるとは、いったいどういうことを言うのか?という前提が不明確であるということもあります。地球規模といっても、それがビジネスの世界で本当に文字通りの地球規模であるかどうかはあまり問われていません。普通は、かなり恣意的な文脈で使われています。しかし、それが悪いことではなく、今話しているグローバルとはどういう範囲で使っているのかの前提を明確にすることが大事なのです。そしてローカルも同じです。そういう前提をはっきりさせないために、「グローバルに考え、ローカルに行動せよ」も分かったような分からないようなキャッチフレーズに留まるわけです。

「山下範久『ワインで考えるグローバリゼーション』を読む」で、不法滞在の外国人を雇っているイタリアにある工場で作られたブランドのバッグに対抗し、「われわれの工場は100%イタリア人の従業員である」と謳っている会社があることを以下の流れで紹介したことがあります。

グローバルな現象が多くなればなるほど、もう一方で生産地域の強調が行われます。メイド・イン・EUではス ペイン産と同じにみられていやだというイタリアの生産者は、メイド・イン・イタリーという表示にこだわり、南イタリアと差別化したいトスカーナの会社は、 メイド・イン・トゥスカニーを謳い文句にしようとします。地域を狭めることによって、自己の存在を際出せていくのです。しかし、ここにも落とし穴があり、 土地だけでなく、作る人の国籍はどうなのか?という課題があります。

この生産条件の列挙は、もう片方で販売ターゲット枠の明白化をも意味します。「こういう価値、ああいう価値をあなたは見逃しませんよね」と迫ってくるわけです。「見逃すのは賢い消費者ではない証拠だ!」という反語表現を含んだアグレッシブさが、ここにはあります。押しつけがましいといえばそうなんですが、その迫力に押され気味になるのが悪くないと思える。そういう微妙なポイントに立っているといえます。

メイド・イン・カッシーナという表記で限定化を図るアプローチがありますが、ハンドメイド・イン・イタリーと生産方法をアピールするのも一つです。ローカリゼーションは、基本的に市場への適合化ですが、情報発信の方法から考えるべき事柄ではないかとも思います。いわば、態度というか佇まいの次元から問われるテーマかもしれません

Category: ミラノサローネ2010 | Author 安西 洋之  | 
Date:10/5/10

ネット上で既成マスメディアに対する批判が凄い勢いです。が、ネットを一歩離れると、「そんな風、どこに吹いているの?」という感じ。それがまたネット信奉者には頭がくるようです。ネットこそが時代を作っているのだという意識が強いからです。しかし、イソップの北風と太陽のように両方あってナンボの世界ですから、どちらが正解で世の中が成立することはありえないのです。全ての情報の編集権を人に委ねるか、自分で全ての編集権をもつかという選択は現実的にありえず、およそ全ての一次情報にタッチできる人間も機関も存在しません。つまり、すべてに対して現実感をもてるというのは幻想でしかなく、あることには現実感をもてるが、その他のことには「現実感らしい」ものがあり、それ以外は「現実感がまったくもてない」というレイヤーで世界は成立しています。だからこそ、「リアリティがあるね」という表現が優位性をもつのです。

ミラノサローネ2010(23)において、自動車メーカーの予算は家具・雑貨メーカーと比較して大きすぎるがゆえに、普段はカーディーラーのショールームで普通に見るクルマも、サローネ期間中にクルマの展示をみると違和感をもつことがあると書きました。そのときはシトロエンDS3を槍玉にあげました。上段のフレーズを使えば、リアリティとの乖離が問題となるわけです。かといってクルマの全てが「はずれ」というわけではなく、FIAT500はかなり馴染んだ空気を作っています。これはサイズの問題でしょうか?シトロエンDS3との関係でいえば、これはサイズではないでしょう。けれどサイズがまったく関係ないとも言えません。

何故サイズが関係ないとも言えないかと言えば、基本的に雑貨と家具の延長線上のサイズで無理がないことが重要だからです。いくら大きなサイズのソファを見た後であろうと、その次にビッグサイズのSUVがくれば、「えっ!」と驚きます。あるサイズやある世界観で感性が研ぎ澄まされてきた時に、あまりに距離感のあるモノをみると、意外感が先立ってしまいます。意外感が強烈な印象を残すこともありますが、殊、雑貨・家具ラインとの協調性でいえばクルマは分がどうしても悪いです。

サイズにプラスして見慣れたデザインかどうかも協調性を左右するでしょう。FIAT500はオリジナルの復刻版であることが有利に働いています。目に馴れたモノは、若干サイズで延長線上を踏まなくても、それを許す目が受け手にはあります。だからこそ、これらの配慮をあえて全て無視した「個体」もアピール力があります。しかし、この場合、それは一つで十分です。

リアリティという評価軸をサイズだけに絞って観察するのも面白いかもしれません。

Category: ミラノサローネ2010 | Author 安西 洋之  | 
Date:10/5/4

この春、小学生の息子が1週間の林間学校に行っているとき、同級生の母親が亡くなりました。同級生の女の子が沈み込んだその晩、クラスの何人かが「彼女を笑わせて明るくしようよ」と提案し、皆が一斉に同意したそうです。半年前に他のクラスの子が難病であの世に逝ってしまった経験をもつ彼らは、死が魂が単に雲の上に移動することではないことを分かっています。「とにかく、今夜は笑って過ごそうよ」と決めた彼らをみて、3年間担任を続けてきた先生は生徒たちの成長をとても眩しく感じました。その翌日、彼らは他の先生に連れられミラノ市内に戻るクラスメートの背中を眺めます・・・・。

前述した難病で唯一の娘を喪失した両親は、葬儀から半年ほどして二頭のポニーを学校に寄付しました。この学校はある有名な教育学者がはじめたいわゆる体験教育の実践校でありー開校した100年前には前衛的な教育方法だったはずー、市内にありながら、自然環境との積極的な関係を重視しています。広い校内には小さな牧場や畑があり、生徒はそこで科学などを学ぶわけです。そういう学校だから、二頭のポニーなのです。子供たちは亡くなった級友を偲び、親は娘が今も仲間に囲まれている・・・と思う。

こういうエピソードを耳にし目にするにつけ、常に前向きであるとはどういうことなのかを考えます。親を亡くして沈んでいる友人と共に泣く。しかし、その後にすぐ気分を一転させようとする。しかも小学生。精神的にハイであることを良しとし、そのために必死になる。悲しむ友人をそっとしておくだけでなく、どうにかして前進の道を探る・・・・こういうことを先生は「成長した」と言う。停止は退歩であり、何かアクションすることで、次のモーメントをポジティブに作っていく気力の強さを思います。ロベルト・ベニーニ主演の映画『La vita e’ bella』ー第二次大戦時、息子に対してはユダヤ迫害の現実を徹底的に笑いで隠し通したーは、世界の風景を自分で作っていく可能性を追及したともいえますが、友人の心の痛みを笑いで包み込んでやろうという小学生の発想はまんざら主題として無縁ではないとも感じます。

ぼくは「ミラノサローネ2010(26) クラウドを巡る散策」で、クラウドをモチーフにしたデザインが目につく傾向を(19)で示唆した内容を一歩進めてみました。そこで「ものすごく大きな枠組みでボーダーを超えて考えることを希求する気持ちが雲状の表現にはあるかもしれないと思いつきます」と書きました。ここで次に言えそうなのは、雲状の表現とポップでカラフルな表現には共通する現状打破志向が潜んでいないか?ということです。曖昧性の肯定であり、曖昧性が纏う状況への希望ではないか、と。ここにはメンタルなタフさに裏打ちされた「とにかく、前に進んでみようじゃないか」という意思がある・・・ように思えてしかたがないのです。

それはなぜか? ピアノの演奏でミスしても、「それで人生が変わるの?」と食いさがる6歳の子を傍にみて、親が亡くなって悲しい顔をした友人を笑って力づけようという仲間の存在を耳にして、そのタフさの存在は認めざるをえませんーそして、このタフさは世界の多くの地域で共通項としてあるー。そして、この2001年の911以来どうにも淀んだ空気が一掃されずに右往左往する世界のなかにあってーそろそろ10年経過も目の前に迫ってきて、われわれは新しい世界の予感をもっているのか?ー、その精神状況においては、この数年間あった「今、ミニマルな表現なんてやってられない」という空気が厳然とー焦りとともにー強く流れ出しているのを感じます。この気分の共有をどこまでできるかは、かなり大事なテーマなはずですが、2011年911まで予感への問いかけはさらに強まっていく一方でしょう。

Category: ミラノサローネ2010 | Author 安西 洋之  | 
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