ミラノサローネ2010 の記事

Date:10/1/20

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ミラノサローネで日本から出展している作品を見ていて、思うことがあります。それは見方によっては迷いに見えることです。多分、出品している本人は迷っているとは意識していないでしょう。ぼくが感じるのは、作品が誰を対象としているのかが、分かりにくいのです。日本市場へのPRであっても、ヨーロッパ人に賞賛されたという物言いが日本でできるアリバイを作っておきたい、というレベルの話ではありません。「もちろんイタリアで評価されたいけど、スカンジナビアでもいい話があればいいね。でも日本の人にも褒めて欲しい」という気持ちがどうも透けて見えるような気がするのです。肯定的な見方をすればグローバル市場を目指していると言えますが、否定的な見方をすれば対象マーケットを絞りきれていないと評することになります。

更に言えば、グローバルに通じる文化的共通性への配慮不足というより、もともと文化差に対する感度があまり高くないと想像できます。日本が多数の他国の文化を採用する「文化的雑種性」を強みとしてきたのは確かですが、これは逆に、広い荒野をぼんやりと眺める癖がつきすぎているのではあるまいかと思うのです。「非雑種性」ー加藤周一はフランスや英国の文化を「純粋」と定義し、ドイツやロシアのそれをと区別しましたが、ここではヨーロッパ一般に対して「非雑種性」という表現をとりますーの国のデザイナーたちは、そこそこの広さの公園のベンチで見られる風景をベースとしているように見えるのです。意図的に公園にいるのではなく、そもそもが公園にいる人たちであり、荒野に佇むなど考えたこともないかもしれない、そういうニュアンスです。そういう意味では、日本も荒野に佇むのは明らかに結果としてそうなっていると表現すべきかもしれません。

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公園の人たちは、公園の外についてはあまり知識をもっていませんが、それなりに公園の事情を良く知っています。必然的に何かを考える時には、公園で日常会う人たちの顔を前提にします。たまに外の世界を思い描くこともありますが、およその場合、作品の名前ー特に女性の名前!ーと暗喩的レベルまでであって、それ以上にはいきません。それと比較すると、荒野の人たちは輪郭がぼけてしまうのです。具体的にいえば、ミラノのデザイナーはスイス、ドイツ、フランスあたりの国との文化差は日常レベルーバカンスでの旅であってもーで勘がついており、意図せずとも、それを踏まえアイデアを練ろうとします。異文化の日常性です。しかし日本の多くのデザイナーにとっての異文化は非日常的であり、異文化に対して意図的であっても、「ぼんやり」の度合いが高くなります

とするならば、日本のデザイナーはターゲットとすべきマーケットをさらに限定的に考えるべきではないか、というのがぼくが思うところです。リチャード・サッパーの「自分にしかできないものをつくる」というスピリットを紹介したところで、ぼくは差別化のためのリサーチをほどほどにすると書きました。いわば公園の柵の向こうまで見ようとしなくていいのだ、もっと柵のなかでじっとベンチを暖めながら考えるべきではないかと、かなり率直に思っています。もちろん、この「ミラノサローネ 2010」の趣旨に沿った、「ヨーロッパ人をターゲットにする」という文脈での話です。

Category: ミラノサローネ2010 | Author 安西 洋之  | 
Date:10/1/14

ぼくの奥さんが日本で買ってくるものの一つに、サランラップがあります。イタリアで売っているサランラップはスパッと切れにくく、時としてカット部分が直線ではなくなります。残った料理を冷蔵庫にしまう為、この皿の直径に合わせて、この程度のサイズのサランラップを切ろうと思い、しかし、それが切れが悪いために微妙にカバーできないのはとても悔しい・・・・と。およそ、もう一度切りなおすのは不経済です。それで日本製のサランラップ、それもサランラップそのものというより、サランラップのケースです。あそこに装着されているカッターがよいというわけです。

以前、ミラノの刃物のセレクトショップ、ロレンツィのインタビューで書いたように、ヨーロッパにおける「切る」とは日本の刀のようにスパッときるのではなく、どちらかというと力で押切るところがあります。彼は「結局のところ、日本人は刃物の切れ味に多大なこだわりをもったからとしか言いようがないと思う。これはヨーロッパがもちきれなかったこだわりだったのだろう」と語ったのですが、このどうしようもない「こだわり」の部分が、サランラップにも表現されているのです。日本料理では厨房で全て切るが、西洋料理ではテーブルでカットするという場面の違い以上のものがあると、ロレンツィは説明してくれました。

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「どうしても出てくる日本らしさ」の一例です。少なくても、このサランラップにおいては、ナイフと違い、カッターは切れ味がよいにこしたことはないとぼくには思われます。したがって、仮に日本のサランラップをイタリアで売る場合、カッターは日本の味をキープし、パッケージをローカライズするのが妥当であるということになるでしょう。一方、日本の包丁はヌーヴェルキュジーヌのコックだけでなく家庭にも入り込んできていますが、まだ大きなマーケットにはなっていません。そこで、包丁のパッケージはローカライズしないことに意味があるでしょう。特別感や違和感があっていいのです。AKB48の世界と似た位置です。

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昨日、日経デザイン編集長のブログに花王の社長にインタビューした話が掲載されていました。花王は売り上げを海外市場に求め、海外比率を3割から5割にする計画のようです。ブログの書き方によれば、いわゆる新興国での市場開拓に力を入れるように読み取れます。

そのためには、メガブランドを軸にした統 一イメージの訴求とともに、国や地域によって異なる生活習慣や経済状況に細かく対応することが求められる。

こうした過程では、パッケージデザインの役割が重要になる。イメージの統一感を図りながら、サイズや素材などを個々に見直さなければならない。また、国内向けのパッケージで開発したエコデザインやユニバーサルデザインの応用も求められる。

しかし、エコデザインやユニバーサルデザインを導入した国内向けパッケージを、海外の新興市場などでそのまま使うことは難しいと、尾﨑社長は言う。理由は コスト。新興国市場を開拓するうえで、コスト競争力を高めることは不可欠。高品質の日本ブランドだからといって、日本国内と同等の価格では競争にならな い。あらゆる面で、コストダウンが求められる。

花王の日用品市場は電機業界でいえば白物家電の世界です。携帯電話のローカリゼーションはユーザーの地域文化より世代文化が優先されることがありますが、白物家電はユーザーの地域文化が尊重されるフィールドです。日本の全般的企業文化をグローバルなそれにしていくには、日用品と食品分野の海外市場の実績が有効に働きます。味の素やキッコーマンなどのローカリゼーションの苦労話が他の分野に生きるのです。ニンテンドーDSやソニーのPSの市場は、どこの国でも「イチ、ニー、サン」と声を出す空手や柔道の論理だといってよくーまたまたアイドル文化を中心とするコンテンツ業界もー、ここに線をひかないといけません。何度も書いているように、クルマもハイブリッドやEVと高級車では、受けいられる表現言語が違います。後者が地域文化重視です。花王の海外戦略が楽しみです。

ミラノサローネに出展するあなたは、あなたの発表する作品が、いわばローカリゼーションマップージャンルや製品の種類によってローカリゼーションの必要度が異なるーのどこに位置するジャンルなのか? それを明確にすることが大事です。

Category: ミラノサローネ2010 | Author 安西 洋之  | 
Date:10/1/12

昨晩、年末に放映された日本のTV番組をみていて、少々考えさせられました。内容は日本のコンテンツを輸出するプロジェクトの紹介です。秋元康がプロデュースしているAKB48を「ネタ」に海外市場でビジネス化を図るというものです。「ネタ」としたのは、ビジネス化はAKB48そのものの紹介より劇場コンサート、TV、ネットをセットにし、このビジネスモデルを売るからです。現在、各国で似たTV番組ーオーディション番組やクイズ番組などーがそれぞれの国のタレントで放映されていますが、それはフォーマット販売の成果です。AKB48も、各国で各国の「可愛い女の子」が日本と同じシステムで競い合うことを提案しています。週刊ダイヤモンドWEBに番組の要旨が紹介されています。秋元の言葉があります。

「私の学生時代は欧米にあこがれていました。音楽もファッションも、そんなものを作りたいと思っていました。しかしAKB48は違います。アメリカ風に もフランス風でもないこれが日本だというもの。つまり納豆なのです。クリームチーズを入れて食べやすくしたりしません。海外のバイヤーにとって異質で、強 烈な経験だったことでしょう。だから逆にそれに惹かれたと思います」

コンセプト自身については、一切、ローカライズを考えない、いわばプレイステーション的発想です。プラットフォームを自分で構築する考え方です。フォーマット販売というコンセプトは良いと思うし、秋元がカンヌの見本市での商談から「簡単に外国人に納得されないのは、いいことだ。すぐOKと言ってもらえるものは、中身が薄い。NOの回答が続く内容にこそ、容易に真似されない濃さがある」といった主旨をインタビューで話しています。かなり意味深です。これは「考え方の輸出」ですから、説得には時間がかかります。だからこそ、エッセンスを守れるというのは傾聴に値する意見です。

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ヨーロッパで東洋人と結婚をした男性たちが、割とよく語っていることに、「強すぎない女性がいい」という表現があります。どんなに強いと思われる東洋人でも、ヨーロッパの弱い印象を与える女性よりは「癒される」と言った意味合いが含まれています。AKB48のドキュメンタリーを見ながら、考えたのは、このことです。AKB48に熱い人達はネットで日本のアニメなどに情報を集めている人達ですが、そういう存在は確かに一定の層を占めています。その彼らが、社会のメインの価値を作る人ではないが、無視できるほど小さくもなく、且つそのレイヤーは増加することはあっても、減少することは当分なさそうです

米国と違いヨーロッパのサブカルチャーは、もっとメインカルチャーと対峙しています。そして、それがメインカルチャーあるいは社会の風景のなかに視覚化されることは少ないです。今のところポケモンの飛行機がヨーロッパの空を飛ぶことはないでしょう。イタリアにかなり強烈なポップ調銀行(以下、インテリア)があります。

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まったく銀行らしからぬインテリアですが、これがアニメのキャラクターで親しみを強調することはないのです。ですから、AKB48的な「可愛い女の子」を受け入れる社会のなかでのスペースの広さとポジションが常にチェックの対象になります。そこには、往々にして「幼児性」というイメージが想起されるからです。これは社会的に視覚化するのではなく、個人的に隠す方向にいく傾向にあります。

今朝、たまたま日経ビジネスオンラインを読んでいると、アウディのデザイナーであった和田智さんが書いている記事に目がとまりました。「「こども店長」に感じる違和感 ドイツのおやじはなぜカッコイイのか」というタイトルです。

仕事以外でも日本とドイツは真逆な国と感じることが多くあります。日本の男性に、「美人と可愛い女性、どちらがいい」と尋ねれば、9割方が可愛い女性と答えるのではないでしょうか。私の印象では、ドイツには美人はいても可愛い女性はほとんどいませんでした。

概して独立心が強く、男性に媚びたりしない。男性、女性にかかわらず個人としての意識がとても高い。そこで「女性に優しいデザインです」「女性のためのデザインです」なんて言ったらぶっ飛ばされるのではないかと思うほどです。したがってドイツにはかっこいい商品はあっても、可愛い商品はまずないのです。媚びたり、甘えたりたりする商品が許されないのです。

先に書いたように、「可愛い」の視覚化はメインカルチャーと馴染まないもので、またドイツのクルマ文化とも縁遠いものですが、ランチャのイプシロンクラスであれば、違った文化もあるでしょう。要するに趣味は多様だし、視覚化していないけれど心の底では抱えているフラストレーションがあることを今まで書いたわけです。そのフラストレーションへの対応としてAKB48がマッチするかどうか、これがテーマになると思うのです。外国語版のグーグルの画像検索で日本をインプットすると、ロリータ系の画像も多いですが、これをどう読むかです。

もう一点、和田さんの視点で気になったのは、この後に和田さんは日本では子供に媚びていると書いています。水谷修さんの『ドラッグ世代』のレビューで引用した部分をペーストしておきます。もう少し時間軸と社会全体への目配せが、和田さんの主張に加わるといいだろうと思いました。

これまで大人たちは、若者が努力して大人に近づこうとすることを当たり前の こととしてきた。これは、大人に権威があり、子供が大人になることを夢として持つことができた時代の話である。今は、通用しない。若者たちは、多くの大人 がただ自分たちより年をとっているつまらない存在であると感じている。私たち大人が若者に近づいていかなくてはならない。そして、大人も捨てたものではないことを若者に伝えなければならない。

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