ミラノサローネ2010 の記事

Date:10/8/19

ミラノサローネ2010で書いたと思いますが、サテリテで日本人デザイナーの作品をみて感じるのは、対象マーケットの曖昧さです。「イタリアあるいはヨーロッパで売れればいいけど、米国だっていい。まあ、少なくても日本のメーカーが興味もってくれないかなぁ」という欲があってもいいのですが、それがそのまま視線の拡張を招いている。「なんとなくの世界」「なんとなくのグローバル」に流されがちで、TV番組でみたよく分からぬカナダの家庭の風景、フランスの雑誌でみたスペインの別荘、自分で旅行したトスカーナ・・・で出来上がったヴァーチャルなグローバルイメージに自分のデザインを売り込もうとしているようにぼくの目に映ります。それに対して、ヨーロッパのデザイナーは、多くはヨーロッパを当然のように市場としています。それも、イタリア人であれば、実際に旅行したスイス、ドイツ、フランスあたりの日常生活経験をベースにコンセプトを考えているのがかなり明確です。

これは、世界各国の料理が外食レベルではなく、家庭料理として浸透している稀有の国である日本の文化的伝統をあらわしているともいえます。が、世界をマーケットにしたとき、あまり有効に働かない側面もあるというわけです。相手が曖昧だと考えるものも曖昧になるのです。「自分の相手は、ここだ!」と区切ったほうがコンセプトはメリハリのきいたものになります。その究極が、「俺の欲しいモノを作るんだ」という態度です。それはそれでちっとも悪くありません。それが問題になるのは、ある規模の企業が世界各地である規模の金をこれで動かそうという際、何らかの説得材料が必要になるときです。「そのマーケットのことは何も知りませんでした」と売れない敗因を語るわけにはいかず、だいたい、法規や言葉はいざしらず、習慣や趣向がまったく違って売れない市場をどこかと最低限でもおさえようとしないのは無鉄砲もいいところです。結局のところ、売れないとしかたない・・・。

だから、最初のコンセプトがどんなに局地的であってもいいーいや、局地的ほど面白いものが出る可能性があるーのですが、それをビジネスとして展開するときには、よりマーケットが具体的に見えていたほうがいい。その点で、ヨーロッパのデザイナーの方がギャップを持ちにくい事情があり、日本のデザイナーは不可避的にギャップを持たざるを得ない事情があるといえるでしょう。したがって、努めて市場の大きさを自覚的に把握する必要が日本企業にはあります。にもかかわらず、そこは米系企業の何歩か後ろをいっていることが多いのです。つまり、米系企業はグローバルとはどの程度の広さを指すかをより実感している。10ヶ国語の言語範囲なのか?40ヶ国語の言語範囲なのか?これらの違いをより知っている。だから、世界市場に販売するときのグローバルガイドラインーあるいはローカリゼーションガイドラインーを用意することが当たり前にできるのでしょう

今週の月曜日、JIDA事務局で「ローカリゼーションの基礎を学ぶ」という勉強会を開催しました。定員を大幅に超える方たちが集まりました。翻訳やソフトウェアを対象にローカライズのプロセスをライオンブジッリ社の古河さんと永島さんに説明してもらいました。増加する機械翻訳やクラウドを使った翻訳メモリーなどテクノロジーの行方も含め、ぼく自身、大変興味深い話題が豊富でしたが、一番のポイントは、グローバルを自分で規定し、そこにおけるガイドラインを構築するという発想の重要性だと思いました。これができてこそ、プラットフォーム構築に取り掛かれます。何よりもまず、自分が世界の広さを決める・・・この覚悟です。これは前回、書いたi.schoolのWSにも通じることです。

Date:10/5/25

デザインはリアルに存在するカタチを模すことがあり、それが人の顔や姿であったり、あるいは動物のカタチをとることがあります。何回か書いたように雲をモチーフとすることにみるように、自然現象からイメージを引っ張ってくることもあるわけです。ところで息子の通った幼稚園では食べ物、例えば各種のタイプのパスタそのもので遊んだり、それらを作った工作が頻繁にあり、「食べ物を粗末にしてはいけない」と育ったぼくには、かなり刺激的であり挑戦的でした。ジュージャロのデザインしたパスタは、クルマのウィンドシールドの形状からヒントを得ていましたから、食品の擬似化とその反対(食品以外のイメージを食品に応用する)は一般にアリといえるでしょう。ただ、パスタを食べながらウィンドシールドを思い浮かべるのが食欲を増すかどうかという別の問題はあります。

books(橋本潤さんと山本達雄さんの二人の苗字に共通してある「本」の複数形)の山本達雄さんがモッツァレッラチーズをモチーフとした作品をサテリテで発表したことは、サローネ開幕初日に書きました。このチェア、確かに美味しそうです。肌触りもよさそうで思わず触ってみたい。しかし、正確に表現するなら、このチェアの形状を目にした時、タイトルも聞かずに真っ先にモッツァレッラチーズを思い浮かべるかどうかは分かりません。このいすは、どことなく愛嬌があり、どこに座っていいのか一瞬迷わせ、その後に腰を下ろしてポッコリと座面が沈むことを確認したときに安心感が生まれる・・・という特徴があります。そういう意味で、この作品はモッツァレッラチーズの形状を模したというだけでなく、モッツァレッラチーズを目にしてから口にするまでのプロセスを擬似的に体験しているのでは?とも思います。いすの名前を最後に聞いてより感動する。こういうタイプかもしれません。さらにこのフォルムについて言えば、食べ物とはリンクしずらいのですが、トイレのデザイントレンドと近いかなとも感じました。

すなわち安心感を呼ぶ誰にでも愛されるデザインということでしょう。特に子供や女性の受けは抜群のようです。山本さんは昨年のサテリテで鹿を模したチェアを出し、橋本潤さんの「くものいす」が男性に評価が高く、山本さんの作品は女性に人気でした。比喩的表現は、女性のツボにはまるのでしょうか。男性は抽象的であることを評価するのでしょうか。いや、抽象的であるから評価するというより、抽象的であることに安心感をもつのではないかとも思います。どうでしょう。モッツァレッラチェアに話を戻すと、ぼくはやや小ぶりかなとの印象をもちました。山本さんももう少しサイズを大きくしたかったようですが、調達可能なストラクチャーに合わせるしかなかったようです。

写真のおまけ。左側の女性はドリルデザインの安西(やすにし)葉子さん。さて彼女とぼくの間で撃沈された人は誰でしょう?

Category: ミラノサローネ2010 | Author 安西 洋之  | 
Date:10/5/18

息子が2歳の頃、夏のバカンスを南仏ニースで過ごした時のこと。ある晩、旧市街のピッツェリアにイタリア人の友人親子と入りました。外のテーブルにすわり、まずは冷たいビールで乾杯。しかし、ピッツァがテーブルに届く前に息子がぐずり始めました。フランスもイタリアと同様、小さな子供を連れていてもあまり居心地が悪い国ではないと思うのですが、そのときは、周囲から「煩いなぁ」という視線を感じた奥さんが、息子を連れて近くの広場に散歩に出かけました。そして、ぼくがピッツァを食べた頃を見計らって戻ってきた奥さん。彼女がピッツァを食べている間に、今度はぼくが息子を連れ出す・・・という光景が繰り広げられた時、友人は「ヒロは冷たいビールを飲み、熱いピッツァを食べ、ミナコには醒めたピッツァを食べさせるのか。順序が逆じゃないのか!」と辛口の言葉がぼくを刺します。ああ、言われてしまった。子供を前にしても女性を優先するよう体が動かなかった新米パパは猛省したものです。その反省が今も生きているかどうかも、また怪しい・・・。

その翌年の夏は、オーストリアのインスブルックでアパートを借りました。三階建ての旧貴族邸を分割して宿屋として貸しているのですが、オーナー家族は一階に住んでいます。同じように小さな子供もいる彼らならと甘く見積もったのが大間違い。2週間の滞在中、「子供がバタバタしないよう注意してくれ!」と三度も勧告を受けました。ミラノでは比較的ちゃんとしたレストランでも、赤ん坊をベビーカーに乗せてあやしながら夕食をとれますから、イタリアの子供が出す騒しい音にも寛容さを期待してしまったのです。誰が出そうが、騒音は騒音。オーナーの奥さんにビシッと叱られました。それでドイツ的というかオーストリア的な厳しさはバカンスには不向きと、軟弱な(?)われわれ夫婦はその後、イタリアで夏休みを過ごすことに決めました。それぞれの文化があり、どれが良い悪いではなく、自分たちが納得できるゆったりとした時を過ごせる場所を選ぶことにしたのです・・・・が、自分たちの子供への振る舞いに他人の目が光っていることは変わりありません。このように子供を連れていくつかの国を旅すると、大人だけの旅では見えてこない文化差が見えてきます。

「日本人は自己主張が乏しく自己抑制が強い。そして米国人はその逆」という言い方がよくされます。そして他方、「これはステレオタイプな見方である」という逆襲があります。そのとき、「いや、英国人は自己主張もするけど、自己抑制もしっかりしている」と語るのが、本書の佐藤淑子です。小学校の頃に駐在員の父親に連れられてオランダで数年過ごし、修士は米国、博士は英国でとった著者は、米国と英国のある大きな違いを指摘したうえで、日英の幼児教育を比較していきます。自己抑制が強すぎるがゆえに的確な自己主張に欠け、それが「切れる」という現象の要因になっているのではないかと日本の状況を分析する著者は、英国万歳ではないが、自己主張と自己抑制の両方を重視する英国教育をモデルとして参考にする根拠をデータも添えながら書き出していきます。

イタリアに長年生活している身からすると、英国の子育てのエピソードに感心することは少なく、「そんなに大人と子供の時間と空間を分けることに熱心で、ちょっと肩が凝らないの?」と質問したくもなります。およそ青少年の問題ー飲酒、ドラッグ、性ーの欧州先進国である英国の子育ての例をとりあげる違和感がぼくにはあるのですが、規範への服従があまりに強く、集団所属意識が強すぎる日本の読者に示唆を教示するには、こういう方法でもいいのかなと思います。その証拠に、本書は8年間に11版で、アマゾンも実に肯定的なレビューが沢山並んでいます。これらを読んで、じゃあぼくもブログにもっと子育てネタを書いたほうが文化テーマも分かりやすいのかなと考えたほどですー実際、このネタを増やそうかと思っています。

最後に、本書のテーマである自己主張と自己抑制のバランスに戻すと、ミラノサローネ2010(27)で書いた「静かなニッポン人」と重なってきます。以下です。

どこかに動きを感じる作品の数々を眺めます。今回、日本のデザイナーの作品に接しながら、「どうして、こうも静かなんだろう」とその理由を考えました。今 週、ライターの方と話していたときに言われたのは「日本人は人とぶつかることを避けますからね」ということでした。そこで、説得的であることは平和を目指す態度ではない、暴力的要素を含むという認識を正すことが必要なのではないかということを話したと月曜日に書いたのです。同時に、トリエンナーレのボビザでみた作品の数々は完成度は低くても、説得的であることを厭わない風に見えるとも記しました。つまり、日本人の作品が静かであるのは説得を避ける態度に理由を見つけられるのではないか、とも考えたわけです。

説得的であることは規範の逸脱につながると考えやすいのではないか、ということです。ここに至り、日本のデザイナーの作品の静けさは自己抑制と密接であるだけでなく、日本で当然とされるレベルの自己抑制に馴れていない人たちにとって、この静けさは「不足感」「欠如感」を導き出すかもしれないと思わずにはいられません。

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