セミナー・講演など の記事

Date:10/8/3

世界地図、アジアの地図、日本列島の地図、町内の地図・・・これらはどれ一つとって全てを満足することができませんが、どれかが欠けてもいけません。それぞれがそれぞれの必要性に応じて存在し、しかも、それらの全てを見ないと全体像が描けません。そして、できれば年表も読む。時の流れによる状況変化を把握してこそ、現状の区分けの由縁が分かる。ぼく自身、それが全て常にできているわけではないですが、それを目指すことの重要性を忘れてはいけないと考えています。自戒しつつ・・・。

市場の定性調査の必要性が盛んに言われます。量的調査では掴みきれない領域とレイヤーのあまりの広さに気づいたがゆえかもしれませんが、ちょっと気になることがありました。それは往々にして、歴史や古典的文化のありようをあまり視野に入れていないことです。エスノグラフィックなリサーチと地域研究の両輪は欠かすことができないはずです。両方を良い按配に目配せする勘、「これじゃあ、向こうが足りないな」と思う素養がないといけない、それも極端な表現かもしれないけど、生理的にそう思えることが必要ではないかと思います。要は両方にリアリティを感じないといけない

そのような趣旨をこめて、先週の土曜日のローカリゼーションマップ研究会の勉強会では、アジア経済研究所ERIA支援室の吉田暢さんに、アジア研究の基礎の基礎を話してもらいました。まず、アジアって何?何処?というところから。国連の分類が全てではなく、色々な機構が様々な区分をしています。あるいは時間軸の導入で変化します。それから、「アジア」における文化的ダイバーシティの実像 → 「アジア」を見ている複眼 →「外国人の眼」で見ることの重要性と「現地人の情報」の危険性 → 「研究」が政策やビジネスにもたらす効果 と展開してくれました。

参加者からの質問も多様ですが、「どうすれば、市場が見えるのか?」ということへの関心が非常に強いことが確認できました。アジアへの注目度もありますが、しかし、これも裏を返せば、先進国市場のアプローチも発展途上的であるということです。冒頭に述べた両輪が定着していないわけです。吉田さんの次は、橋田規子さん。元TOTOデザイナーで芝浦工大の先生です。TOTOの海外戦略の概要と各市場の習慣と製品つくりの関係などがテーマです。風呂に限って言えば、日本だけが特殊。毎日のように風呂に入り、複数の人と入る。こういう習慣が日本以外のTOTO市場(中国、北米、欧州など)にはない。そこで、風呂は普段あまり使われないがゆえに、逆に贅沢の象徴とした要素が強調される風呂デザインが増加傾向にある・・・というロジックは皆さんにかなり刺激的だったようです。

橋田さんは、現状のところ、住宅機器の分野においては欧州メーカーのデザインブランド力が強く、それ以外の地域のメーカーはそれに追随する傾向があると指摘。そこで日本メーカーは技術力で特徴を出していっているーいかざるを得ないーと話していました。この点は、前回の勉強会で指摘した「技術信仰の強さと精神性への偏り」に繋がるところで、やや気になる点です。TOTOは海外のハイエンド市場に焦点をおいているメーカーですが、電機や自動車などの日本メーカーがハイエンド路線で行き詰っているなか、住宅機器メーカーのハイエンドはいつまで維持できるか?が関心の的になりそうです。いずれにしても、各地域の日常習慣とデザインの関係性は人を魅了するテーマであることがよく確認できました。

ところで、そうした興味を裏付けるかのように、一般ユーザーが描くデザイン像というのは、思った以上にコンサーバティブだなと思う経験がありました。日曜日に参加した日産本社でのEVワークショップです。一般公募した(潜在)ユーザーにEVについて考えてもらうというイベントですが、ぼくも一般(潜在)ユーザーの一人として参加者の意見を聞いているなかで、「あれっ」と感じることが多々ありました。EVの社会的位置やそのコンセプト、あるいはデザインについて話し合っていると、クルマの「近未来イメージ」というのが、もしかしたらこの数十年変化していないのではないか?と思えたのです。時がどう経過しようが、ある固定的「近未来像」がいつも残像のように生きつづけている・・・1970年代にみた21世紀像は、21世紀になった今でも近未来イメージをひっぱっている。これをコンサーバティブと表現するのが正しいかどうかは迷うところですが、「近未来イメージ」も伝統的文化要素の範疇に入れることができるかもしれないとは考えました。

だからこそ、実際に新しいシステムなり技術が現実化してきたとき、案外、それまで無意識的にでも維持してきた「近未来イメージ」をあっさりと捨て去ることに抵抗がない。要するに、あまり合理性を伴わない残像は、それがゆえに長時間保持されることも可能ですが、それゆえに他の合理性に道を譲るのもあっけない・・・ということをワークショップに参加しながら思ったのです。これを「各地域の日常習慣とデザインの関係性は人を魅了するテーマ」に戻すなら、「非合理的な領域とレイヤーは頑固に生き延びるようでいて、思いのほか、もちが悪いことがある」ことを思うとき、もちが良いものは合理性が優先するからなのか?ということが課題にあがってきます。

これは人工物発達学のテーマに近似でもあります。イタリアでもあまり風呂に入ることがないと言われていても、豪華版ではなく、普及版の風呂がなぜこれだけ新たに設置され続け、汚れ物の洗濯などに使われるだけではなく、本来の使用がされることが(当たり前ながら)異常なことではない。そこにある合理性は、日本のように毎日のようには入らないことが前提で、風呂という習慣が合理性をもっているということになるでしょう。シャワーを浴びる回数やそのタイミングとのトータルで判断すべきで、風呂の回数自体は合理性の絶対的判断基準にならない。つまり、どれだけ幅広い範囲で生活習慣を見極められるかが重要です。イタリアの伊達男は一日3回シャツを変えるということと、シャワーのタイミングの問題は密接であり、こういうライフスタイルのなかで風呂を考えないといけない、ということになります。しかも、汗臭いTシャツを2日続けて着る。しかし、そこにオードゥトワレットが活躍するライフスタイルもあるなかで、どうこれを暗喩としても考えるか・・・・です。

Date:10/7/17

従来の枠組みを大きく変える、あるいは脱却した発想が必要であることが散々言われるようになってどのくらい時間がたつののだろう・・・と考えると、これはどんな時でも喧伝されてきたのではないかと思います。常に世代間でもあった論争でしょう。しかし、「今までの考えでやっていけばいいんだよ」ということも並行していつも言われていて、どちらの表現もどの時代にも流通するのですが、冷戦の終焉と情報革命によるグローバル化は、何事も変革が求められるプレッシャーがより強くなり、特に「失われた20年」に入りはじめた日本では、旧来派が生きる隙間がどんどん減っていっています。ミラノの刃物のセレクトショップのロレンツィが語ったような台詞は、そうは思っても小さな声でささやかざるをえないムードがあります。

つまり、製品そのものの理解に時間がかかり、かついわば抽象性の高い製品であるということですが、それだけでなく、彼らの扱い商品点数はなんと1万5千点 にものぼるということもあるでしょう。セレクトショップとしては膨大な点数です。これを全てPC管理しているわけではなく、約半分しかデジタルデータ化し ていません。後は手書きです。それが「商品知識が身につく」コツだといいます。お客さんの要望を聞いて、ピンとくるには、商品と触れる絶対的な時間量が要 求されるのです。どの店員も一流ホテルのコンシェルジュのようなムードがあります。そして、お客さんもそれなりの年齢以上。「どうして、人生経験の乏しい 30代以下で良いモノを見極めることができるのか?」と言われたとき、ぼくもハッとしました。

実を言えば、全てに変革が必要なのではなく、ある分野やある事柄に変革が必要なのであり、例えば、男女の社会的役割に変化が要求されたとしても、男女の恋愛感情に変化が求められているわけではないのです。そして、変わらぬものをいかに見極めそれを維持していくかも重要です。バチカンの生命倫理に関する言説が時に人を苛立たせても、多くの支持も得るのは、社会的変化は常に過去との対話によって成立することを多くの人が認識しているからでしょう。もちろん、これはブロックされて機能不全に陥っている部分を肯定しているわけではなく、訂正や修正・変更あるいはジャンプすべきポイントは積極的に推進するようにしないと、惰性で悪化する方に流れるに決まっている水を逆流させることはできないでしょう。

とにかく、イノベーションを引き起こすことが今の日本に必要とされる分野や事柄が少なくないことは確かで、それを目的としたワークショップやセミナーが全国いたるところで開催され、出版物も「どうしたらイノベーターになれるか?」と突きつけてきます。ただ、多分に精神論に流されているところもあり、これは要注意です。個人の認知の変化によって状況が好転すべきことが、イノベーションを大きな声で語ることで全てが前進するような錯覚を無用に煽りたて目を曇らせてしまうことがあります。繰り返しますが、ぼくはイノベーションという言葉が嫌いとか好きとかではなく、とにかくその言葉が意味する内容を推進するには、それなりのメンタリティを伴っていないと火傷するだけだろうと言っているのです。

さてイノベーションという言葉の周辺を巡ったのは、先週に引き続き今週も東大にでかけi.schoolを見学してきたからです。知の構造化センターの実施する教育プログラムで、ワークショップなどを行いながらイノベーションを生み出すメカニズムを研究し、イノベーションサイエンスを作っていこうとの目的がエグゼクティブ・ディレクターの堀井秀之さんによって語られています。

私たち i.schoolが目指すのは、これまで世界に存在せず、誰も生み出しえなかった、新しい答えを創り出す人材の育成です。分野・領域の枠を越えて、横断的・統合的な視野を持つ。論理的な思考の先に、クリエイティビティを羽ばたかせ、いままでにない発想を産み出す。人間中心に考え、人間の幸福を見据えて行動する。イノベーション —-画期的な価値の創出につながる新しい変化 —-を創り出す人間こそ、 21世紀の行政・産業・学術をリードする人間になる。i.schoolはそう考えています。

今週、10回に渡る2010年度の第二回目ワークショップ「新聞の未来をつくる」のプレゼンがありました。5チームが寸劇や紙芝居形式で発表。パワーポイントの使用は禁止です。どの学生たちもプレゼンはそれなりのレベルで、会場からの質問にも当意即妙の回答が返ってきます。それはそれで感心するのですが、色々な人に新聞の問題点を生活者目線でインタビューしてどう感じてどう考えた、最初の部分のコアが最終アウトプットにどれだけ効いているのかがよく分からない・・・という不満は残りました。しかし、それもまとめ方が上手いがゆえに生を出し切れないということもあり、なかなか悩ましいです。

素直な生の声をいつも自分の耳に響かせるのは難しいものです。ぼくが今まで実際に色々な人と接してきて思うことは、イノベーションのようなジャンプができる人というのは、まずは一人で突っ走れる性格が非常に重要で、革新的なアイデアはその猛烈な走り込みのなかでランニングハイのようなタイミングで出てくるような気がします。もちろん、性格だけではありません。以前「イタリア人の遅刻の理由」で書いたジグザグ歩行も、言ってみれば、他人とのアポより自分の心に忠実であることを言っています。

アポの時刻があっても、道を歩きながら店のウィンドウに何か素敵なものをみつけたら、吸い寄せられていく。そして時間がないにも関わらず、店に入っ て商品知識を得ようとする。つまり、この一瞬が大事。そして道の向こうにも目をひくものがあれば、そっちにも行ってしまう。ジグザグ歩行です。だから、目的地への到着が遅れのです。

しかし、このジグザグ歩行にイタリア人のクリエイティビティが隠されています。アイデアは、こういう歩行途中、もしかしたら向こうの道に渡っている 時に、ひらめていたりするものです。そして情報が集積し、それらがお互いにつながり、統合されたイメージをもつその直前にハッと思うことがあります。

そして、心に余裕をもち、いつも心と頭に遊びの部分がもてないと、このジグザグができないのです。ちょっと飛躍した言い方になりますが、これこそが「生活の質」のリアルな側面です。隣に弱った老人がいれば手を貸し、小さな子供が転べばじっと立ち上がるのを見ててあげ、子供と老人の会話が成立する。こういうところから、生活者目線の状況把握力がついてくるはずで、いったいi.schoolの学生たちはそのあたり、どうなんだろう・・・というのがぼくが知りたいところで、今後もよく見ていきたい点です。経験の幅を自然と広げられない人間には、所詮、新しい時代を作るようなイノベーションなど無理なのです。ですから、このポイントにi.schoolが注目しているなら、これは将来に期待したいです。

Date:10/7/13

先週は刺激を受ける旅でした。月曜日はデザインハブでのトークセッション「世界を変えるデザイン展 2.0」。火曜日は日本財団で「金融という文化ー金融危機と金融社会論」。コーネル大学人類学科准教授の宮崎広和さんの発表。水曜日は東大のi.schoolでのワークショップ見学。ビジネス・エスノグラフィーの田村大さんがディレクターです。木曜日はまた日本財団。「女性就業者の2種のネガティブ・ステレオタイプについての予言の自己成就メカニズムとその対策について」をシカゴ大学社会学部長の山口一男さんがプレゼン。

それぞれのイベントに関連あるわけではありませんが、世の中の人たちが今どういう領域まで踏み込み、どういう方向に進みたいのだけどなかなか到達できない・・・ということが、何となく見えてきます。何が読めないといって、現状そのものが読めない。「あそこの国はこういう文化だから」という表現があるところまでは相変わらず通じる一方、全く予想もつかないタイミングで「えっ、あの国もそういう文化を受け入れるの???」という変化が起きる。二つの要素、普遍的な要素とそうではない要素が入れ子状態になっていて、それを解明することがテーマ。特に、どういう条件が揃ったときに変化が生じるかに関心が強い・・・ということが、何となく見えてきました。

そして、これは他ならずぼく自身がものすごく興味深いテーマであるわけで、根拠なく自分も時代の最前線で悩みを共有しているような気になってきます。こういう感覚は、実は何もアカデミックな世界の話ではなく、現実に日常を生きている人たちにかなり共有される感覚であろうと思いますが、アカデミックに研究している人たちもそのことを関心の先においていることを知ると、(ぼくのケースでは)やる気が更に出てくるから不思議です。実際には、アカデミズムは既に起こった現象を後追いすることが多いですが、世の中の変化の本質に普通の人より関心の高い人が多いので、その感受性は一つの道しるべになるでしょう。

自分が日々感じていることが、世の中でどんなポジションにあるのだろう・・・という疑問は誰でも昔からあったことですが、今、ネットで発信される無名な意見の数々を背景に、およそのマッピングをしてくれるような気になります。が、Twitterのフォローの人が違うことでタイムラインが全く違って見えるのと同様ーある人には「世の中の全ての人がW杯に熱中している」と見え、ある人には「案外、W杯に興味のない人が多いんだ」と見えるー、あらゆることは極めて主観的に見られています・・・・ということまで、ある程度は客観的な証拠を見せ付けられる状況が生まれています。幸か不幸か。

極めてストレスフルな現象が眼前に繰り広げられるからこそ、ネットがもつ楽観的な解放性が、逆にそうならない結果に対して暗部を際立たせます。「なんで、あの人はブログでちょぼちょぼ書いていたのに、一気に名が知られるようになったのだ?それに比べて自分は・・・」と今までなら知らずにすんだ他人の過去を知るようになるから、自分の過去のあり方も反省的な色合いでみてしまいがちになる。しかし、これも幸か不幸か、ネットでさほど本質的な把握には至っていないことが圧倒的に多くーぼくも反省的に思うならー、それがゆえに、リアルに多くの人と出会い刺激を受けることが結局は頭の切り替えをする大きな契機になる・・・ということになります。

・・・というわけで、凄く回り道をしましたが、ローカリゼーションマップ研究会の今月の勉強会でやるべきことも、随分と固まってきました。詳細は追って書きますが、以下の要領です。

7月24日(土)15-17時 at なかのプラットフォーム
「明日の日本を描く試み」をデザインジャーナリストに45分ほど話して頂き、残りを議論の時間とする。これまでの日本デザイン動向、世界を変えるデザイン展、サローネなどもトピックに入ります。

7月31日(土)16-19時 at 六本木JIDA
「アジアに向けたローカリゼーション」をテーマにアジア研究の視点の持ち方、住宅機器メーカーのローカリゼーション事例などを紹介しながら、ローカリゼーションとは何か?を議論します。
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