セミナー・講演など の記事

Date:09/6/25

昨年、「ぼく自身の歴史を話します」というシリーズのなかで、カーデザイナーのジュージャロと一緒にイタルデザインを作って成功させた宮川秀之さんのもとで修行していたことを書きました。トスカーナの文化センターの構想を話し合う場面を、以下のように回想しました。1990年代前半のことです。

都市計画関係のネットワーク作りをスタートさせたのもこの時期。文化センターの構想を話し合う会議には、色々な人間が集まりました。心理カウンセ ラー、医者、美術史研究家、建築家、実業家・・・と多様です。テーマは「文化の違いを知り、それを受け入れるにはどうすれば良いのか?」。

そういう会議に出席しながら、ぼくは何となく分かった気になりましたが、でも眠気も感じたのも正直な感想です。その時、宮川氏に言われました。「君 にはまだ難しい話だろうな。あと10年くらいしないと分からないと思うよ」。「えっ、そんな!」と反発もしましたが、本当、その通りでした。文化の違いを ディテールとコンテクストの両方から身をもって知るには、まだまだ時間と経験が必要だったのです。

宮川さんの言葉は的確でした。文化の違いを知る絶対的な経験がぼくには不足していたのです。イタリアに来る前、日本のカーメーカーで欧州自動車メーカーと取引をする仕事をしていましたが、生活世界シーンに対する経験が十分ではなく、しかも、それは圧倒的なヴォリュームのヒストリーが必要だったのです。そして、こういうバックグランドをもち、エドワード・ホール『かくれた次元』の以下の記述を読み、さらに深く納得がいくようになりました。

長い間、体験というものは全ての人間にとって共通であり、したがって言語とか文化を飛び越えて経験に訴えるなら、他人を理解することはつねに可能であると信じられてきた。人間と体験との関係についてのこの暗黙の(そしてしばしば明言された)信念は、もし二人の人間が同じ「体験」をもっていたとすれば、その二つの中枢神経系には事実上同じデータが与えられているのだから、二つの脳は同じような記録をするのだろうという仮定に基づいていた。

プロクセミックスの研究は、この仮定の正当性について、重大な疑問を投げかけた。文化が異なる場合はなおさらである。異なる文化に属する人々は、違う言語をしゃべるだけでなく、おそらくもっと重要なことには、違う感覚世界に住んでいる。感覚情報を選択的にふるい分ける結果、あることは受け入れ、それ以外のことは漉し捨てられる。そのため、ある文化の型の感覚的スクリーンを通して受け取られた体験は、他の文化の型のスクリーンを通して受け取られた体験とはまったく違うのである。人々が作り出す建築とか都市とかいう環境は、このフィルター・スクリーニング過程の表現である。

文化人類学は日本が英米を「鬼畜米英」といっていた時代、即ち第二次世界大戦中に発達し、戦後、米国はその結果をビジネスに、英国はアカデミズムに活用するに至ります。このホールの古典も、40年以上前のものです。不思議なのは、上述のような内容が多くのビジネス世界でそれなりに定着しているにも関わらず、日本のメーカーが商品企画の前提としての「個々の文化差を越えた、あるいは横串にするユニバーサルとは何か?」に対して積極的でないことです。

民族の危機、都市の危機、そして教育の危機は、すべて互いに関連しあっている。包括的に見るならば、この三つはさらに大きな危機の異なる局面と見ることができる。その大きな危機とは、人間が文化の次元という新しい次元を発達させたことの自然的な産物である。文化の次元はその大部分がかくれていて眼に見えない。問題は、人間がいつまで彼自身の次元に意識的に眼をつぶっていられるかである。

人間と彼自身を、「日本のメーカー」と置き換えると、危機的状況のありようがよくお分かりいただけるでしょう。

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Category: セミナー・講演など | Author 安西 洋之  | 
Date:09/6/21

先週の日曜日、三島に向かうべく東海道線の「踊り子号」で日経新聞を広げると、明治大学の管啓次郎さんが「半歩遅れの読書術」で林達夫と久野収の『思想のドラマトゥルギー』を取り上げていてニヤリ。実は、管さんの大学院ゼミの外部生として、ぼくは彼に36冊のリストを送ってあったのですが、このなかの「1.考え方・感じ方・判断力の核をなす12冊」に僕もこの本を入れていました。そして、読書欄の同じ紙面に社会学者の宮台真司『日本の難点』が、専門に閉じこもらずに一人で全体を捕まえる態度という観点から評価されているのを読み、その後、書店でこの本を買いました。まだ読んでいませんが、「一人で欧州文化を理解」する必要性を説いているぼくと通じるところがあるのでは、と思ったのです。

三島では社会学者の八幡さんのご自宅を訪ね、ほぼ半日間、雑談を交わしました。そのなかで印象的だったのは、近世以降のヨーロッパも対外進出に関して、かなりオドオドしながら進めた節もあるという点です。戦略的に世界を考え進出を実行したのは、20世紀後半以降の米国であり、これをもってかつてのヨーロッパもそうであったろうと想像している傾向が日本にはあるという指摘でした。また、ぼくは上記の36冊にバーガー=ルックマン『日常世界の構成』も入れていますが、この本は発表当初、「哲学的過ぎる」と数量的に社会を把握することが主流だった時代に批評されました。しかし、今の米国の社会学の主流は、この「主観の共有」という方向であり、歴史社会学へ向かっているといいます。これらを聞いて、「なるほど」と思うことしきりでした。

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週の中盤、千葉工業大学の山崎和彦さんと会って話している中で、ぼくが「どうして、日本のメーカーは、ユニバーサルということが何なのかということを考えないのでしょうね」というと、山崎さんはIBM時代のPCデザインの経験を話してくれました。米国、ヨーロッパ、日本で何が共通なのかというフィールド調査をして、それを踏まえたうえで商品企画をしていたようです。それと同じような手法をとっている日本のメーカーはあまり聞いたことがないと話していました。そこで八幡さんと話した、EUは戦略的な進出には目を光らせるーマイクロソフトへの独占禁止法の適用ーが、「オドオドした」アプローチには寛大だという内容を思い出し、「柔らかい戦略」が肝心なのだろうと考えるに至ります。

その日の夕方、明治大学の管さんとゼミ生さんと管さんのかつての同僚である芥川賞作家の堀江敏幸さんの写真展を見た帰り、やはりぼくはユニバーサルとは何かを懲りず(?)に酒の肴にしました。文化人類学では生態的な、つまりは色覚とかそういう部分にユニバーサル性を適用しますが、それ以上に対する「ユニバーサル」は、自分で結論を出すしかないのだろうな・・・と、ぼくは帰途考えるのでした。これは、まさしく「主観性の共有」という世界なのだろう、と。

そして、日本滞在日の最後、放送大学の黒須正明さんと酒を飲みました。話題は黒須さんが提唱している人工物発達学です。フォークやナイフの発達や食について議論しながら、ぼくがひとつ強調したことがあります。それは食も学習効果ゆえに「美味しい」という表現が出るということです。西洋人が刺身や寿司を生まれて初めて食べて「美味しい」と思うことは非常に稀であり、そのために海外の寿司は当初、魚を生でなく炙って使うなどの工夫が必要だったわけです。音楽も、サッカーも、すべてルールを知った上でないと「世界の人たちと心の交流ができない」という事実を認識することが大事なんだろうと思います。そういう意味で、「ユニバーサルとは学習結果である」という言い方が許されるかもしれない・・・・。これが、ますます、ぼくの今後の活動のテーマになるかもしれないと思いながら、昨晩、ミラノに戻りました。

尚、六本木のアカデミーヒルズでのライブラリートークの様子は以下で紹介されています。

http://www.academyhills.com/library/event/LT090529.html

Category: セミナー・講演など | Author 安西 洋之  | 
Date:09/6/13

今週もいろいろな方とお会いしました。大阪で人と会い午前2時まで酒を飲み、朝5時に起きて新幹線に飛び乗り都内にいったん戻り、横浜で10時からミーティング・・・・と走り回りました。ここで、二つの重要な点を思いました。ひとつは、一人でどこまで手を伸ばせるか? それは実際に何でも一人でやれと言っているのではなく、自分のわからない領域もわからないなりに勘なりを働かせるか?ということです。それには、基礎的な教養が問題とされるでしょう。なにかの専門家であることに安住している人にとっては厳しい話です。しかし、これがどうしても、「ある人たち」には必要です。

「もうグローバルにやらなくてもいいでしょう。これからはブロック経済です」ということを言う人が増えています。それはそれぞれのビジネス事情によりますから、ここでどうとは語りません。でも、ぼくはまず「じゃあ、日本のメーカーで本当にグローバルといえる活動をしてきた会社ってどのくらいあると思いますか?マイクロソフトやコカコーラのようなレベルでね」と聞きます。ここでかなりの人たちが一瞬答えに迷います。「ブロックというけど、それはアジアでしょう?じゃあ、どこまでのアジアを言っているのですか?サッカーW杯の予選リーグ圏じゃないですよね?」と質問すると、インドやタイという答えがかえってきます。でも実際に、インドやタイに滞在してビジネスをしたことのある人たちは、せいぜい台湾かシンガポールくらいまでと答えます。それらの地域で仕事をしていなくても、「基礎的な教養」のあるたちは、タイから西を除外する傾向がみられます。要するに、このインドやタイを入れるかどうかで、異文化の勘所の有無が見えてきます。

二つ目は、ユニバーサルの理解とはどういうことか?とは、ぼくの考えでは多面的な見方をどう包括しどう共通点を見出すかということです。それはコミュニケーションの結果でもあります。したがって、純粋なコンテンツをもって定義づけるべきではなく、常に流動性を含むものです。日欧産業協力センターで配布された資料は、下記でご覧いただけますが、ぼくは世界の三つの火山の写真をもって、日本文化にある固有性へのこだわりを指摘しました。

http://www.eu-japan.gr.jp/japanese/page635.cfm#Anzai

これについて八幡さんの表現をもって追加説明するなら、静岡から眺める富士山と山梨からみる富士山は当然違いますが、それは日本の富士山です。静岡と山梨からみる富士山は姿が違うから富士山ではないという人はいないでしょう。まさしくこれが、ユニバーサルとは何かのヒントになります。ユニバーサルが流動性に富むというのは、換言すれば、ユニバーサルとは「志向性」を言っているのです。西洋文化がかつて普遍的であったわけではなく、「普遍性を志向」した点にこそ特徴があるという現実をよく理解すべきであり、そして多くの識者が言っている「ブロック経済化」とは、(僕の願いも含めるなら)、それは決して知的レベルあるいは頭の中のレベルでの「ブロック」を含んでいるのではない、ということです。「ブロック経済」が、知的閉鎖性であることの弁解であってはいけないわけです。

以上の二点を意識化するのは何の投資もいりません。日々の生活のなかで多視点であることと、それらの共有に努めるだけです。これこそが難しいといえばそうですが、それができないばかりに、何兆円というレベルの無駄が日本経済全体で消費されている・・・・という風に僕の目には映ります。

なお、セミナーでの皆さんに記入いただいたアンケート結果がまとまり、その内容を拝見しました。参加者の3分2以上の方からフィードバックをいただき、およそ肯定的な意見が多かったことにホッとしました。これを参考に場所は未定ですが、次回のセミナーを企画していきたいと考えています。

セミナーの当日残念ながら参加できず、後日、拙著を読んでいただいた方とお会いしました。その方から大橋良介『日本的なもの、ヨーロッパ的なもの』(講談社学術文庫)を頂戴し、今、読んでいます。大橋氏は西田哲学が専門の人です。「ハイテク時代の日本的なもの」「テクノロジーと宗教」という章もあり、どこに産業界へ伝えられるメッセージがあるか?という観点で読んでいます。

Category: セミナー・講演など | Author 安西 洋之  | 
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