セミナー・講演など の記事

Date:09/9/24

6回に渡って「ヨーロッパ文化を伝える」を書きました。僕が昨年『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』を書いたとき、エピソードの数々をもとにぼくの考え方や見方を「選択肢の一つ」として提示することに注意を払いました。見方の「決定打」というのはありえないし、「決定打」があるように振舞うことは、多くの人が「決定打を目指さなくてはいけない」という強迫観念をもっているなかで逆効果であり、誠実でもありません。「何々に役立つ」という結論に導くことには嘘があり、見方や理解の仕方というのは自分でマスターするしかないので、ぼくができるのはいくらかのヒントを提示することしかありません。だいたい、ぼく自身、「決定打」に至っているとは思っていません。確実にいえることは、一生、「決定打」に至ると思えないということです。

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最近、日本のTVドラマは暗示的なところで終わらず、最後の最後まで見せる傾向があり粋ではないと思いますが、それをやらないと視聴者が不満ということもあるのでしょう。多くの新書のタイトルが刺激的で「これで全ての謎がとける」ようなムードを放っていますが、もちろん、そんなことはありません。結局、自分でやっていくしか道はないのです。どんなに沢山本を読んでも、読んでいるだけではだめで、「あっ、これか!」と思える日常生活での経験の裏づけがないといけません。日常生活世界と本などの世界がある時点でダイナミックにインタラクティブに動き始めて、モノやコトが見えてきます。モノやコトのありようやその関係性が見えてくるのです。

ぼくが語るヨーロッパ文化は、実際のビジネス、特にヨーロッパ市場で売る商品の企画をするに際してもつべき素養について語っているのであり、アカデミックなヨーロッパ文化理解をもつべきだといっているのでありません。当然ながら、もつべきはないということではなく、もっていて無駄はないだろうが、それだけに振り回される愚は避けるべきだということです。「あの大先生が言っている話しもちゃんと理解できないのに、ヨーロッパ文化を自分なりに語るなんて無理」と思わないことです。人生の見方に60億以上のタイプがあると同じく、ヨーロッパ文化の見方も60億以上あります(ヨーロッパの存在すら知らない人たちも多数いるでしょうから、この数字は非現実的ですが)。こう表現するのはヨーロッパを知っているかどうかではなく、知らないのなら知らないなりに自分のなかでの位置づけがある。そこに出発点があるからです。

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こういう考え方でぼくはヨーロッパ文化を語り始めましたが、ヨーロッパには生活でも仕事でも関係ない人たちにも参考になる内容であると思っています。しかし、どういうふうに参考にしてもらえるのか、それを出版の後に考えてきました。米国やアジアと商売をしている人達にも参考になるということではなく、日本に生活し日本市場のみを対象とし、外国文化とも接することがほとんどない人達にどう問題提起できるか、ということです。それは、「見方の作り方」ということになるのではないか、そう思いました。これも、ある「選択肢の一つ」であり、こうすべきであるといっているわけではないです。ヨーロッパ文化の見方をぼくは、こういう風に構築しつつあり、それは対象を他に変えても、あながちピントを外れていないかもしれない・・・・という思いです。昨日までに書いた内容を箇条書きにすると、以下になります。

1)日常の生活シーンを重視する
→日々の生活経験に拠点をおく
2)但し、それをビジネス目的に水平展開する
→喜怒哀楽のエピソードに終わらない
3)そこで描いた地図の利用はタイミングを間違えないこと
→活動中に地図は不要
4)三点観測を心がける
→三ヶ国語あるいは三地域を定点にもつ
5)一人だけで見ることに拘る
→メンタリティとして他人の見方に依存しない

世の中に情報は十分あります。しかし、それを自分の経験にひきつけて語ることができないと、その情報を使いこなしたことになりません。逆にこれができると、「どこかに正解があり、それを明快に語れる人がいるのではないか・・・」という恐れにも似た強迫観念から脱することができます。これは専門家を軽んじるということでなく、専門家とは「あることの専門家でしかない」という単純な事実認識をすることです。

以上のようなことを、来月、日本で行ういくつかの勉強会の主題にしようかと検討しているところです。

Date:09/9/23

ヨーロッパ文化をおさえるにあたり、生活シーンを重視し、しかし、そこの喜怒哀楽でエピソードを終えるのではなく、それをビジネスー最終消費財の企画や販売ーにつなげていくことが重要で、そのためには大枠の地図を自分なりに作っていくことが大切であると書いてきました。自分なりの地図なのですから、自分の経験と見方の検証の積み重ねで作っていくわけです。ですから自分一人で見切ることが必要で、どこかにいる会ったこともない人がどんなにすばらしい専門家であろうと、その人の意見を参考にしながらも精神的に依存することは避けなければいけません。その人が自分と同じシチュエーションであることはほぼありえないのですから、自分を中心に考えるべきです。

ただ、三点観測は心がけるべき点で、言葉でいえば、日本語、英語、それともう一つの言葉で世界をみることを指します。それができなければ、少なくても地域の三点観測ーたとえば同じ情報を日本、アメリカ、ヨーロッパでどう報道しているかをみるーことが重要です。アメリカは多極化のなかでも外せない地域ですから、このアメリカをどう脇から眺めるか?いや、眺める事ができるか?が腕の発揮のしどころでしょう。これができてくると、日本で伝わっている海外情報の多くがいかにアンバランスなものであるかが分かってくるはずです。

デザインは視覚化された情報として使えると書きましたが、現在、特に電子デバイスのインターフェースなど認知科学的側面からの把握は有効性が高くなっています。思考の流れや癖が文化ごとに違うことが、こうしたインターフェースを通じて見えてきます。これは生活で見えてくる文化差と表裏一体となっていることもあり、要注目です。でもだからといって、従来の工業デザインでみえる領域を相対的に軽く見るわけではなく、両方を同時に観察することで自ずと把握できる地平に鍵が隠されていると想定してよいと思います。つまり、電子デバイスのインターフェースに文化差がでますが、ユーザー層や年齢層による要素が文化を隔てて共通にでることもあるので、逆に非電子デバイス系の商品に根強い文化差がでる傾向もあります。

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ヨーロッパ文化を日本人であれ誰であれニュートラルに見ることは難しく、ニュートラルではないところに意味があると思ってよいでしょう。あくまでも日本との比較で見ることに意味があり、そのうえで、自国文化ーこの場合は日本文化ーの再定義を検討することが発信の第一ステップになります。コンテンポラリーアートの村上隆が、日本美術の伝統を語り、自分がその後継者であるとする筋道を作るに伊藤若冲(上図)を使うのは、とても戦略的再定義です。いわゆる侘びさび的な世界とは乖離しているアウトローを自分の味方に引き入れることによって、日本美術の枠を編成したのです。イタリアにある陶器メーカーのCOVOは、いわゆるオリエンタルな商品を作るにあたり、日本人デザイナーを採用しています。ここでできたものも、日本では違和感があるデザインかもしれませんが、ヨーロッパ人が思い抱くオリエンタルにマッチすることでヒット作品(下図)になっています。

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この日本人デザイナーはロンドンのRCAを卒業していますが、ヨーロッパ文化をよくスタディしたうえで売れる作品を作ったと思います。日本で日本人が美味いと喜ぶ日本料理と全く同じ料理をヨーロッパで表現しないといけないと思い込むのは、ある意味、傲慢であるかもしれません。中国人が作る寿司を「ヨーロッパで喜ばれる寿司」とみなし評価することが、文化的素養のあり方でしょう。東京にある多くのイタリア料理が日本向けにローカライズされている現状を冷静に認識してこそ、ヨーロッパ市場にあう日本の料理や工業製品の開発がまともに考え始めることができるのだということです。

自分の立場と見方をじょじょに確立していく大切さを、ヨーロッパ文化を例にぼくは語った・・・・と思っていただければと願っています。

Date:09/9/22

地図の描き方の参考、ヨーロッパ文化の特徴の二つ目は「コンテクストの存在」です。キリスト教のベースなどを挙げることができますが、もっと身近な言葉を挙げれば「世間の存在」ということになります。「そんなことをすると世間に顔向けできない」という場合の「世間」がより存在感をいまだもっているのがヨーロッパである、という意味です。水谷修さんの『ドラッグ世代』の言葉を借りれば、「大人も捨てたものではない」という世界の存在。あるいは、ミラノの刃物セレクトショップのロレンツィの「どうして、人生経験の乏しい30代以下で良いモノを見極めることができるのか?」というのも、ある共通プラットフォームが社会にあることを前提としています。「それはフェアではない」「これでは道理が通らない」という表現が日常生活のなかで、決定打的な威力を保持しているのが、「コンテクストの存在」の証左になります。

どの世界においても世代間のギャップがあり、その間ではお互いの厳しい批判があります。それでもぼくが何度か書いているように、今の日本にある相互批判を眺めていて感じるのは、この共通プラットフォームがないがゆえに、焦点を絞れずに拡散しすぎているということです。だからこそ「大人も捨てたものではない」ことを大人は若い人に示していきつつ、両者がプラットフォームの構築に意欲を見せることが必要であると思います。やや話しがずれましたが、日本で共通プラットフォームの存在自身を忘れていると、突如にそれをリマインドされる、それがヨーロッパ文化であるということです。

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三つ目は、メインカルチャーへの敬意です。日本のアニメがヨーロッパでも人気があるといわれても、そのキャラクターが飛行機の機体や銀行の通帳で描かれることはない、というのが一例として挙げられるでしょう。また、子供服を見ても分かります。キャラクターがプリントされたシャツがありますが、基本的に大人の服の小型版がメインであるという考え方が強く、親がそれを良しとするので子供はその世界にしたがっていきます。文房具など小物にキャラクターがあったとしても、キャラクターが身体の顔にはならないという限定性があります。これは大人文化の強さでもあり、上述した共通プラットフォームの維持に貢献する要素でもあると思います。一つ目で伝統との連続性で述べたように、メインカルチャーが強いゆえに、サブカルチャーが政治性や反社会性をもつことが、日本との比較において相変わらず強いことも指摘しておきましょう。また、もともと貴族文化のないアメリカでサブカルチャーが主流であることとの対比で頭に入れておくべきことです。

最後の四つ目が「多様性の維持」です。人はアイデンティティを確立すべく常に奮闘している存在であるといえます。一度アイデンティティを確立したとビールで乾杯しても、翌朝には粉々になってしまうかもしれないのがアイデンティティであり、環境の変化とともに常に自己に問われるものです。したがって、このアイデンティティの確立を阻害する要素をなるべく排除する社会的システムがあります。毎朝の挨拶で「元気?」「元気だよ」「君が元気でぼくは嬉しいよ」と交わされる一連の言葉も、このアイデンティティの確認を促しているとも言えるかもしれません。少数民族やマイナー言語の保護が強くEUの方針として打ち出されているのは、人間の自己確認の重要さと難しさを前提にしていると思われます。

何度も繰り返しますが、これらの特徴は第一に日本との比較で意味があります。これらを絶対的な判断基準とするのはミスリードです。ある比較をすることで、当然、例外が沢山出てきますから、そのなかで自分なりの大きな枠組みをつくっていくことが大事なのです。個々の人間はそれぞれ違いますが、ある社会に住み人達の全体的な傾向を否定することは生産的ではありません。また「違った言語社会は違った感覚世界である」ということは確固と肯定できます。しかし、これを静的に使うのが間違いなのです。人の世界はダイナミックであり、人それ自身もあらゆる顔をもっています。それが常に入れ替わります。ですから、地図は使うタイミングが大切なのです。

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