イタリア料理と文化 の記事

Date:10/5/23

3月初旬、幕張でFOODEXのスタンドに立ったことを、このブログに書きました。トスカーナのデルポンテのオリーブオイル商品を紹介したのですが、その際の目玉が二つ。トスカーナのエキストラヴァージンオイルと日本で三大七味といわれる善光寺の八幡屋礒五郎の七味唐辛子のコラボ商品ミニボトル版。もう一つが、この味にゴマをあわせたオイル漬けのオリーブ。七味オイルは2年前からデパートなどで販売してきましたが、250mlだとお試しにはサイズがやや大きく、まったく新しい味でも気楽に買っていただけるよう100mlボトルを出したのです。同時に若い人たちを中心に浸透しつつあるオリーブの実に、この七味風味を加え、お酒のつまみとしてとしても提案できる商品として出品しました。その結果、実に多くの方から「美味しい!」「コンセプトが斬新!」という感想をいただいたわけです。特に、若い方や女性ーどうも女性のほうが辛いものがお好きなようですーからの賛同の強さにはビックリしました。これを契機に、有名ホテルの結婚式場の引き出物カタログに採用されたり、セレクトショップで販売されたりと流通経路が広がってきました。今、そこで感じることがあります。Twitterで知った方が大勢スタンドを訪れてくれたことの意味です。

Twitterが日本で一般的に認知されるようになったのは鳩山首相がはじめた今年1月頃と言われます。しかし、認知はされたが、実際にTwitterを日常で使い倒している人は思ったほど多くはないとも言われます。最近みたデータでは首都圏とそれ以外の地域でのユーザー数に格段に差がありました。例えば、世田谷区内ではフォローワーが1500-2000人近くにならないとフォロワー上位ランキングにならないが、首都圏を外れると、県ベースでも一桁少なくてもそれなりの順位に入るという具合です。Twitterを見ていると日本でiPadが発売される前に米国で購入した人たちが珍しくない数でいます。既にiPhoneが、そういう意味では話題にはならなくなっていると思わせるムードがあります。しかし、電車のなかでケータイを弄り回す高校生は沢山いますが、iPhoneはそうはなっていない。Twitterで知ったイベントに出かけると全員がiPhoneをテーブルに置いていたりする一方、別のところでは「iPhone? 何それ?名前だけ聞いたことがあるけど」となる。で、世の中の多くは「iPhone・・・何?」「Twitter・・・何?」で成立しています。それはタイプとしかいいようがないほどに、そうです。

以前、ホリエモンのブログを読んでいたら、これだけネットが普及しケータイを至るところで使っているいるにも関わらず、あまりに多くの人がネットショップを使っていないと憤りに近い焦燥感を書いていました。彼が、iPhoneの携帯バッテリーチャージャーがネットで売っていると説明すると、「ネットでしか売っていないのですか?」と聞かれることがなんと多いのか、と。これを読み、当たり前ながらiPhoneユーザーの全てが必ずしもオンラインショップを日常には使っているわけではないという以上に、オンラインでの購入決定には馴れが大きく左右していると言えるな、と感じました。本も相変わらず書店で手に取って買いたいという人が多いです。こういう傾向をみていると、Twitterの情報を有効活用して動いている人たちは、感度がどうのこうのということでなく、Twitterという新しいメディアに何らかのきっかけでたまたま身を任すことに決めた人たちが多いという印象をもちます。そして、そこにたまたま遭遇の幸運がある場合もあるだろう。だからやってみようじゃないと思った人たちがTwitterユーザーである、と。もちろん登録はしたけど、何が面白いのかさっぱり分からないと冬眠中の人も少なくないでしょう。

今週木曜日よりFOODEXに出品した七味オイルのミニボトルとオリーブの実をアマゾンで販売をはじめました。そこでキャンペーンのためにTwitter上でレシピとショートストーリーを募集するアイデアをHP上で昨日案内しました。

アマゾン販売スタートを記念して商品プレゼントのキャンペーンを行います。対象は七味唐からしオリーブオイル ミニボトル、オイル漬けオリーブ(七味風味)。それぞれを5名さまずつ(合計10名さま)に以下の要領でプレゼントします。両方とも募集期間は5月25日 (月)から5月31日(月)の1週間です。

<七味オイル> レシピ募集
七味オイルをつかった140文字レシピを募集します。和洋中なんでも結構です。ご応募いただいた方の中から5名さまに七味唐辛 子オリーブオイルのミニボトルをプレゼントします。

<オイル漬けオリーブ(七味風味)> ショートストーリー募集
これはお酒の肴として最高です。オリーブを酒の肴として使うシーンが入っている140文字ストーリーを考えてください。恋愛モ ノでもなんでもOK。

<5名さまの選び方>

5名さまは、Twitter上 で「これは美味しそう!」(←七味オイル)「これは面白 い!」(←オリーブ)と RTを多く獲得した方から選びます。こちらで応募データを把握するため に、応募されるレシピやショートストーリーまたはRTの中 には必ず @delpontejp が入っていることを 条件とします(したがってストーリの文字数は、このスペースを勘案してください)。ご不明な点はTwitter上 かDMでお問い合わせください。

iPhoneユーザーがオンライン購入者とは限らないように、Twitterユーザーがオンラインショップユーザーであるとも限りません。しかし、即アクションをとるネットユーザーである確率は高いのではないか?と想定したわけです。ネットヘビーユーザーである方をTwitterでフォローしたら、10分も経ずして七味オイルを買ってくれたエピソードを紹介しましたことがあります(八子知礼さんのクラウドコンピューティング研究会)。今回もアマゾン販売の開始をTwitterで案内したら、ほんのわずかな時間で買ってくださった方がいます。アマゾンユーザーでTwitterユーザーであるより、Twitterユーザーでアマゾンユーザーであることがこのケースでは大事で、どの程度の割合なのかはまだ分かりません。が、ぼくが何よりも期待しているのは、Twitterの「時間感覚」ー情報新鮮度が重要とされるーのみならず、Twitterの「情報発見感覚」です。「こんな情報があったんだ!」という発見の喜びをRTがどう作り上げてくれる可能性があるのか?ということです。

Category: イタリア料理と文化 | Author 安西 洋之  | 
Date:10/5/13

今日、近所に住む息子の同級生が学校を休みました。その母親からウチに電話があり、「娘が学校に置いてきた教材を学校の帰りに持ってきてくれない?」と依頼がありました。そこで息子は彼女の教材を先生から受け取り、彼女の自宅に届けます。ぼくも一緒につきあったのですが、インターフォーンで「教材持ってきたよ」と息子が言うと、同級生の母親の「よかったら、エレベーターで上まで上がってきて」という声が聞こえます。それを聞いて、ぼくは「頼んでおいて、自分で降りてこないのかよ。よかったらもないだろうに・・・」とちょっと思います。怒るほどじゃないけど、ちょっとひっかかるなというレベル。「よかったら」はイタリア語で”se vuoi” 。英語なら”if you want”。「君が欲するなら、上まで来てよ」ということになります。

この”se vuoi”がひっかかるのは、ぼくがイタリア語を理解していないからだろうか。この動詞 volere(英語のwantでvuoiはvolere の二人称単数形)が丁寧な疑問形を作ると分かっていても、それを丁寧表現とは受け取れないのです。それはイタリア文化を理解してないからなのか・・・と前々から気になり、イタリア人にも意味を聞いてみたことがあります。理詰めで話すと、「そう、そういう場合は、se vuoi じゃなくてse puoi (できれば)が正しいかもね」という答えがきますが、その本人がそばから”se vuoi”を連発するから、頭と口は別機能なんだと分かります。これはイタリア文化という文脈のなせる業なのか。要はこういうことです。「この行為をするかしないかの決定権は君にあるということは尊重したうえで言っているんだ。無理にやれとも言っていないし、君のキャパや意思を無視して頼んでいるわけでもない。あくまでも君の判断なんだよ」という伏線をしいておいて、「で、君がぼくを助けたいなら、助けてくれよ」と読めなくもない・・・と思うこともあるから、気になるフレーズなわけです。

もちろん”se vuoi”の後が「食事に誘うよ」というなら別に何の問題もないのですが、冒頭のように明らかに頼み事をしている時の”se vuoi”は、どうも頼みを有利に運ぶための術のように聴こえてしまいます。それをまったく気にならないで聞けるのは、こういう文脈に馴れきっているからではないか。あるいは、ぼくもそのように馴れきらないといけないのだろうか。そう考えます。ぼくの倍近くイタリアに住んでいる日本人に聞いてみると、「そうしょっちゅう気に障っているわけじゃないけど、まったく気にならないといえば嘘になる」と。イタリア生活が長いフランス語が母国語の友人は「自分ではあまり使わないけど、それを聞くと嫌な感じというよりなんとなく釈然としない気持ちが残る」と答えてくれます。そうか、あえて大きな声で言わないけど、「なんかなぁ」とは思っているフレーズであることが分かります。でも、ぼくの息子は「決めるのはぼくだと言われていると思うだけ」とそっけない感想。

この”se vuoi”をまったく意識することなく堂々と使えないと、イタリア人の精神構造をマスターできたとは言えないのかなとボンヤリと思います。日本語で「すみません」を連発するようなものでしょうか。「すみません」本来の意味とは関係なく、この言葉を挟むと日本文化に嵌ったような気になるという意味で。多くの外国人が「どうして悪くないのに、すみませんと言うの?」という質問をするのと同じように、ぼくは「頼みたいくせに、やりたければなんて聞き方をするの?」と思ってしまう。どうしても、丁寧表現は遥か遠くに霞み、第一義が頭に直球で浮かんでくる。だからからか、日本であれば謝罪をするケースでも「すみません」と言うのではなく、「それは残念だった」「それはお気の毒」とコメントするイタリア文化が”se vuoi”を多発させるのかと勘ぐります。メンタリティは言葉によって作られ、言葉はメンタリティによって作られる・・・・こんなところでしょうか。

Date:10/4/30

ネットサーフしていたら、日本の方が「ローマで中華料理屋に入ったら中華とは思えぬ料理がでてきて呆然した」と書いた記事をみつけました。今まで似たような文章や感想をこの20年間見聞してきたぼくは「またかよ・・・」とややうんざり。でもこれに対するぼくの意見は何度でも書き続けないといけないとの想いもムクムクと出てきます。

まず、ローマに旅して中華料理を求める場合にそんなパーフェクトを求めるものか?というのが第一点。多分、この方なりの「中華料理」の基準があり、不幸にもそのレベルに達していなかったのでしょうが、日本の山奥に一軒しかないバス停の前にある何でもありの飲食店で出てきた美味くないラーメンを、「これをラーメンとは呼べない!」と批評するのとは少々意味合いが違っています。「これはラーメンではない」というのは極めて個人的義憤に近い、あるいは逆に表現上のあやともいえます。しかし、冒頭の人は、どうも個人的レベルではなく文化的問題として怒っている様子である・・・つまり、文化伝達が正しくない、と。

この方が中国本土や香港あるいは台湾の中華料理を指しているのか、日本における中華料理を指しているのか分かりませんが、世界5大陸に数多ある中華料理をもって中華の定義づけをしているのではなさそうです。およそ日本と日本に近い場所の中華料理をメンタルモデルとして、そこからの差異に許容度が低かったといえますが、ローマでの中華料理も中国系ーイタリア国籍がどうかは別にしてーが作っていたであろうことを想像すると、それを日本人に「君のは中華じゃないよ」と言われても店の人は「この人、何言っているの?中華の何を知っているの?」とキョトンとするだけでしょう。和食もそうですが、国名を前にした〇〇料理の定義は素材や調味料あるいは調理法のどこかに伝統に通じるものがあれば、〇〇料理と称する。これ以上の定義は存在しないとするのが、料理のそもそもの成り立ちではないかというのが二点目になります。つまり、イタリア料理が大航海時代以降にトマトを使い始めた、ポルトガルに祖先をもつ天ぷらを事例に持ち出すまでもなく、料理とは異文化交流の賜物であると考えるのが普通であるということです。

日本の飲食店で家庭で「こんなの和食じゃない!」と叫んだことありますか? 「なんだ、このまずいの」と言っても、和食の定義に合わないという考え方はしないはずです。懐石スタイルのフランスのヌーヴェルキュジーヌを東京で食べるとき、「これは和食じゃない」と評するのではなく、「和食の世界が広がっていいね」と感嘆することが多いでしょう。東京の本格的イタリア料理屋で和風だしのスパゲッティに海苔がのっていると、イタリアらしくないと思うのではなく、和風パスタ専門店のようだなと想起するだけでしょう。しかし、それを通常イタリアに住むイタリア人が東京で食べれば、「これはイタリア料理ではない」と言ってあまり見向きもしないでしょう。ご飯や肉に醤油をかけて美味しいというイタリア人であってさえ、醤油味スパゲッティには関心が低くなる可能性が高いのです。一方、フリットと似た天ぷらには、その洗練さに感嘆をする。以上を三つ目として挙げるのは、料理の異文化交流への評価は極めて主観性が強く、同じものであっても、評価する当人の価値体系のありかによって大きく変わる点です。それも習慣の変化によって変貌する。ミラノの和食屋で20年前に食べたズッキーネの天ぷらはかぼちゃの代替であると思ったとき寂しさを覚え、東京にズッキーネが普及した現在、同じものを「天ぷらの進化」として喜ばしく思ったりするのです。

意図的な異文化交流は先進的にみられ、意図的ではない異文化交流は無知としてしかみられない。しかも、本人の意図など食べる人間はそこまで知らない。とすると、意図的か否の判断は、その店のデザインやサービスあるいはムードなど料理以外の要素で判断することになります。これらによって、価値体系をサービス側から可視化するわけです。「それは料理の本質ではない」という声も聴こえてきそうです。が、料理とは異文化交流の結果であることを常識とするのは、1) だしのうまみは世界共通で評価されやすいと言われること 2)かなり多くの味は食べなれることによって美味しいと思えるようになる という二つの要因によって成立しているからであると思われます。ビールを子供の時に飲んで苦いと思い、大人になってこんなに美味い飲み物はないと思うのは、飲み慣れた結果であるといえます。

そして寿司がダイエットをキーワードに世界中に流行しているのは、食べなれるのは、食べ続けるための動機を維持したからと言えます。最初に生魚の匂いにヘキエキとしてもー特に日本の外で寿司を食べる場合ー、寿司を食べるのは健康に良いと合理的概念を頭で理解したがゆえに継続性を保てます。あるいは、これを食べることで流行のなかにいると認知されると思う、これを食べることで大人の世界に入れるーうにの寿司をカウンターで大将に注文するのはかっこいいことだと若者が認識するー、という価値体系との組み込みへの希求が動機を生むこともあります。もちろん、食べなれたことがなくても、だしのうまみでなくても、「これは美味い!」と初体験で遭遇することもあります。しかしながら、異文化の〇〇料理といわれるものが、こうした初体験で評価されることは確率として低く、自分の知っている料理の近似値かどうかが確率アップの理由となることが多いと考えるのが妥当でしょう。

こうしてみてくると、異文化料理の普及ー日本での外国料理や海外での日本料理ーにあたって必要なことは、ユニバーサルな課題をどう解決するかであることが分かってきます。それぞれにおいて素材の選択から調理法まで技術的なレベルでの意思決定は千差万別でしょうが、テーマはコンテクストのセッティングである点において何ら変わらないといって過言ではないと思えます。「これは日本文化のエッセンスだから、そのまま外国人にも分かってもらいたいんだ」という気力や情熱だけでは殆どものにならず、コンテクストのレイヤーとディテールそれぞれへの丹念な読み替え作業ー時代の流行がこれを楽にしてくれることはありますがーの成果こそがほぼ唯一の道ではないかと考えます。そしてローカリゼーションマッププロジェクトで書いているように、この読み替え作業の領域とスピードは、狙う市場の規模と成熟度によりますから、あえて「読み替えない」という選択肢もタイミングによっては選択の一つであることは頭に入れておくべきです。

<関連エントリー:以下以降のFOODEXの関連記事>

http://milano.metrocs.jp/archives/2978

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