世界地図、アジアの地図、日本列島の地図、町内の地図・・・これらはどれ一つとって全てを満足することができませんが、どれかが欠けてもいけません。それぞれがそれぞれの必要性に応じて存在し、しかも、それらの全てを見ないと全体像が描けません。そして、できれば年表も読む。時の流れによる状況変化を把握してこそ、現状の区分けの由縁が分かる。ぼく自身、それが全て常にできているわけではないですが、それを目指すことの重要性を忘れてはいけないと考えています。自戒しつつ・・・。
市場の定性調査の必要性が盛んに言われます。量的調査では掴みきれない領域とレイヤーのあまりの広さに気づいたがゆえかもしれませんが、ちょっと気になることがありました。それは往々にして、歴史や古典的文化のありようをあまり視野に入れていないことです。エスノグラフィックなリサーチと地域研究の両輪は欠かすことができないはずです。両方を良い按配に目配せする勘、「これじゃあ、向こうが足りないな」と思う素養がないといけない、それも極端な表現かもしれないけど、生理的にそう思えることが必要ではないかと思います。要は両方にリアリティを感じないといけない。

そのような趣旨をこめて、先週の土曜日のローカリゼーションマップ研究会の勉強会では、アジア経済研究所ERIA支援室の吉田暢さんに、アジア研究の基礎の基礎を話してもらいました。まず、アジアって何?何処?というところから。国連の分類が全てではなく、色々な機構が様々な区分をしています。あるいは時間軸の導入で変化します。それから、「アジア」における文化的ダイバーシティの実像 → 「アジア」を見ている複眼 →「外国人の眼」で見ることの重要性と「現地人の情報」の危険性 → 「研究」が政策やビジネスにもたらす効果 と展開してくれました。
参加者からの質問も多様ですが、「どうすれば、市場が見えるのか?」ということへの関心が非常に強いことが確認できました。アジアへの注目度もありますが、しかし、これも裏を返せば、先進国市場のアプローチも発展途上的であるということです。冒頭に述べた両輪が定着していないわけです。吉田さんの次は、橋田規子さん。元TOTOデザイナーで芝浦工大の先生です。TOTOの海外戦略の概要と各市場の習慣と製品つくりの関係などがテーマです。風呂に限って言えば、日本だけが特殊。毎日のように風呂に入り、複数の人と入る。こういう習慣が日本以外のTOTO市場(中国、北米、欧州など)にはない。そこで、風呂は普段あまり使われないがゆえに、逆に贅沢の象徴とした要素が強調される風呂デザインが増加傾向にある・・・というロジックは皆さんにかなり刺激的だったようです。

橋田さんは、現状のところ、住宅機器の分野においては欧州メーカーのデザインブランド力が強く、それ以外の地域のメーカーはそれに追随する傾向があると指摘。そこで日本メーカーは技術力で特徴を出していっているーいかざるを得ないーと話していました。この点は、前回の勉強会で指摘した「技術信仰の強さと精神性への偏り」に繋がるところで、やや気になる点です。TOTOは海外のハイエンド市場に焦点をおいているメーカーですが、電機や自動車などの日本メーカーがハイエンド路線で行き詰っているなか、住宅機器メーカーのハイエンドはいつまで維持できるか?が関心の的になりそうです。いずれにしても、各地域の日常習慣とデザインの関係性は人を魅了するテーマであることがよく確認できました。

ところで、そうした興味を裏付けるかのように、一般ユーザーが描くデザイン像というのは、思った以上にコンサーバティブだなと思う経験がありました。日曜日に参加した日産本社でのEVワークショップです。一般公募した(潜在)ユーザーにEVについて考えてもらうというイベントですが、ぼくも一般(潜在)ユーザーの一人として参加者の意見を聞いているなかで、「あれっ」と感じることが多々ありました。EVの社会的位置やそのコンセプト、あるいはデザインについて話し合っていると、クルマの「近未来イメージ」というのが、もしかしたらこの数十年変化していないのではないか?と思えたのです。時がどう経過しようが、ある固定的「近未来像」がいつも残像のように生きつづけている・・・1970年代にみた21世紀像は、21世紀になった今でも近未来イメージをひっぱっている。これをコンサーバティブと表現するのが正しいかどうかは迷うところですが、「近未来イメージ」も伝統的文化要素の範疇に入れることができるかもしれないとは考えました。
だからこそ、実際に新しいシステムなり技術が現実化してきたとき、案外、それまで無意識的にでも維持してきた「近未来イメージ」をあっさりと捨て去ることに抵抗がない。要するに、あまり合理性を伴わない残像は、それがゆえに長時間保持されることも可能ですが、それゆえに他の合理性に道を譲るのもあっけない・・・ということをワークショップに参加しながら思ったのです。これを「各地域の日常習慣とデザインの関係性は人を魅了するテーマ」に戻すなら、「非合理的な領域とレイヤーは頑固に生き延びるようでいて、思いのほか、もちが悪いことがある」ことを思うとき、もちが良いものは合理性が優先するからなのか?ということが課題にあがってきます。

これは人工物発達学のテーマに近似でもあります。イタリアでもあまり風呂に入ることがないと言われていても、豪華版ではなく、普及版の風呂がなぜこれだけ新たに設置され続け、汚れ物の洗濯などに使われるだけではなく、本来の使用がされることが(当たり前ながら)異常なことではない。そこにある合理性は、日本のように毎日のようには入らないことが前提で、風呂という習慣が合理性をもっているということになるでしょう。シャワーを浴びる回数やそのタイミングとのトータルで判断すべきで、風呂の回数自体は合理性の絶対的判断基準にならない。つまり、どれだけ幅広い範囲で生活習慣を見極められるかが重要です。イタリアの伊達男は一日3回シャツを変えるということと、シャワーのタイミングの問題は密接であり、こういうライフスタイルのなかで風呂を考えないといけない、ということになります。しかも、汗臭いTシャツを2日続けて着る。しかし、そこにオードゥトワレットが活躍するライフスタイルもあるなかで、どうこれを暗喩としても考えるか・・・・です。
自分が開発に絡んだクルマを街中で偶然に見かけるのはとても嬉しく、それも国境を越えていると感慨もいや増します。かつて、日本のカーメーカーにいた時に関わったクルマをヨーロッパの道で見かけたとき、思わずクルマに駆け寄ったことが何回かあります。それだけ、自分のアウトプットがどこか地球の片隅に届いていたことを自分の目で見るのは心躍ります。しかも、それがもっと生活の奥深いところに浸透していたりすると、さらに喜びが増します。あるいは、「それって、こういうことじゃない?」という他人の言葉の前提が実は、自分たちが発信した考え方だったりすると、もっと充実感がある。食ビジネスは、これに近い感覚があります。
3月に幕張メッセで開催されたFOODEXでオリーブオイルの紹介をした話を書きました。初日に確認したことは以下でした。
ある味を賞賛するのは味覚、触覚、臭覚、視覚だけではなく、ロジックで評価するということです。もちろん頭でっかちの味覚は話になりませんが、必ずしも舌だけで人は簡単に振り向かない
舌に限らないことですが、舌なら「食べ慣れる」ということが重要です。馴れるには、馴れるための環境を含めた条件が揃わないといけません。したがって、オリーブ漬けについて、以下のような発想がでました。
実はアレキサンダー自身はオイル漬けオリーブは日本での漬物であると考えていました。しかし、そのようにヨーロッパ人が説明するのではなく、日本人が日本人の思考枠のなかで、「これは漬物である」と自然に思えることが重要なのです。日本で漬物は野菜のできない季節の保存食として考えられました。それはイタリアでも似たような事情があるのですが、しかし、その周辺事情だけでは同じカテゴリーと定義するリアリティに欠けるのです。石森さんが居酒屋で言った「漬物って特に欲しいと思わなくても、テーブルの上にあると、なんとなく食べているんですね」という感覚が日本とイタリアで一致していることが、似たものを同じものとするに際しての決定打ではないか・
この最後の部分、これが肝です。似たものは世の中に沢山あるけど、それを似たものではなく、同じものとするには大きな溝を飛び越えないといけない。こういうコンテクストが作れてはじめてモノは売れ定番化していきます。ローカライズからローカルへの道筋です。先週から今週にかけ、デルポンテ社の七味オイルやエキストラヴァージンオイルの販売現場を歩きながら、「定番化のキーとは何か?」を考えていました。

上は赤坂TBS前にあるワールドが経営するF.O.B COOP ENTHESE です。下は同じ店内の別の棚です。真ん中にある赤とうす緑のボックスがデルポンテの商品です。

また、下は浅草橋にある油専門店、金田油店です。

同じ商品ながら、違った文脈におかれています。両方ともきれいなディスプレイですが、全く異なったコンテクストのなかにあり、当然ながら、世の中は複数のコンテクストで成立していることがよく分かります。ある程度のコンテクストの固定化と流動性のバランスの上に定番が成り立つと思いますが、ここで面白いのは、F.O.B.COOP ENTHESE はいわばヨーロッパ文脈からアプローチし、金田油店は日本文脈から見せていることです。似たものを同じとする試みの一つといえるでしょう。
因みに、先週、マガジンハウスのサイトで「日本とイタリアの食文化の融合実験」というタイトルで紹介されているので、宣伝しておきます 笑。
http://webdacapo.magazineworld.jp/lifestyles/gourmet/29232/
この数年の日本のデザイン動向を振り返ってきて分かることがあります。技術への偏りと日本の精神性への偏り。これがはっきりと出ています。経済産業省が主導してきた「新日本様式」や「感性価値創造イニシアティブ」にその傾向は出ているし、それが経済産業省だけの動向であると断言するには、あまりに同じような言説やデザインが中央官庁以外の場所にあり過ぎます。これは全体的傾向であると言ってよいでしょう。レクサスのデザインポリシーであるL Finess が2004年であり、「新日本様式」のスタートが2005年であるとの1年のずれがあったとしても、あるいはL Finessのもともとの発案が日本以外の場所にあったとしても、技術と「日本らしい」精神性への偏りすぎた志向性の表現であることは否定しがたいです。

これの何処が悪い?結局のところ、技術信仰の強い商品つくりの非はiPhoneやiPad、あるいはサムスンの製品に負けが込んでいることで散々言われており、高価な先端技術はビジネス上のメリットを生み出すことに貢献できないのではないかと見られています。実際、ミラノの家電店で日本製より安く、しかもデザイン的によりテイストがはっきりと市場よりのエアコンがあれば、日本の多機能を実現した商品ではなく韓国のそれを買うのが妥当です。ダサいデザインの高機能で高価格の商品が売れると思うほうがおかしい。しかし、それが日本製以外にはなければ、それは渋々でも買うしかない。こういうロジックです。
そして、技術信仰では立ち行けないと思ったとき、「日本らしい」精神性、いわば物言わぬ美学に突入する。外国人には分からぬであろうーと思い込んだー日本文化の奥深くにある美学をフロントラインに引き寄せ、「富士山は世界一美しい。ここに日本人の精神性が表現されている」という分けの分からない話を始めたがる・・・という傾向が顕著にデザインの動きにも出ています。加藤周一が、「富士山が美しいというのは、私もそう思います。それを日本一と言うと、どうかな?とは思うけど、その気持ちは推し量ることができます。しかし、富士山を世界一というなら、それはあまりに井の中の蛙であるといえるでしょう」と語ったのは、太平洋戦争時の日本を暗に指していたとしても、残念ながら、60年以上経た今も同じことが言える悲劇があります。

先週の土曜日、ローカリゼーションマップ研究会の第二回目の勉強会を開催しました。暑い中、定員通りの10数人の方においでいただき、スイカを食べながら議論しました。まず、「AXIS」編集部・記者で、最近フリーライターになった神吉弘邦さんに、「新日本様式」「感性価値創造イニシアチブ」「グッドデザイン賞」「Japan – Designs for the Crowded Globe」「ミラノサローネ」などを取り上げもらい、それぞれの内容紹介とそれに対するフィードバックを説明してもらいました。その後、デザイナー、デザインプロデューサー、ジャーナリスト、プランナー、学生などが各々の立場から発言していったのですが、ぼくが一番印象に残ったのは、神吉さんの出した事例から透けて見えてくる冒頭に述べたことです。
そして考えたこと。今までの自動車や電機に重点をおいた輸出振興は、シングルプレイヤーがそれなりの規模で予算をかけながら自分の商品をプロモートすることができました。だが、これからコンテンツ、食品、雑貨、家具など中小企業をメインとした商品を輸出していくに際し、個々の企業努力だけで話は済むのだろうか?ということが疑問として出てきます。殊、「日本として」という発想は不要でしょうが、仮に、ある商品ブランドを繋ぎ合わせることで大きなイメージ構築ができ、そのほうがそれぞれの商品がよく売れ、ある価値体系への認知を効率的に向上できるとするならば、それは考えるべきだと思います。コンテクストの創造です。精神性に逃げないコンテクストの創造です。
これが今週土曜日の「アジアを向いたローカリゼーション」をテーマとする勉強会の「影のキーコンセプト」になるのでは?と考えています。既に定員20人に対して9割近くの参加申し込みを受けています。ご希望の方は早めにご連絡ください。