Author Archive

Date:10/12/12

そろそろ「ミラノサローネ」シリーズの4年目を書こうかなと思いながら、何の話題をトップバッターにもってこようかと考えていました。そのとき、日経ビジネスオンラインの連載「ローカリゼーションマップ」で取り上げたパナソニックの欧州白物家電戦略について書いた記事について、Twitter上でかとうけんたろう(http://twitter.com/kentarouster)さんが、以下のコメントをくれました。

「日本って照明器具を軽んじてる。イタリアなんかは照明器具ってデザインの花形だったりするわけでしょ?家具を買う文化か家電を買う文化かの違いかな。今後否が 応でも家具と家電は境界があまくなる。ヨーロッパ製品はやっぱり日本製品より魅力的なものを多く出しそう。ダイナミズムが違う」

「ぼくは家電的なものは極力生活から排したいんですが、多くの人は家電でコーディネートしたいと思っているようで。。。。。だからデザイン家電みたいなわけわからんもんが。。。。。」

パナソニックの白物家電に関する記事では、ヨーロッパでは冷蔵庫は「冷えるキャビネット」としてインテリア側の範疇に入る話を紹介しました。かとうさんのコメントは「冷蔵庫を家電サイドに入れるか、インテリアサイドに入れるか」の見方の議論より、何をもってインテリアデザインの発想のベースとするかを問うています。当然、流れる時間も違う。TVを10年もてば「それなり」かもしれませんが、ソファーが10年では短いでしょう。

長くキープされるモノが空間の骨格を作り、短期で回転するモノがそのなかで踊っていく。それが極めて自然な考え方ですが、そのようなことを当然のこととして認識しながらも、どうしてもその場その場、あるいはその時々で短期的なモノで骨格を崩すことに後ろめさたをもたない。これが、かとうさんの日本での家電と家具の関係の指摘のバックグランドにあるのではないか?と想像しました。

デザイン家電という言葉はさすがに最近はあまり使われなくなったように思えますが、単に言葉が使われないだけで、意識はそう変わってないでしょう。空間において補完的存在であるものが、補完的存在を自己否定する振る舞いをするのが「デザインのコツ」のように表現されることがあります。デザイン家電はそれよりは「マシ」なポジションからスタートしているにせよーそれ自身の機能が主役を演じるモノが多いー、この家具と家電の境界線を考えることは極めて大切だと思うので、「ミラノサローネ2011」は、このテーマを出発点とします。

Category: ミラノサローネ2011 | Author 安西 洋之  | 
Date:10/12/12

ミラノの小学校に通う息子の歴史の教科書をみていて驚くのは、3年生でビッグバンから先史時代まで延々に続き、4年生に入ってやっと世界の四大文明に入ることです。どうして、どうやって人は火を扱うようになったかとか、実に丁寧に教えていきます。今の日本の小学生の歴史の教科書がどうなのか知りませんが、このイタリアの教科書はロジカルに歴史が分かるように説明されています。

歴史に限らず、地理でも文法でもそうなのですが、大人と同じようなレベルの内容がきちんと書かれています。例えば、地図に二種類あり、実寸にもとづく地図とメンタルマップの二つがあると説明されているのです。事例として正しいかどうか分かりませんが、イタリアの子供服は大人の洋服のミニチュア版であり、いわゆるキャラクターものの子供らしい服が主流ではないのは、こういう教科書の作り方と関係がありそうだと想像しています。

本書はエッセーの集まりですが、「世界史が未履修と知って」というタイトルのなかに、ヨーロッパの学校において世界史教育に如何に時間を費やすかがやはり説明されています。高校の5年間すべてに歴史教育があり、1年目は先史時代からギリシャ文明まで。2年目は1年すべてつかってローマ史のみ。教科書があまりに完璧なので、塩野氏は『ローマ人の物語』の各巻を書く際に、この教科書で全体図を確認していたといいます。これは、日本の高校で世界史が未履修でニュースになった話題の対比としてとりあげたのですが、塩野氏が小説を書くにあたっての姿勢が四項目あり、これはぼくの文化差異の説明にも参考になります。

第一に、やさしい語り口で物語らないこと。なにしろ歴史の知識は不十分でも、知力は充分すぎるほど充分なのが私の読者なので、子供に語って聴かせるような語り口では礼を失する。

第二は、内容の知的水準を下げないこと。水準を下げないでおいて知識は不十分な人に理解してもらうには、方法は一つしかなかった。明晰に書くこと。それしかなかったのである

第三は、視覚を活用することだ。具体的には、地図や人物の顔写真を使うことだが、人物の顔といっても私の場合は、彫刻や絵画に描かれたものになる。事件が語られれば、それに関係した人物の顔を見たいと思うのは当然だから。地図のほうは、地理ですね。歴史地理と言われるように、歴史と地理は不可分の関係にある。

最後は、歴史の流れを読む人に感じ取ってもらえるように書くことだった。流れを感知できるようになりさえすれば、歴史というものは、半ばわかったのも当然なのである。

いい読者がついているんだなぁと第一に対してまず思いました。子供に語りかけるような調子が失礼というのは彼女流の皮肉であり、第二のポイントを成立させる必要条件と位置づけたほうが良さそうです。それにしても、ぼくが「そうだなぁ」と納得したのは、太字にした第二のポイントです。明晰にまさるものはないんだというのは、えらく説得性のある言葉です。第三や第四の項目ももちろん大事ですが、すべての解決策は第二の項目にしかないでしょう。

Category: 子育て, 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:10/12/9

あらゆる事柄は段階的であるとの認識が必要です。ぼくがズームアップとズームアウトの使い分けを盛んに書いているのも、状況のレベル認識とそれに対応する方策を常にセットで考えないと使い物にならないからです。そして、多くのものは点から線、線から面と展開するー進化するーことを前提に考えることを基本においてきました。しかし、逆のパターンが現代の紛争であることに気づき、ものごとの両面を十分に見切れていなかったと思いました。小集団の紛争が増えていることを知っていても、それが点→面と面→点の両方の力学で動いていることを明確に意識しきれていなかったと考えるのです。緒方貞子の言葉です。

平和維持活動は、もともとは『線』でやったわけですよね。平和維持活動がいちばん繰り返し行われたのは中東ですけれども、きれいに休戦のラインが引かれて、そこに平和維持活動というのは展開したわけですね。

しかし、最近の紛争では、『線』じゃなくて『点』になってきたわけです。紛争地の大事なところに点在するわけですよね。国境を越えての紛争じゃないんですから、安定をしようとすると点になるわけです。これでは、平和維持活動の効果を上げていくというのも難しくなります。ボスニアももちろんそうだったし、クロアチアの国連の保護地域でもみんな『点』になってきましたから、これからは私は『点』のほうが多いと思いますね。

紛争というのは一つの大きな形があるんじゃなくて、段階的にあると思うんですよ。非常にローカルなものから、地域に広がっていく。それからさらにこれが国際的な紛争になるという、それぞれに対応した紛争処理のメカニズムが必要だし、そのメカニズムを強化するための一種の強制主体が必要になってくると思う。

冷戦以降、国家というサイズがあるいはメカニズムが民族間の憎悪などを原因として起こる紛争とマッチングしなくなってきています。軍事活動でいえば、「空爆の無意味化とジレンマ」が、この現象のもう一方にあります。敵が見えなくなりつつあり、その敵は遠くにある彼らではなく、今まで一緒に生活していた隣人である・・・というのが現代の紛争の姿である限り、極端な言い方をすれば、隣家を攻撃するに必要なのは戦闘機ではなく斧であったりするわけです。そして、紛争の元にある憎悪の根にあるのは、社会的に公正かどうかにあると緒方は指摘します。

貧困の撲滅は大事ですけれども、それで平和が来ると思ったら間違いだと思います。貧困がなくなることと、社会的な安定が出てくるということは、ちょっと違うんですよね。社会正義、社会的な公正、そういうものが同時に進んでいかないと平和は実現しません。社会的な公正さは非常に重要だと思います。私が見てきた紛争の多い国家において、あるいは地域においては、社会公正という問題は非常に大きかったと思いますね。逆に言うと、それが保証されないところで紛争が起きるのです

好き嫌いの話しではないのです。人は何らかの論理的な筋道が通らぬところで怒りや恨みや苦しみや悲しみを抱えながら、敵を作っていくと言ってよいでしょう。全てを論理で解決できないですが、その糸口は見つけられるかもしれないし、そこに付随する感情が何なのかを想像できたとき、問題ある状況超える突破口が見えてくる可能性があります。

私の仕事で、常に何がいちばん頭にあったか、あるいはあり続けたかというと、どうやって問題を解決するかということです。問題解決思考型の生活を10年したんだと思います。一気にすべての解決ができるわけではありません。段階的ですね。すべての段階が次への解決にどうやって繋がっていくのかというふうに考えるんだと思います。

最終的には『勘』でしょうね。これが大事だとか、これはおかしいんじゃないかというものは出てくるんですよね。やっぱり年季が進むにつれて経験が蓄積されますから、『これはまずいんじゃないか』とか、『これはもっと押さないといけないんじゃないか』という部分は、比較的『勘』だと思いますね、私は。

論理で繋がるところは繋げ、そこに浮遊する感情を想像し、お互いのリンクを繋ぎきれない部分は勘で補完していく。それをするためにも、あらゆるものを段階的に把握していくことが必須で、これを間違いないために現場に頻繁に足を運ぶという習慣的行為が重要なのでしょう。

国連難民高等弁務官を退官後出版された本書ですが、何百万人という難民が数日で動くさまを眼前にして決断を迫られる立場がどういうものか・・・このような判断と、あまりに無縁な生活を送っているぼくにははかりかねます。ただ、人の目を正面から見て前へ進むことが大事であることは、どの世界のどんな立場の人間でも同じであろうと想像するだけです。