今週、『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか?』が日経BPストアやソニーリーダーストアから電子書籍として発売になりました。今月はリクルートの雑誌『ワークス』の現地化特集の冒頭でもインタビューが取り上げられ、来月はテレビ番組でも紹介されます。ローカリゼーションマップの考え方がじょじょに浸透しているのを、こうした目に見えるカタチで確認できるのは嬉しいです。前著『ヨーロッパの目 日本の目』でローカリゼーションの重要性を一般の人に向けて語り始めてちょうど3年になりますが、まったくのゼロからスタートしたプロジェクトとして悪くない進捗であると思っています。
最近では文化人はビジネスのことを知らないだろうからと、ビジネスについて薀蓄を傾けてくる人もいて苦笑いです。ビジネスへの文化理解の適用を語っているその趣旨を分かってくれていないことへの苦笑いと、ぼく自身が著作と講演でやっている人間-文化人ーであると思われていることへの苦笑いです。ぼくが工場のなかに入り込んで技術供与の商談をしたり、弁護士と一緒にタフな契約交渉をしていることを幸いながら(笑)ご存じないようです。

ローカリゼーションマップの活動を通じてつくづく思うのは、大企業の名刺で仕事をしていないがゆえに分かってきたことがぼくのベースになっているということです。ぼくが大企業にいたのはもう20年以上前の昔話になりますが、思うに年齢や経験の量だけでなく、その立場ゆえに見えないことが多かったと今更ながらに感じます。いわゆるグローバル企業でたくさんの違った国籍の人と日常的に協業して得る経験で見えてくることは、その企業文化やそのレベルのビジネス文化について素養ができることを意味するにーあえて言えばー過ぎないのです。サプライチェーンの末端に伸びる小さな細胞がグローバルビジネスを支えているにも関わらず、多国籍企業の従業員は思いのほか、末端の細胞事情を理解するのが不得意であるとの矛盾を抱えています。大企業の従業員がマーケットを実感として把握しにくいのは、こういう背景にも原因があります。
大企業の名前で契約をする場合には浮上してこない個々の文化のプライドや拘りが、小さな企業の名前で契約する場合には覆い隠すのができないほどに露骨に出てきます。日本人なんか嫌いだと人種差別の目でみるビジネスマンの振る舞いにこそ、そのビジネスマンの住む世界の特徴が見えてくるのです。これらを体験してきたことが、実はぼくの宝です。ローカリゼーションマップの考え方のエッセンスには、嫌なシーンをたくさん味わってきたがゆえの反省が込められているともいえます。イタリアはドイツではなく英国ではないがゆえに、日本文化やその製品への評価が芳しくない。だからこそクールジャパンに浮かれないロジックをイタリアで生活するぼくは見いだせるわけです。
人はたいしたものではなく、自分の経験してきたことでしか視点を獲得しづらいものです。読書はそれを補いますが、補えない部分がはっきり分かるという意味で読書の有用性を語るのが正確でしょう。しかしながら、「自分は経験がない」との弁解で歩を止めるのはできません。とするならば、経験しないことを経験したことと同等の位置に格上げする方法を編み出さないといけません。大企業にいて見えない部分をどう見るか?逆に中小企業にいて見えない部分をどう見るか?
人ではなくモノのローカリゼーション期待度を観察して異文化の特徴を把握するのは、その一方法です。人を見るなというのではなく、人を見ることだけでビジネスを前進させる異文化理解・判断は難易度が高いため、敷居の低いセッティングを考えようとの提案です。一般的な話に落とし込むなら、汎用性の高い土俵を自らつくる知恵が経験不足を補完します。もう一つの方法は、ほっぽっておいても垢のように堆積する個々の経験の純度を如何に高めるか?に鍵があります。純度を高めるとは、一つの経験をいつでも取り出しやすいようなアーカイブにすることでもあります。さらにAの経験とBの経験の絆の作り方パターンをマスターすると、アーカイブはより活用しやすくなります。これがマスターできないと、自分の経験の「孤独感」に悩まされます。

2011年も残りわずかです。「『新しい発想』と『自分の言葉』を同義と考えてみる」で書いたことの発展系を考えているところです。来年の中心的テーマになってくるはずです。どういうカタチで世に問うていくか? 今、着々と準備を進めていますからお楽しみに!
大学生のころ社会学者の真木悠介(見田宗介)さんのワークショップに何度か参加していたのですが、今もよく思い出す言葉があります。正確ではないかもしれませんが、「思想には軽いと重いという軸があり、それは軽い方がいい。そして、もう一つの軸に浅いと深いがあり、それは深い方がいい。つまり軽く深い思想を目指すべきだ」という内容だったと思います。その後何十年を経ても何かを判断するときの指標になっています。自分の血となり肉ともなったと言えるでしょう。ただ、それを自分で体現しているか?と聞かれたら、その自信はまったくありません。残念ながら・・・・。

以前からも当然ありますが、特に最近よく耳にし目にする言葉に「あれは表層的で深くないよね」というのがあります。実に多い。先日、自動車ジャーナリストが今年の東京モーターショーについて、「深くない」自動車の開発のありようを記事で批判していました。そう思ったのは事実であり、それはそれで分かるのですが、熟練したジャーナリストが「深くない」という言葉で対象を批評したつもりになっていることに違和感をもちました。
そもそも、深いとはどういう意味なのでしょうか。大雑把にいって、通常2つの観点で使っているのではないかと思います。論理の展開を途中でストップさせず、木の根が土の中にどんどんと深くまで伸びていくように「深く考える」。この痕跡が見えるかどうかを指摘していることがひとつめです。いってみればロジックツリーの長さの問題です。もう一つは範囲の問題ではないかと思います。論理の整合性を支える背景がどれだけの広さでカバーされているか。さまざまな感覚的なつながりでみているのか、論理を心との関係で語っているのか。つまりどれだけ「奥深くまで」踏み込んだのか、です。
「深くない」という表現は前述の2つの問題のどちらを指し、長さが具体的にどこで不足しているのか、範囲がどこまで至っていないのかを明示することによってはじめて見えてくる批評です。きわめて具体性ー抽象度の高い論議であってもーのある内容ですから、「熟練したジャーナリスト」であれば多くの具体的なポイントをつけることができるはずなのに、それをせずに「深くない」を連発する・・・・いったい、これは何なのでしょう?何がそうさせるのかを考えずにはいられません。深くない深いを論理的に語るのも嫌になるほどに、「深くない」状況に囲まれ厭世的になっているとの心境を吐露しているのでしょうか?

世の中が前進するための批評をする-正当性のあるー立場を自ら捨てているのです。実を言えば、盛んに聞く「深くない」という表現は、このような傾向をもっているケースが多数ではないかという印象があります。前進するための批評では、「深くない」とは言わずに何らかの別の方向の表現に努めていくはずです。たとえば、あるデザインは社会的に弱い立場の人をどこまで配慮しているのか?という指摘があるはずです。
それがなく「深くない」と書く人は、前線を退いた人間であるとみなしてよいかもしれません。
小澤征爾と村上春樹の対談本の感想で「プロがプロたるゆえんは、全体像の構想力とその実行力にある」と書きましたが、この本を読んでいてまったく違った点で気になったことがあります。それは小澤が自分の抱える重大な病気ーがんーをモノ的に扱っているように読めることです。「モノ的」という言葉がふさわしくないなら、自分の運転するクルマの前に大きなタンクローリーが故障で止まってしまい、二車線の向こうからひっきりなしに来るクルマをよけながらどうタンクローリーの先に行こうかというような「邪魔者」としてのがんという存在がある・・・と見ているような印象がありました。
もちろん癌を歓迎すべき存在としてみる人はほとんどいないと思います。ただ、この「超えるべき物理的存在としての癌」という見方は、ぼくのイタリア人の友人が癌を放射線治療で治していたときにも感じたことでした。精神的に落ち込みながらも、ある種、淡々と治療を続けていく。「片づけていく」という表現でしょうか。小澤やぼくの友人に限らず、人生の大きな目標を自覚している人ほど「癌なんかで落ち込んでいる暇はない」と言います。ただ、これは別のアングルから語ることが可能ではないかとふと思いました。

分析的な西洋医学には限界がきて、体や心のバランスをよく見る東洋医学が見直されていると言います。両者が相互補完することはいいでしょう。「病は気から」なのだから、精神的ストレスを回避していかないといけません。しかしながら、自分の病をあまりに気の持ちように要因を求めることは、自らを責めることが多くなると言えないでしょうか。「あんな咳ばかりしている満員電車のなかに閉じこまれていればインフルエンザくらい移るさ」と他人事のように己の身体を語るのは、下手に重荷を背負う事態を避けるのに好都合ではないかとも思います。
病を第三者的に突き放してみる。心の問題とは無関係であると考える。そうであるからこそ、逆に心は軽く明るい表情もできると思ったらどうでしょう。自分の愚かさを笑ってみる。それなりの日常のややこしい問題を「人生ってこんなもんさ」と言い切ることで心が軽くなるのとまったく同じことが、病気への対処法として有効ではないかと考えるのです。とするならば、一概に西洋医学の限界を批判的にみるのではなく、西洋医学の心への効用を語ることが可能なはずです。
・・・そんなことを、東洋人であるからこそできる西洋音楽の解釈があると主張する小澤征爾の癌への感度を想像しました。