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Date:12/7/29

文化は先天的に与えられたもの、という考えが強いと文化は固定的という見方をします。その延長線上にある一つの典型が「農耕文化は狩猟文化と違う」「一神教と多神教の世界は相いれない」「カトリックによりユニバーサルという概念を広めたヨーロッパには日本は勝てない」という話への必要以上の興味です。血液型性格判断もあながちこの系列ではないかと夢想しているのですが、こういう漠然とした文化論の落し穴は、現状への諦念を導きやすいことです。「どうせ・・・」という言葉が続くわけです。それも自分の文化、他人の文化、その両方を不変な対象としてみやすく、「あの親に生まれた子供なんだから・・・」という嘆きと似てなくもない・・・。

「それは文化なんだからと、そこで議論をストップさせるのではなく、その文化の中身を解析して前に進むべき」と語るのが、今日のローカリゼーションマップ勉強会の講師、『競争戦略としてのグローバルルール』の著者、藤井敏彦さんです。藤井さんは「ルールを与件のものとして考えるな!」と強調されていますが、これをぼくなりに翻訳すると「文化を与件のものとして考えるな!」ということになります。北欧の家屋の天井と南欧のそれで伝統的に高さが違うのは、室温の維持のためとされるなど気候条件がその要因でした。北欧が低く南欧が高かったのです。しかし、その南欧の天井も建築コストの面から低くなりつつあります。

これを文化の変化というでしょうか?気候にあった空間よりコストが優先されるようになったという点で文化に変化があったというべきでしょう。だが世界的温暖化現象があるにせよ、北欧と南欧には厳然とした気温差があります。こうした気候風土の特徴によってできている文化層はわりと維持されやすいです。地震国であるがゆえに日本の建物の耐震構造に強みがあるのは、この後も他国との比較では有利な位置を築く可能性が高いでしょうー不幸あるいは不運なことながら、というべきでしょうか。

それでは、その上の文化層である宗教・民俗はどうでしょうか。どの宗教も原理主義的な主張をする派があるにせよ、根強い文化を作っているようでいて案外もろく、既に日常の底に隠れきったと思われているのに突如顔を出す傾向にあります。ここは一方的にアンタッチャブルとするのではなく、ロジックの運用次第では変わる可能性があるとして見ておくとよいと思います。特に、この上にある現代のライフスタイルが、この層をスポンジのように変えていきます。水を含んだとき、乾いたときで、硬度は違うでしょうが。イタリアで宗教的理由からタブー色とされていた紫色が受け入れられるようになった変化は、その一例です。

これらの層と比べると、文化のライフスタイル層はより柔軟であると言ってよいです。欧州のユーザーはタッチパネルを嫌うから統合ボタンのカーナビを使うと6-7年前に「文化論」として言われたのが、iPhone の普及で「根拠のない理屈」であったのが2-3年後に証明されました。ただ、こうした先端商品の文化論があまり信用ならない反面、洗濯機のようにユーザー層が広く、使い慣れた年数が長く、機構上も合理性がある場合は「文化的挑戦」を避けた方が無難であるというケースがあります。

以上からみるように、文化をまったく無視してもよい存在と言うのは無謀である一方、過剰に大きくみるのも意味のないことです。今日の勉強会のルールに話しを戻すなら、ルールはこのような可変的な状況の産物でありながら、しかし無法地帯のごとくに誰もが簡単に占拠できる地でもない。そこは、「命」や「人権」や「社会的持続性」といった社会の多くの人たちが問題なく首肯するー逆にいえば簡単にNOといえないー価値を看板に掲げられるかどうかに設定の根拠があります。

「聖地は所与の地ではない」・・・・と考えても良いでしょう。

 

Date:12/7/26

今朝、日本に着きました。街全体が汗をかいてジトッとした匂いがありますね。

ウィーンからの飛行機の約10時間、モレスキンのノートに本の目次案を書いてきたのですが、なかなか満足がいきません。実は今年のはじめから何度も何度も書き直しています。今までの二冊はどちらかといえば読者層をある程度想定していました。一冊目は書店の社会学や異文化社会論の棚におかれること、二冊目はビジネスやマーケティング。しかし、今回は新しい読者層を見つけるという目標があります。

今春からサンケイBIZに毎週連載コラムを書いていますが、これは一昨年から1年間、隔週に連載した日経ビジネスオンラインと違います。ある意味、日経ビジネスオンラインのほうが楽でした。有名企業のローカリゼーション事例を取材して書けば、その企業名で自動的に読んでくれる人がいます。しかもカタカタ英語が書きやすかった。が、サンケイBIZではカタカナを極力排除して書くようにしています。読者層が違うのです。新聞記者は小学6年生が分かるように文章を書くのを目標とすると言いますが、それを心がけてもカタカナや抽象的な単語をクセで打ちやすく、それらを易しいひらがなに直すようにしています。

そしてなによりも有名企業名をタイトルに出さないで、読者の注意を引かないといけないわけです。そのために1500文字で一つのことしか語らず、事実説明で押し通し、結論は200-300文字に留めるとの指針を自分に課しています。しかし、1000文字くらいのところで抽象的表現が出てきてしまうのです。このブログの読者はお分かりのように(!)。それを引っ込めてあと一段落、事実を書き連ねるのが思ったより大変です。この数回は、ローカリゼーションという言葉も「禁止」に追いやりました。ローカリゼーションという言葉を使わずに、ローカリゼーションを考えてもらうのです。それがぼくのトレーニングです。

すると、こんなことを考えます。考え方を伝えるにいくつかの方法がありますが、その方法に伝えられる内容は限定されます。今、ぼくが使っている方法だと、以下の順序で「伝わった」との実感があります。動画がなかに入ることがありますが、動画だけで伝えることはありません。

会って一対一で話すこと > 書籍の文章 > チャートと静止画を使ってのレクチャー

上記のように並べてみましたが、読解力のある方が本気で読んでいただけたら、一冊の本のほうが対面の話よりも有効かもしれません。2時間の対面より2時間で本を読んでくれた方が、情報量は圧倒的に多い。問題は情報量だけではありません。2時間の読書のほうが圧倒的に何かをつかみ取ろうという意欲が強いケースが多いのです。そして、記述は全体の構造から切り口のディテールまでを全てカバーします。プレゼンでのチャートや静止画にはそういう威力がありません。チャートや静止画は切り口です。構造の説明には至りません。しゃべりがメインでそれらが補うという補完関係にあるものの、レクチャーでチャートを出すと聞いている方の写真撮影率が一挙にあがります。

現在、構造の把握よりも切り口への食いつきが良いのは、書店に並んだ書籍のタイトルを見ても分かります。それだけ「切り口の時代」なのです。だからこそワークショップが必要になります。文章での構造把握が低調な分をワークショップで補わないといけないのです。切り口をみせる易しい言葉を使った書籍+ワークショップという組み合わせが受けやすいのは、こういう背景があると思います。チャートで構造を見せようと思うと失敗します。これは文章かワークショップに任すのが良いと考えています。

・・・という流れを読みながら、冒頭に書いたように本の趣旨を弄繰り回して半年がたってしまったというわけです。何とか結論を早急に出したいです。明日は名古屋の中部産業連盟で講演、土曜日は六本木で勉強会、来週の木曜日は表参道で日経デザイン主催のレクチャー+ワークショップです。残りの日もレクチャーやワークショップを企業内向けに行います。今年はローカリゼーションマップのワークショップ元年としましたが、着々とその道を歩んでいます。

ああ、それにしても、実際に自分でやってみないと分からないことが多すぎる!

 

 

 

Date:12/7/23

今週、全く関係のない2つのネット記事を読み、同じことを両端から撫でているように見えました。ひとつは日経ビジネスオンライン・河合薫の新リーダー術「『英語が話せなきゃ・・』子供を不幸にするオトナの無責任な英語至上主義」の100以上の意見が掲載されているコメント欄。もう一つは、「出井伸之x石井裕 日本からは見えていない世界の視点」という対談

まず前者のコメント欄では、英語を介しての外国文化とビジネスの距離がさまざまに語られています。それぞれの実感から書いているのでしょうから、どれが良い悪いとは言えないのですが、どうも英語に囚われているという印象を受けました。「囚われている」というのは、「グローバル時代の英語」という現象への距離感は語るが、その現象そのものへの自分なりの解釈が少ないような気がするのですー限定されたスペースといえど。

後者のお二人は「国境なきボーダーレスに生きている」ことを強調しています。「国境なきボーダーレス」という世界は、共同体が幻想であるのと同じ意味合いにおいて幻想であるとぼくは考えているのですが、彼らが天敵のようにみる世界は、実は前者の100人以上のコメント投稿者が構成している空間ではないかと感じました。

「フラット化したグローバル社会」というのは本当のところイビツだろうと考えます。フラットの象徴たる英語は、英語を母国語をする人たちのなかで落ち着きのないものになっているとぼくは思います。シェイクスピアの英語が第三国人のめちゃくちゃ単純化された英語によって壊滅的になったと嘆く知識層が、同時に「世界のできるだけ多くの人が英語を学習せよ」と非英語圏の人たちの尻を叩いているわけです。なにせ、そのアンビバレンツな言動が自分たちの位置を守ってくれます。でも一方で、彼らは外国語を学ぶ意欲と機会をどんどんと失っていっています。「英語しか」喋れなくなっているのです。

この問題にぼくの友人たちはどう考えているのだろう・・・とふと思い、まずフロリダにいるアメリカ人に聞いてみました。特にEUが奨励する2つ以上の外国語教育をどう見ているのか?と。

欧州の人たちが複数の外国語を使い分けているのは羨ましい。ぼく自身は数か国語を話すけどアメリカ人としては普通じゃない。率直に言うなら、外国語を学ばない怠惰や学校システムを嘆きながら、一方でアメリカの言葉と経済システムが世界のスタンダードになっていることに優越感を抱いている。それなのに何故苦労を買って出る?世界どこでも英語で通じるから外国語を学ぶ動機がないんだよ。

でも、外国語を学ぶ本質は、他の文化圏の人たちと交流することで他の文化をダイレクトに享受することだよね。そういう感性をアメリカ人が失っているんだよ。その点でヨーロッパのシステムと精神性を高く評価している。

一方、小国の意見の代表としてダブリンに住むアイルランド人に質問してみました。

英語が覇権語となっている現象の裏にアングロ中心主義があるのは確かだね。植民地時代以降の国際経済における自らの降格を受け入れがたいとの意向がまだあるね。それがイギリスがEUと歩調を合わせられない大きな理由だと思うよ。そこをアイルランドは英語圏の国として上手くEUに取り入ったわけだ。

言語は思考を規定するわけだから、違った言語ができれば違った思考と文化のバリエーションをもてるってことになるよね。それがヨーロッパ大陸の国の人たちの大きな強みになっているのは明らかだ。思考と精神の柔軟性をキープできると問題の解決能力は高くなるし創造性も増す。ということは英語が不動の地位を築けば築くほど、母国語を英語とする人たちは精神と思考のフレキシビリティが低下し、非英語圏の人たちとの差が増すというパラドックスを生むことになるんだ。

これを読めば分かるように、ボーダーレスになっていると楽観視をするどころか、一見フラットに見える世界にできつつある乖離に注意を向けているのです。言っちゃあ悪いけど、「英語か文化解説者か」と口角泡を飛ばしている暇はありません。