週刊誌を眺めていて、秋田の美酒爛漫の広告が目に入りました。これです→http://bit.ly/fM6RWn
秋田美人のイメージと酒の名前をダブらせ、吉永小百合、多岐川裕美、外国人モデル・・・と美女シリーズの広告やCMをうってきたようです。しかし、この外国人モデルの広告はちっとも日本酒が美味そうにみえません、ぼくの目には。こういうのを好む人たちもいるのでしょうが、薄汚れた居酒屋のベニヤの壁に張ってあるポスターとしてしか似合わないのでは….と反発を承知のうえで言うなら、そうなります。これ、外国人だからなのでしょうか?
多岐川裕美の「ならんで、酔いたい」なんかは、その時代において斬新な印象を与えたのではないかと思います。→http://www.ranman.co.jp/ranman/relations/index.html その後の和の典型イメージと違い、その崩れた感じが「酔いたい」とマッチしています。一方、外国人モデルを使えば、それだけでマイナスかといえばそうでもなく、美味そうかどうかは別にして、蝶々夫人的なムードを醸し出すことで一定のレベルを維持しているものもあります。平成19年あたりの広告です→http://www.ranman.co.jp/ranman/relations/ad.html

実は、この話、ミラノサローネの参考になんじゃないかと思います。
日本酒という保守的な商品にまつわる、日本人のイメージ許容度が分かりやすく出ている事例ではないか、と。日本人が日本酒にたいして、あるイメージ範囲があり、それに多岐川裕美の「ふわり」あたりは規定路線のごとく嵌っています。それにたいして「ならんで、酔いたい」は、規定路線を心地よくはずした感じがあります。多分、ミラノサローネで欧州人に売れるためのデザインとは、この「ならんで、酔いたい」あたりじゃないかなと思ったのです。はずしかたとして。外国人モデルを使ったような美酒爛漫は駄目。サローネの見方でいうならば、日本のデザイン製品に、この手の調味料を使うと受容度ががくんと下がりそうです。
ただ、一つ言っておきたいのは、商品そのもののイメージはそういう許容度で勝負するわけですが、仮にこの日本酒をミラノでサービスするならーいわゆるデモではなく、実際にお金を払って飲んでもらう場合ー、外国人モデルタイプを起用する意味は大いにあります。見た目のイメージでの尺度とお金を使う尺度は違います。当然、よりシビアになるから、安心感のある保証が欲しくなります。このあたりの事情を勘違いしちゃあだめだよということが、美酒爛漫の美女シリーズは反面教師としてよく語っていてくれる・・・と思った次第。
昨晩は久しぶりに夜中の二時ごろまでJURA島のシングルモルトを飲みました。相手はダブリンから来たフレーザー・マッキム。沢山の話題のなかで、彼の高校生の娘さんが同級生たちと韓国ドラマに嵌っているというのは興味深い話です。彼女は日本にも旅したことがあり、日本文化にも関心が高く、英国の大学で日本研究をやろうかとも思っているくらいなのに、韓国人の同級生を通じてクラスの仲間のあいだで韓国ドラマに夢中になるのです。日本のドラマも見るけど、韓国の方がしっくりくると。全体としては決してメジャーではないのでしょうが、ネットで韓国ドラマを探して英語字幕で楽しむ。そうか、韓国ドラマはアジアの近隣地域だけでなく、西の端のアイルランドまでファンができているのか、と今更ながらにネットゆえの「ローカル文化の共有」の可能性を感じました。
彼の奥さんはグラフィックデザインや心理学のバックグランドから、最近、デザインと文化についてのペーパーを書いたようです。あるデザイン製品が、例えば、ドイツからはこう見られ、フランスからはこう解釈され、スペインだとこうだ、と。ぼくの関わっているローカリゼーションマップそのもののテーマであり、ここでも文化の捉え方が重要になっていることを感じます。ぼくがたまたま知った、今夏、マレーシアでインターナショナリゼーションのカンフェランスがあることを話すと、「やはりね」と。このカンフェランスのテーマは、電子デバイスは西洋文化から生まれましたが、中国、韓国、日本というアジアが生産基地となって世界に発信している現在、これらの製品のインターフェースがどう「新しいシルクロードを作るか」です。

このカンフェランスにヒューマンインターフェースの研究者たちが多いことから想像できるように、文化的観点からの問題提起はインターフェースの領域で一番敏感です。何度も書いているように、文化とはロジックであり、インターフェースはそのロジックがキーになっているからです。ですから、他の日用品などの分野においてローカリゼーションを考えるにあたり、インターフェースにおける文化の見方をおさえておくことは大事だと思います。ぼくが考えているのは、最左翼にインターフェースの分析があり、最右翼に食を論じることが全体を見渡すによいポジションではないかということです。多くの製品群は、これら2つのカテゴリーを起点にその差分をみていったらどうかと思います。
このように、ある分野では文化差がなくなるように見えるからこそ、そこにある文化的な差異によりセンシティブになる。だからこそ、アイルランドのTV局であれば決して放映しないであろう韓国ドラマをネット上でみる。この流れから何か見えそうだ・・・・そんなことを想いました。ふと気づいたら、ローカリゼーションマップという構想を思いつき、ブログに書いてから1年がたっていました。下記、1月14日のブログが出発点でした。
http://milano.metrocs.jp/archives/2755
このブログのブックレビューを眺めれば分かるように、ぼくはビジネス書をあまり読みません。ここでいうビジネス書とは書店のビジネス書の書棚に置かれる本のことですが(何でもビジネスに役立つという意味では文学もビジネス書だ!)、そういう書棚の前に立つことさえしません。しかし、最近、二冊読みました。一冊は数日前に読んだ安宅和人『イシューからはじめよー知的生産の「シンプルは本質」』です。これは昨年の大晦日に近い日、ローカリゼーションマップを一緒にやっている中林鉄太郎さんに教えてもらったのですが、検索エンジンで安宅さんのブログを読み、この人の書く本なら絶対面白いだろうと思いました。
その頃から今まで、時々アマゾンを覗いているのですが、売り上げ順位は常に一桁か上位の二桁台です。ぼくがアマゾンで特にチェックしているのは、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」です。当該ジャンルだけではなく、なるべく幅広い領域に広がっていくのを確認するのはなかなか面白い知的楽しみです。こういうテーマがどこまで普遍性のあるものとして読者が思うのか?が分かるのが有益です。ブックレビューに書いたように、この本で紹介している手順を参考にしながら、ローカリゼーションマップの活動をチェックしはじめました。著者ご本人が前にいるわけでもないのに、ビシバシと詰めの甘いところを指摘されているような気分になるのですが、それまた心地よい。

そしてもう一冊、ローカリゼーションマップの考え方を発展させるに貢献してくれるのではないかと中林さんのアドバイスで読んだ本、それが本書です。以前から板橋さんのTwitterでの書き込みを読んでいたので、著者の意図はかなり想像がついていたつもりでした。しかし、やはり本は読むものだと思いました。この本はピクト図解でビジネスモデルをイメージしてどう頭の中にストックしておくか、つまりは「これは、あのタイプだな。じゃあ、これともう一つ違うあのタイプをコンビにすればいいじゃない」という勘をどうすれば磨けるかというヒントを与えてくれます。それも社長尺度と現場尺度、即ちズームアウトとズームインという僕もよく使っている表現がそのまま出てきて嬉しい。
ただ、それだけではなく、この本を書くにあたっての板橋さんの立ち位置が背後に見え、それがローカリゼーションマップでのぼくの構えと近いところを感じ、それが読んでいてウンウンと頷くところです。ぼくがよく言っている、「議論する際に目的や前提条件をはっきりさせるべき」という点は、安宅さんの本でいうイシューの見極めにもなるのですが、これを板橋さんもはっきり書いていて、非常に気持ちがいいのです。更に言うならば、板橋さんは、ビジネスで結果を出すためのピクト図解という位置づけをしていますが、ぼくの場合は、ビジネスで結果を出すための文化理解という枠を設けています。要するにキリがないことに振り回されない(安宅さんの言葉では「犬の道に入らない」)ための方針決めが肝心です。
今、ピクト図解によって異文化同士のロジック差異の確認ができないものかと夢想しています。いや、実は電子デバイスのインターフェースがこの領域に入っているのですが・・・。