
2月25日に「アーカイブの時代変遷と地域差異」をテーマにした勉強会を実施しますが、28日番外編を行うことにしました。いつものように講師をお呼びするのではなくワークショップ形式で議論する場にします。
参加希望者は、anzai.hiroyuki(アットマーク)gmail.com かt2taro(アットーマーク)tn-design.com までお知らせください。議論に積極的に参加していただける方、本研究会の今後の活動に貢献していただける方、大歓迎です。内容に一部変更になる可能性がありますが、その際は、ご了承ください。場所はいつもと同じく、六本木アクシスビル内のJIDA事務局(http://www.jida.or.jp/outline/)です。
2月28日(火)18:30-21:00 「本社の国のイメージと商品ブランド力」
グローバルビジネスになればなるほど本社の場所は関係ないと言われがちです。しかし、はたしてそうでしょうか?アップルはアメリカ、ネスレはスイス、メルセデスはドイツ・・・というように会社の国のイメージと商品ブランドは緊密な関係にあります。その一方、HTCやエイサーのように、本社の場所を知っている人は知っているけれど、さほど国のイメージが効いていないと思われる事例も身近にあります。また電子機器だけでなく、キッコーマンの醤油にみるように、日本食のためではなく各地での料理に合う調味料として販売する戦略事例も少なくありません。
ここの一つの調査報告書があります。昨年3月13日以降に世界9か国で日本や商品のイメージに対するリサーチを定期的に実施した結果です。これをみると、商品カテゴリーによって津波や震災後の原発事故により信頼性がさほど変化しないものと低下しているものに分かれます。あるいは生産場所と本社の場所へのイメージと商品イメージをみると、各国の日本へのイメージとは当該国の自国イメージとの釣り合いのもとで構成されているかもしれないと推察される結果があります。
本勉強会では、上記の報告書にあるデータを基にワークショップ形式で「自分の商品の見られ方」について議論していきたいと考えています。
参加定員数:15名
参加費:1000円(飲み物や軽食を用意します)
<冒頭の写真は、2月25日勉強会の告知で掲載したドローイングが作品となったものです>
Island: an existence of nine years. 2002-2011. Mixed media. 180x310x105cm.
Installation view “Winter Garden” at Maria Grazia Del Prete, Rome, 2012.
Foto: Tartaruga – © 2012. Satoshi Hirose All Rights Reserved.
人はふつうにものごとを眺めていると、ふつうに眺められない。そういうパラドックスがあります。意図的に大きい枠組みで眺めないと、多くの場合は気づかないうちに小さな範囲に視界が限られてしまう。皮肉なことですが、ほっぽっておくと視界は自然に縮小していきます。パターンに馴れるとパターンの便宜性に溺れるわけです。意識してパターンを切り崩す「習慣」をもたないといけない理由がここにあります。

「ほぼ日刊イトイ新聞」で『イシューから始めよ』の安宅和人さんと糸井重里さんの対談が7回連続でありました。かなり含蓄のある内容でしたが、最終回の糸井重里さんの言葉がそうとうに奇妙でした。羊羹の虎屋は500年の歴史がありますが、100年に1度の恐慌を5回も経験して生き残っているというエピソードで、以下のようなセリフが続きます。
これが「500年」のすごみなんだなぁと。
このあたりの時間の感覚って
「グローバル」と呼ばれる西洋中心の世界では
欠けてる部分だと思うんです。
それは「アメリカの歴史の短さ」に要因が
あるんじゃないかなと思うんですが。
トレンドをよく読んできた糸井重里さんらしい発言の流れがピタリと凍りつきます。西洋の中心をアメリカだけで語っているアンバランスはなんだろうと思います。対談はこのまえに源氏物語の時代にも遡っているのですから、それなりの目配せがきいている空間です。西洋文化の歴史の長さは、それこそ「世界の常識」であるにも関わらず、その西洋をアメリカに代表させ、その歴史の短さで西洋文化を批評する。グローバリゼーションを仲介にたてているにせよ説得性に欠けるロジックです。
まさか「世界の常識」から外れた方ではないでしょうから、ここは口が滑ったのだと思います。それをご丁寧にも対談の文章を作った人間がそのままなぞったのでしょう。そして彼は校正時にその点を見逃した。このように想像するのが妥当でしょう。では、なぜ糸井重里さんは見逃したのか?です。

ヒントは上の文章にあります(クリックして拡大して読んでみてください)。何年か前からネットでずいぶんと紹介されている事例ですが、文字の配列がめちゃくちゃながら意味がとれてしまいます。すなわち思考のあるパターンで文章を読んでいるのであって、文字そのものを追って文章の理解をしているのではないのです。糸井重里さんは「世界の常識」がありながら、思考パターンのなかで外国としてのアメリカがあまりに肥大化しているのでしょう。だから口が滑るのです。冒頭で書いた表現を使えば、「パターンの便宜性に溺れた」のだと思います。これは彼を批判するために書いているのではなく、誰でも陥る穴であるとの自覚を促すために犠牲になってもらいました。かように視界を広くしておくのは努力が必要ですが、努力せずにいられないクローズであることへの生理的な嫌悪感や知性への信頼性が思いのほか機能するのかもしれません。

イタリアの子供たちをみていていろいろな点に気づきますが、そのひとつに自分をさらけ出すのにあまり躊躇がないということがあります。たとえば、何か人前でするときにアガルとしても、「今、あがっちゃってる」と言える。何か発言をしなければいけないとき、「もし言って間違っていると恥ずかしいから言わない」と言う。黙ってうつむくのではなく、非力な自分をそのまま表にだすわけです。反対に言うと、だからこそ言い訳が上手い子供になりやすい。それこそ「可視化」が訓練されています。良くも悪くも・・・・。

今、「可視化」がとても流行っています。暗黙知が避けられ、文章が避けられ、図式化されるーインフォグラフィックの隆盛ーことが情報伝達の効率を向上させると思われています。ただ、効率の向上が実質的な理解にどこまで貢献するかについては別の話になります。とっかりはいいけど、分からないものは分からない。何でも漫画にすれば深い理解を促すのではなく、漫画はあくまでも親しみを喚起するだけです。あまり動きのない登場人物が難しい言葉で話し合っている漫画はやはり難しいのです。
「可視化」と並んで「ワークショップ」が多方面で活用されています。正直に言います。かつてーこの10年くらい前までー、ぼくはワークショップはもとより講演会も嫌いでした。一対一で質問をしながら聞く話は良いのですが、多くの人と一緒に一方的に話しを聞くことに関心がありませんでした。ワークショップは参加したときは清々しいが、日常に戻ると「あれは何だったのか?」と非日常への逃避のように思えたものです。そのぼくが、現在、講演会で人の前でしゃべりワークショップを実施しています。これは、ぼく自身の変化だけでなく時代の変化によりところがあるのではないかと思います。

あることの理解には自らの体験がどうしても必要です。しかし、すべて体験が必要であると言い張っていれば、人は膨大な時をかなり非効率に生きざるを得ません。のんびりした時代はそれも良かったでしょう。大きな失敗をしてもリカバーの余地のある時代はそれも通用しました。だが、あらゆることがスピードアップし、おおらかな失敗をしている余裕のない今、「如何に小さな失敗を効率よく自らこなしていくか」が成功の秘訣になりつつあります。しかも、そこにはリアリティがないといけません。
これがビジネスの現場で「可視化」と「ワークショップ」を後押しする理由ではないかと考えています。いや、少なくてもぼくはそういう意図で講演会を行いー文章を読んでの理解を視覚的にアシストするー、ワークショップで小さなずれを微調整しながら既定の枠を柔らかいものにしていくのです。同時に、小さなミスは大きな可能性の前に矮小化され、大きな展開の活性剤となることも学んでいきます。これを「非日常の発想の転換」ではなく、日常のなかのテーマを解決するために利用していくことに意味を見出すのです。
ミラノサローネというイベントの位置づけも、こういうフレームで眺めてみると納得のいく点が多いはずです。