Author Archive

Date:17/4/7

昨日、デザイン思考=問題解決(改善された商品)というレイヤーだけでなく、デザイン・ドリブン・イノベーション=意味のイノベーション(心離れがたき新しい意味をもつ商品)というレイヤーに注力すべき時期になっていることを書きました。これを強調しているのが、ミラノ工科大学経営工学研究所のロベルト・ベルガンティ教授の「Overcrowded」(MITプレス)です。今日は、彼と米国ペプシコCDOのポルチーニ(彼はミラノ工科大学のデザインの出身で、3Mで実績をあげヘッドハンティングでペプシコに転職)の講演、それにパネルディスカッションにエコノミストのコラムニスト、デロイトデジタルのコンサルタント、ミラノ工科大学のズルロなどが並びました。

問題解決には大いに力を発揮した人たちが、こと意味のイノベーションには戦力になっていない。それは今回何度も書いている(Userではなく)Humanレベルの理解とコミュニケーションが鍵になっているからですが、問題解決に適用されている方法論が意味のイノベーションのケースには応用できない、と認識すべきというのが第一歩です。問題解決がユーザー観察からスタートしてアウトからインという順序になるのに対し、意味のイノベーションでは個人の熟考→2人(スパーリングパートナー)での議論→7-8人(ラディカルサークル)→解釈者たちのグループを経て初めてユーザーが登場してくるのです。多くの人を最初の段階で巻きこんではいけない。クラウドソーシングやオープンイノベーションは問題解決の作法であり、その限定された目的のために使うべきだ、というわけです。

アイデアは現状の改善のためのもので、変化は批判精神によってこそ起こすことができる、と散々デザイン思考でもてはやされた言葉や方法が小気味よいぐらいにバッサリと切られていきます。ぼくはベルガンティの本は読んであるし、彼自身とも何度か直接話し合っているので、そこに新しいネタはなかったのですが、デザイン経営として注目を浴びているペプシコのポルチーニの話を聞いて大いに納得がいったところがあります。彼はベルガンティの前著「デザイン・ドリブン・イノベーション」から今回の新著に至る内容を支持しており(彼は学生の時にベルガンティの授業も受けていた)、「ペプシコの社内でも、この考え方と近いところでプロジェクトが進んでいる」と話した後、デザインの考え方や現在の戦略などを紹介しました。

ぼくが納得がいったのは、ポルチーニのセリフの一つ一つがまっとうに「自分の言葉になっている」という点です。徹頭徹尾、自分の言葉からはじまり、それらを何度も鍛え直したプロセスが浮かび上がるような話ぶりなのです。「消費者がこう望んでいるようで」という心もとないニュアンスがなく(もちろんマーケット調査は散々やるにせよ)、彼自身にスタート地点があるとしか思えないアプロ―チなのです。それでいてデザインアプローチのアカデミックな裏付けもしている。なるほど、アカデミックなデザインマネジメント研究はこう使うのか、という良い見本です。

さて、この話、ミラノサローネの文脈に落とし込むための、ベースとなる現実を見てみます。

リーマンショック以降のこの10年近く、イタリアのインテリア業界で生じた大きな変化は、1) 従来の流通経路による商品のビジネス比重が下がっている(特に個人客にブランド浸透率が低い場合) 2) オンライン販売は成長している(が、1)をカバーするほどではない)3) ホテルやオフィスなどへのB2Bに売り上げを頼るケースが増えている 4) フィールドごとの商品が生きづらい(オフィスではオフィス家具ではなく、従来の一般家庭向けのデザイン家具が使われるなど脱”小さいコンテクスト”という流れがある 5) 4)とは反対に”大きいコンテクスト” という観点では、よりコンテクストが重視される(それがオフィス家具に一般の家具が使われる、という展開を生む) というようなところだと思います。

これらの事実を前に分析的な問題解決ではなく、意味のイノベーションを考えるとするならば、今年のデザインウィークの何を見るとよいか?を考えることになります。

 

Category: ミラノサローネ2017 | Author 安西 洋之  | 
Date:17/4/6

ファブリカ・デル・ヴァポーレで開催されているサローネサテリテ20周年の展示会は、期待以上でした。しっかりとお金をかけ、展示の仕方も(高い段に置かれた作品を見にくいけど)気が利いています。まだ見本市会場が市内にあった20年前のサテリテを思い出すと、学生のロックな感じの展示が多く、量産に至るまでには気の遠くなるようなプロセスが必要、という類ばかりでした。どちらかといえば、若いエネルギーや「ものの考え方」の面白さを見せる場という色彩が濃かったです。それがこの10年くらい量産化を見据えたような作品が主流になり、性格がずいぶんと変わりました。また20年前には今のように中国、南米、東欧の学生や若手デザイナーなどもめったにいなかったと思います。デザイン教育の世界均質化を、このサテリテの20周年でまざまざと見せつけられます。

こうやってみると、ここから沢山の才能が出たことが分かります。ただ、このサテリテで最初に展示したデザインがそのまま量産として市場に出回るというより、サテリテで多数の人の反応や意見あるいは刺激を受けたことで、その後に活躍の道を切り開いた、というパターンが圧倒的に多いでしょう。若手登竜門のチャンスが限定されていたがために(20年前はフオーリサローネもスタートしたばかりの時代であり、多くの注目を集めるための場はサテリテくらいしかなかった)、結果的にサテリテ経由で多数の才能を輩出した、ということになります。

もう一つ、気づいたことがあります。20年前頃は「デザインは問題解決である」ということが学生の間にどれほど定着していたか知りませんが、いわゆるアイデア勝負を前面に出していた。「こうすれば、こういう問題が解決できますよ」というアイデアが満載。それがロックな感じでもあったのですね。しかしサテリテに限らず、今回のフオーリサローネを見ていて感じるのは、ロマンティックなデザインが増えている、ということです。今回、ぼくは「意味のイノベーション」という観点でデザインを見ており、同じジャンルのなかで傑出する意味をもたらす試みをしているかどうか?と考えています。ロマンティックというのは、簡単な比較をすれば、「問題解決を第一に考えていない」ということで、これは「問題解決ばかりに頭を使うのはもうウンザリ」という方向の表れではないか、と思います。もちろん、かといって「意味のイノベーション」に値すると言えるものは殆どないわけですが、少なくても問題解決とは違う方向に意識的にデザインする、という転換期にあるのは確かではないか、との想いを強くもっています。

サテリテ20周年の展覧会を建築家の芦沢啓治さんとまわった後、一緒に食事をしながら彼が語ったことで印象に残った言葉があります。彼とは10年くらい前のサテリテのスタンドで知り合って以来の付き合いですが、「問題解決だけがデザイナーの仕事ではない」と語りました。ぼくも数年前に「アートは問題提起で、デザインは問題解決」という区別をしていましたが、デザインがあまりに問題解決だけにとどまっているのもどうかな?と考え始めていました。実は、今月に出る新著、「デザインの次に来もの」では、問題解決と意味のイノベーションの両輪の重要性を書いているのですが、EUの2010年からのイノベーション政策におけるデザインの方向として、デザイン思考(=問題解決)とデザイン・ドリブン・イノベーション(=意味のイノベーション)の両方を定着させていくことを目指しています。これは政策上のレベルだけではなく、人々の気持ちとして「人は問題解決のために生まれてきたのではなく、意味の探索を行うために生まれてきた」(ベルガンティの「Overcrowded」の一節)との欲求を真正面から受け取るようになってきたのではないかと思うのですが、ここで前回書いた、「Human」と「人間」の差というテーマが浮上してきます。明日、ベルガンティの講演を聞いて考えたことをまた記します。

 

 

 

Category: ミラノサローネ2017 | Author 安西 洋之  | 
Date:17/4/2

この20-30年くらいのインテリアデザインの流れをみると、よりリラックスした空間を演出することと、その適用範囲の拡大という現象がありました。リビングルームのソファであれば足を投げ出すスタイルの一般化であり、そうしたリラックスで気の利いた空間が、寝室、浴室、台所と拡大したのです。一方、身体の自由が効かなくなってきた高齢者の寝室を、孫も気楽に遊びに来れるようなデザインにするとのイノベーションもあり、これは限定された空間利用からの解放ということになります。

このトレンドをさらに大きい文脈におくと、2つの動きのなかに入ります。1つはファッションのカジュアル化やスポーツファッションの定着が簡単に思いつくことですが、例えば、ファーストネームで呼ぶ習慣の拡大(イタリア語であれば、「あなた」を表すLeiから「君」のTuへの変化と多用)など、多くの分野とレイヤーでこうした現象は起きています。もう1つは、「ノマド新時代」という括りになるでしょう。格安航空会社やモバイルデバイスの普及により、移動することが容易になり、固定的な範囲が消失していきます。ノートブックのモレスキンは1997年に生産がスタートしましたが(モレスキンと呼ばれない、ハードなカバーにゴムのバンドがついているタイプはゴッホの時代からありました)、彼らは1990年代にあったこの兆候をみてモレスキンをスタートさせたのです。ご存知のように、今世紀になりメジャーな流れになってきました。

移動とコスモポリタンな動きはグローバル化と符牒を合わせる一方、それまでに注目されなかったローカルの価値を上げることにも貢献しています。ワインのテロワールの価値をグローバル市場が判断するのも、このケースと言えるでしょう。この事例と離れているようで近い事象が、ハイテク(最近でいえば、IoTやAI)とハンドクラフトの対比であり、どちらが相手を食うかではなく、どちらがどういうシーンでどう包括していくかというレベルで議論するタイミングなのだろうと見ています。特に、ハイテク分野は先端への希求と人間への戻しの反復が激しいので(メールの普及と、その反動としてのメッセージアプリの逆襲。文字情報に対する音声情報)、若干、マッチポンプ的なところを感じます。

複雑化とシンプル化の往復とも言えますが、こういうタイプの話のなかで欧州としての「頑固な部分は何か?」が、きっと日本では見にくい部分かと想像します。したがってミラノサローネを見る際の参考として、ぼくの印象を書いておきます。

それは次の点です。

欧州でのHuman Centered Designという概念が、米国でUser Centered Designとなったとき、日本語に訳した時の「人間中心設計」と「ユーザー中心設計」における差以上に、HumanとUserの間に差があるという認識になかなか思い至らないだろうと思います。ぼくもこのブログをはじめた頃から書いていると記憶しているのですが、国際規格を決めるミーティングの際に、「これによって人の命に影響するのか?」と欧州の参加者が問うのに対して、米国の参加者が「これによってビジネス上の損得はどうなのか?」と聞いてくる違いについて、日本語感覚における「人間」と「ユーザー」では掴み切れていないという気がして仕方がないのです。Humanの言葉が指し示す範囲と価値の優先順位が、人間より広く高いのですが、その差がなかなかみえない。

だから「リラックスへの動向」、「自由度の広がり」、「クラフツマンシップへの絶対的価値観」という話が、イマイチ、表層的なトレンドのレベルでしか把握されていないから、これらのメッセージに基づいたデザインへの理解度が浅いところに留まっているような気がします。これは人間という言葉への理解を言っているのであって、もちろん、どこの国のどの文化が、人間存在に対する理解度が高いと指摘しているわけではありません。きっと日本語における「人間」は、「人間」以外の言葉が補完されることによってHumanの範囲と深さをカバーするのでしょう。

・・・というコンテクストのなかで、今年のはじめに、サンケイビズの連載コラムに書いた「戸外に目を向けたイタリアデザインの新潮流 スタートアップが生み出す」という流れは、ミラノサローネでメインとなっているインテリアデザインの変化を読むに役に立つのではないかと考えています。スタートアップの人たちはMade in Italyの3つの基幹産業(インテリア、ファッション、食)からどう離れ、どう過去の遺産を活用するかを試行錯誤しているのです。それを前回書いた3つのキーワード、「意味のイノベーション」「メイド・イン・イタリーの存在感」「アルティジャナーレ」という視点でどのように解釈していくか、これが今年のサローネで注目しているテーマです。

 

Category: ミラノサローネ2017 | Author 安西 洋之  | 
Page 3 of 24412345102030...Last »