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Date:17/4/6

ファブリカ・デル・ヴァポーレで開催されているサローネサテリテ20周年の展示会は、期待以上でした。しっかりとお金をかけ、展示の仕方も(高い段に置かれた作品を見にくいけど)気が利いています。まだ見本市会場が市内にあった20年前のサテリテを思い出すと、学生のロックな感じの展示が多く、量産に至るまでには気の遠くなるようなプロセスが必要、という類ばかりでした。どちらかといえば、若いエネルギーや「ものの考え方」の面白さを見せる場という色彩が濃かったです。それがこの10年くらい量産化を見据えたような作品が主流になり、性格がずいぶんと変わりました。また20年前には今のように中国、南米、東欧の学生や若手デザイナーなどもめったにいなかったと思います。デザイン教育の世界均質化を、このサテリテの20周年でまざまざと見せつけられます。

こうやってみると、ここから沢山の才能が出たことが分かります。ただ、このサテリテで最初に展示したデザインがそのまま量産として市場に出回るというより、サテリテで多数の人の反応や意見あるいは刺激を受けたことで、その後に活躍の道を切り開いた、というパターンが圧倒的に多いでしょう。若手登竜門のチャンスが限定されていたがために(20年前はフオーリサローネもスタートしたばかりの時代であり、多くの注目を集めるための場はサテリテくらいしかなかった)、結果的にサテリテ経由で多数の才能を輩出した、ということになります。

もう一つ、気づいたことがあります。20年前頃は「デザインは問題解決である」ということが学生の間にどれほど定着していたか知りませんが、いわゆるアイデア勝負を前面に出していた。「こうすれば、こういう問題が解決できますよ」というアイデアが満載。それがロックな感じでもあったのですね。しかしサテリテに限らず、今回のフオーリサローネを見ていて感じるのは、ロマンティックなデザインが増えている、ということです。今回、ぼくは「意味のイノベーション」という観点でデザインを見ており、同じジャンルのなかで傑出する意味をもたらす試みをしているかどうか?と考えています。ロマンティックというのは、簡単な比較をすれば、「問題解決を第一に考えていない」ということで、これは「問題解決ばかりに頭を使うのはもうウンザリ」という方向の表れではないか、と思います。もちろん、かといって「意味のイノベーション」に値すると言えるものは殆どないわけですが、少なくても問題解決とは違う方向に意識的にデザインする、という転換期にあるのは確かではないか、との想いを強くもっています。

サテリテ20周年の展覧会を建築家の芦沢啓治さんとまわった後、一緒に食事をしながら彼が語ったことで印象に残った言葉があります。彼とは10年くらい前のサテリテのスタンドで知り合って以来の付き合いですが、「問題解決だけがデザイナーの仕事ではない」と語りました。ぼくも数年前に「アートは問題提起で、デザインは問題解決」という区別をしていましたが、デザインがあまりに問題解決だけにとどまっているのもどうかな?と考え始めていました。実は、今月に出る新著、「デザインの次に来もの」では、問題解決と意味のイノベーションの両輪の重要性を書いているのですが、EUの2010年からのイノベーション政策におけるデザインの方向として、デザイン思考(=問題解決)とデザイン・ドリブン・イノベーション(=意味のイノベーション)の両方を定着させていくことを目指しています。これは政策上のレベルだけではなく、人々の気持ちとして「人は問題解決のために生まれてきたのではなく、意味の探索を行うために生まれてきた」(ベルガンティの「Overcrowded」の一節)との欲求を真正面から受け取るようになってきたのではないかと思うのですが、ここで前回書いた、「Human」と「人間」の差というテーマが浮上してきます。明日、ベルガンティの講演を聞いて考えたことをまた記します。

 

 

 

Category: ミラノサローネ2017 | Author 安西 洋之  | 
Date:17/4/2

この20-30年くらいのインテリアデザインの流れをみると、よりリラックスした空間を演出することと、その適用範囲の拡大という現象がありました。リビングルームのソファであれば足を投げ出すスタイルの一般化であり、そうしたリラックスで気の利いた空間が、寝室、浴室、台所と拡大したのです。一方、身体の自由が効かなくなってきた高齢者の寝室を、孫も気楽に遊びに来れるようなデザインにするとのイノベーションもあり、これは限定された空間利用からの解放ということになります。

このトレンドをさらに大きい文脈におくと、2つの動きのなかに入ります。1つはファッションのカジュアル化やスポーツファッションの定着が簡単に思いつくことですが、例えば、ファーストネームで呼ぶ習慣の拡大(イタリア語であれば、「あなた」を表すLeiから「君」のTuへの変化と多用)など、多くの分野とレイヤーでこうした現象は起きています。もう1つは、「ノマド新時代」という括りになるでしょう。格安航空会社やモバイルデバイスの普及により、移動することが容易になり、固定的な範囲が消失していきます。ノートブックのモレスキンは1997年に生産がスタートしましたが(モレスキンと呼ばれない、ハードなカバーにゴムのバンドがついているタイプはゴッホの時代からありました)、彼らは1990年代にあったこの兆候をみてモレスキンをスタートさせたのです。ご存知のように、今世紀になりメジャーな流れになってきました。

移動とコスモポリタンな動きはグローバル化と符牒を合わせる一方、それまでに注目されなかったローカルの価値を上げることにも貢献しています。ワインのテロワールの価値をグローバル市場が判断するのも、このケースと言えるでしょう。この事例と離れているようで近い事象が、ハイテク(最近でいえば、IoTやAI)とハンドクラフトの対比であり、どちらが相手を食うかではなく、どちらがどういうシーンでどう包括していくかというレベルで議論するタイミングなのだろうと見ています。特に、ハイテク分野は先端への希求と人間への戻しの反復が激しいので(メールの普及と、その反動としてのメッセージアプリの逆襲。文字情報に対する音声情報)、若干、マッチポンプ的なところを感じます。

複雑化とシンプル化の往復とも言えますが、こういうタイプの話のなかで欧州としての「頑固な部分は何か?」が、きっと日本では見にくい部分かと想像します。したがってミラノサローネを見る際の参考として、ぼくの印象を書いておきます。

それは次の点です。

欧州でのHuman Centered Designという概念が、米国でUser Centered Designとなったとき、日本語に訳した時の「人間中心設計」と「ユーザー中心設計」における差以上に、HumanとUserの間に差があるという認識になかなか思い至らないだろうと思います。ぼくもこのブログをはじめた頃から書いていると記憶しているのですが、国際規格を決めるミーティングの際に、「これによって人の命に影響するのか?」と欧州の参加者が問うのに対して、米国の参加者が「これによってビジネス上の損得はどうなのか?」と聞いてくる違いについて、日本語感覚における「人間」と「ユーザー」では掴み切れていないという気がして仕方がないのです。Humanの言葉が指し示す範囲と価値の優先順位が、人間より広く高いのですが、その差がなかなかみえない。

だから「リラックスへの動向」、「自由度の広がり」、「クラフツマンシップへの絶対的価値観」という話が、イマイチ、表層的なトレンドのレベルでしか把握されていないから、これらのメッセージに基づいたデザインへの理解度が浅いところに留まっているような気がします。これは人間という言葉への理解を言っているのであって、もちろん、どこの国のどの文化が、人間存在に対する理解度が高いと指摘しているわけではありません。きっと日本語における「人間」は、「人間」以外の言葉が補完されることによってHumanの範囲と深さをカバーするのでしょう。

・・・というコンテクストのなかで、今年のはじめに、サンケイビズの連載コラムに書いた「戸外に目を向けたイタリアデザインの新潮流 スタートアップが生み出す」という流れは、ミラノサローネでメインとなっているインテリアデザインの変化を読むに役に立つのではないかと考えています。スタートアップの人たちはMade in Italyの3つの基幹産業(インテリア、ファッション、食)からどう離れ、どう過去の遺産を活用するかを試行錯誤しているのです。それを前回書いた3つのキーワード、「意味のイノベーション」「メイド・イン・イタリーの存在感」「アルティジャナーレ」という視点でどのように解釈していくか、これが今年のサローネで注目しているテーマです。

 

Category: ミラノサローネ2017 | Author 安西 洋之  | 
Date:17/3/26

ミラノサローネについて書き始めて10年目になりました。いやはや、という感じです。昨年、かなり熱っぽくデザインマネジメントやイタリア企業について書いたのですが、その結果(といういべきか)、1年を経てこの4月にデザインマネジメントの本が出ることになりました。ゲラのチェック段階です。立命館大学経営学部でデザインマネジメントを教えている八重樫文さんとの共著です。彼と出会ってから、ぼくは立命館大学経営学部デザインマネジメントラボの客員研究員という立場になったのですが、この立場云々というより、デザインマネジメントをアカデミックにどう語っているかをよく知るようになります。なるほどねぇ、と視界が広がりました。それでぼくは世界のデザインにおけるトップランナーであった(過去形!この理由は本を読んでください)イタリアデザインの歴史を書き、欧州委員会が進めている中小企業向けデザイン研修の背景や内容を書き、日本の中堅以下の企業がどうイノベーションを起こすか、について書いたわけです。八重樫さんは、デザインマネジメントのアカデミックな研究の動向やアートをどう経営に使うか、というパートを書いています。デザイン思考の得意な点と不得意の部分の切り分けとか、もです。

それと並行して、来年出すイタリア企業の経営の本の元ネタという前提で、月刊経営雑誌の連載原稿を数か月分書きためています。イタリア企業が規模と比較すると存在感があるのはなぜか?と言う疑問に焦点をあてています。この疑問への答えは上述のデザインマネジメントの話と深く絡んでいるので、来月出す本の「延長戦」という色合いもあります。ぼくはこれまで本は、あまりイタリアを中心にせず欧州をテーマにしてきたのですが、今回、はじめて真正面からイタリアに向き合います(『イタリアで、福島は。』という本は出していますが)。それとイタリア人の書いたデザインマネジメントの本の解説の原稿を今、書いていて、つまりは「デザインマネジメント(特に意味のイノベーション)」と「イタリア(特にメイド・イン・イタリーの存在感)」の2つのキーワードが頭の中に満ちている状況となっています。

この2つのキーワードが頭の中にあるのは昨年の4月も変わらないのですが、新たに「アルティジャナーレ」がキーワードに追加されたのが、この1年の大きな変化です。ぼくは、この言葉をずいぶんと避けてきました。簡単にいうと自分のビジネスにはなりえないことが多すぎ、しかし想いは強い人が多く、かつこの伝統は伝承すべきという、べき論が鎮座していることが、ぼくの避けるところでした。まあ精神論も強いし、と。正直にいえば、今現在も、ビジネスとしては触れないように距離をとっています。但し、それは従来の解釈におけるアルティジャナーレであり、現代のビジネスにおける新しい解釈のアルティジャナーレの意味は探るに値する、と考えるようになったのです。特に、アルティジャナーレの右翼的存在である工芸美の巨匠の世界と左翼的な街の靴修理人の世界の中間にある存在をどう量産と組み合わせるか、という点にぼくのテーマがあります。

アルティジャナーレという言葉を使っているのは、職人的というと定義がかなり違ってくるからです。職人というと、どうしても右翼的な位置が強く、聖の空間という匂いが強すぎるのです。そこからはなかなか「中間層のビジネスとの結婚」というテーマにアプローチしづらい。で、色々と本を読んでみると、少なくても欧州においてはクラフツマンシップやアルティジャナーレの定義の再考というのはかなり議論されているのですが、日本の職人論は極めて硬直した定義から脱却せず、しかもその定義の再考が論議されているように見えないのですね。とするならば、今の段階ではアルティジャナーレという言葉を使った方が多くを語れる、と思ったのです。

というわけでありまして、今年は以上の3つのキーワードから見えるミラノサローネというかミラノデザインウィークを語っていきたいなと考えています。ビジネスと文化をテーマとして記事や本を書いてきて、10年ということでもあります。その過程でローカリゼーションをテーマの中心に据えてもきたのですが、ローカルとグローバルの議論もこの10年間でずいぶんと変化してきました。この変化に関しても沢山書いてきた自覚はありますが、まだまだ突っ込みどころはあります。これもテーマの枠に入ります。

*画像はTakashi Honmaさんの展覧会にて

Category: ミラノサローネ2017 | Author 安西 洋之  | 
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