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Date:11/5/18

先日、「ヨーロッパの風景はどうなるのか?」を書きましたが、先週、あるミーティングでこれがテーマになりました。石造りやレンガの何百年もの歴史ある建物が、構造上脆弱になりつつあり、これをどう解決するか?です。全てを壊してゼロから建設することは景観維持の面からも難しい。かといって1階部分の負担は大きく、上階をいかに軽くして補強するかは大きな問題です。そこで、最先端技術で旧式の建物の再生が考えられることになります。逆にいえば、それだけ視覚的記憶やコンテクストは人が生きていくにあたり、重要な事柄なのです。

あるところで意外な人と会い、「この人、誰だっけ?」と一瞬戸惑ったことがあると思います。あなたのシナリオにない人と遭遇すると、こういうことが生じます。それぞれの人の顔は、顔の造作や表情、声だけでなく、その人との交わりの文脈があります。「仕事で六本木のオフィスで会う人」という記憶と一緒に顔がインプットされていると、鎌倉の古い寺の庭で急に会っても、顔自身の瞬時の識別が危うくなります。もちろん、オフィスで毎日会っていれば別ですが、たまに会うくらいだと、「場所なんか全く関係ない」とは言い切れないでしょう。

それだけ人は過去を「引きずります」

欧州人と話していて、「世界は同じになったね」と話し合います。「アメリカに行っても、アジアに行っても、同じようなタイプと会うね」と言います。先日も昼食をとりながら、そういう話になりました。同じであると思うのは、同じ工業製品をもち、同じソーシャルメディアを使うから、なお更そう思うのでしょう。アメリカ人も同じことを言うし、日本人もそう語ります。そして、「心理的な側面がすごく重要になっている」と指摘し、同意します。ただ、ここからがちょっと違います。欧州人は「結局、心理的な側面というのは、人の頭の中で何を考えるか、過去にどういう経験をしたかということだよね」と解説する傾向にあります(少なくても、ぼくが話す相手は)。それに対して、日本の人は「言葉で伝わらない感覚って同じなんですよ。感性とか」と言うことが多いです(・・・ただ、虫の鳴き声を詩的に聞くのは日本人の特徴と言う人もいます)。

これで、「世界は同じなのでしょうか」

同じような風景を見ていますが、見ている位置が随分と違います。あなたは二枚の写真ー遠くに見える赤い(あるいは黄色い)丸いものがあるーを眺めたとき、「朝日」であっても「夕日」であっても、同じ太陽であると言うでしょうか?それとも、「朝日」と「夕日」は文脈が違うといいますか?太陽だから同じだと言っている限り、それこそ、朝と夕方に生じる心象風景の異なりを全く無視することになります。感性レベルで言うなら、どこまでが共通するコンテクストであり、どこからが違うコンテクストなのか?例えば、「何らかの感傷に耽る」という共通性があるかもしれません。それで勇気が出たり、哀しくなったり・・・・しかし、その違いは太陽のせいではない!

こんなことを、最近、考えています。

Date:11/5/17

2月末から時間があいてしまいましたが、6月25日(土曜日)と7月2日(土曜日)の二回連続で勉強会を開催します。今回の大きなテーマはサブカルチャーです。6月25日は米国市場における日本アニメ情況をとりあげ、7月2日はゲームです。順番が前後しますが、まず7月2日の「ニンテンドーDSが世界で売れる理由」をご案内します。尚、フェイスブックのページ(下記)でも最新情報を提供していきますので、このページを「いいね!」に入れておいてください。

http://www.facebook.com/localizationmap

参加希望者は、anzai.hiroyuki(アットマーク)gmail.com かt2taro(アットーマーク)tn-design.com までお知らせください。議論に積極的に参加していただける方、本研究会の今後の活動に貢献していただける方、大歓迎です。内容に一部変更になる可能性がありますが、その際は、ご了承ください。場所はいつもと同じく、六本木アクシスビル内のJIDA事務局(http://www.jida.or.jp/outline/)です。

7月2日(土)16:00-18:00 「ニンテンドーDSが世界で売れる理由」

今年の2月、日経ビジネスオンラインの連載で「日本のゲームに足りないこと」という記事を書きました。どこの地域でどのようなゲームが受けるのか。どのような背景がそういう結果を導くのか。今後、ゲームが遊びの世界からビジネスの世界の重要な要素として「普及」していくにあたり、より必要になる要素は何か。こういう疑問へのヒントをエキスパートにお話してもらいました。

それ以来、本研究会でも一度、このテーマの勉強会をやりたいと考えてきました。ソフトウェア産業のローカリゼーションという側面だけでなく、サブカルチャーにおけるローカリゼーションという問題も含みます。そして、ビジネスカルチャーをも変質させていく方向に向かっているわけです。 

そこで、今回は、ゲーム分野のジャーナリストであり、国際テレビゲーム開発者協会(IGDA)日本グローカリゼーション部会・共同世話人をやられ、ゲーム業界のローカリゼーションのエキスパートである小野憲史さんを講師にお迎えします。ニンテンドーDSの「世界で受けた理由とその課題」など、数々の事例を含めてお話してもらいます。

参加定員数:20名
参加費:1500円(18:00以降の懇親会参加費を含む)

講師:小野憲史(おのけんじ)

ゲームジャーナリスト 1971年生まれ 関西大学社会学部卒
「ゲーム批評」(マイクロマガジン社)編集長を経て2000年よりフリーのゲームジャーナリストとして活動中。国際テレビゲーム開発者協会(IGDA)日本 グローカリゼーション部会・共同世話人。共著・執筆協力に「ニンテンドーDSが売れる理由」(秀和システム)「ゲームニクスとは何か」(幻冬舎新書)がある。

twitter & Skype: kono3478
facebook: http://www.facebook.com/kenji.ono1
Date:11/5/12

今日、日経ビジネスオンライン・新ローカリゼーションマップの連載記事「世界の親が公文式に熱狂する理由」がアップされ、何気なくアクセスランキングを眺めていて、一つの記事が目にとまりました。「震災で問われるメディアの使命」です。1ページのみの短い記事ですが、心に残る内容です。

私も何度か被災地を取材しましたが、あることに気づきました。取材が難しい場所に、多くの海外メディアが入っているのです。震災直後もそうでした。被災地 の海岸は、交通が寸断されていて、携帯電話もまったくつながりません。ところが、外国人記者たちがカメラを担いで、取材を続けているのです。

原発事故による避難範囲の日米差異、外資系企業の東京脱出、西洋で定番のリスク管理は最悪を想定・・・といったことが311以降、既に「常識」のように定着しましたが、外国人ジャーナリストはリスクをおかして「奥へ行く」のです。ジャーナリストがリスク管理のルールとは違う、ジャーナリストの職業倫理で「現場を伝える」ことに意欲的に動いたというのです。外国から来たスタージャーナリストのお粗末な報道が批判のネタにもなりましたが、一方で「なぜ、日本のカメラマンはこの情況を伝えてくれないのだろう」という違和感をもつ人たちの声もネットで散見しました。これは、外国人ゆえの別の視点のカメラアングルの問題だけではなく、足を運んだ場所自身が違ったのです。「情報不足で向こう見ずなことをしたのだろう」と嘯くのは浅薄でしょう。

日本人記者は報道の最前線でほとんど命を落とすことがない。欧米の記者に比べて、その数が極端に少ない

そこで、このような事実が明らかになります。戦場カメラマンの立場の違いー第二次大戦後、欧・米の戦場は同胞の報道が多いーではありません。「最前線」の種類は沢山あります。もちろん、ジャーナリスト同士の競争も激しいのでしょう。ただ、第一情報への執念深さが違うのだと思います。そして、この記事を書いた記者はこう書きます。

今回の震災で、なぜ世界は日本のニュースが溢れ、援助や義援金が次々と届いたのか。一方、日本と日本人は、なぜ世界の災害に対して、機敏な援助ができない失態を繰り返すのか。それは、自戒の念も込めて言いますが、メディアにその主因があると思います。

震災報道に関しては、マスメディアへの批判が多く、かなり信頼性が落ちたことは否めません。そういったシチュエーションのなかで、記者は自らを反省している。ぼくは、これを読んで、実は初めて、以下にある『アメリカ人よ、なぜ鶴を折る』を読みました。これがアクセスランキングで上であることは気がついていたのですが、あまりぼくの関心を惹きませんでした。

このことが、米国人の心に少なからぬ影響を与えています。4月のランキングで5位になった『アメリカ人よ、なぜ鶴を折る』 は、全米で広がる折り鶴現象をリポートした記事です。米国人が義援金だけでなく、「心のつながり」を示したいと、あらゆる都市で人々が自然発生的に集ま り、千羽鶴を折っているという内容です。こうした流れを後押ししているのは、被災地に乗り込んだリポーターたちが送り続けている映像と原稿に違いありませ ん。

約1ヶ月前の記事を今になって読みました。良いレポートです。コメントも40件あります。そこには「千羽鶴ではなくお金が本音」という意見が少なくありません。ぼくもそういう考え方を全面的に否定するつもりはありませんが、このレポートを読んでの意見としてはお粗末過ぎると思いました。もちろん、コメント欄には、それらの本音を嗜める意見もあります。

千羽鶴など見たことも聞いたこともない外国の人に日本から贈るのではなく、米国の人たちが日本の習慣にあわせた心の表現をしようとしている行為に対し、たとえ本音でお金が欲しかったとしても、それを言うのはいわば「ディシプリン」されていない。心の余裕のない時の千羽鶴は迷惑かもしれません。しかし、「食料がただ欲しい」という時期が過ぎ、なんとかやっていけるかもしれないとかすかな光が見えたとき、心を後押ししてくれるものは嬉しい__このテーマには、いくつか次元の違う話があります。

ディテールやタイミングを問う次元と、心で通じ合うには理念やコンセプトで繋がる志向性と態度が問われるべきという次元。これらはどれも正解でありながら、これらを一緒くたにしてはいけないのです。そして、重要なのは、100%満足する支援などあり得ないという認識です。アプローチの向きが受け手の望む方向に近いなら、それは後者の次元で判断し、そこから次のコミュニケーションの糸口を作っていく工夫が必要です。そのレベルで繋げるかという判断ができないと、いつまでたっても駄々っ子のような意見しか言えません。

修羅場を歩きメッセージを伝えること。抽象性の高いコミュニケーション。この2つのことは、全体のフレームを作るになくてはならないものです。だからこそ、外国人記者はより危険な地域に足を踏み入れるのだろう・・・・とぼくは思いました。