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Date:18/4/19

デザインは産業革命による質の悪い大量生産品の質をあげるところからスタートしたわけですが、21世紀の今、アルティザン文化が盛んに語られるのはなぜでしょうか? 今日は、アルティザンとデザインの対話をテーマにした「ダブル・シグナチュア」の見学からスタートしました。実のところ、アルティザン文化に基づいた工芸美の世界をブランドとして確立したのはフランスであり、イタリアは後塵を拝してきたので、追い上げている最中です(ちょうど1昨年、シャンパンを販売数量では抜いたプロセッコのごとく)。ブランドにおいて必要なのは、地域とサインです。どこで誰が作ったのか? ここではアルティザンの名前とデザイナーの名前が記されています。ヴェネツィアグラスと照明など、アルティザンとデザイナーの手の交わりの13の事例が展示されています。2番目の写真”Modular type” の事例は、「このプロジェクトではアートがどこで終わり、コミュニケーションがどこで始まるかを示したい」と説明してあります。

 

 

 

その後、トルトーナに行きイタリアの雑貨メーカーの社長とかなり長い時間、話し込んでいると「インダストリーの世界は退屈だ。同じモノを大量に作り、いつも同じような問題とその処理に追われ、アルティザン文化が個人的にでも欲しい、という気持ちになる」と語ります。MBAをとったかなりバリバリタイプの創業者が、そういう言葉を発するので、ぼくは意外な展開に驚きました。そして彼は「デザイナーは課題を与えないと動かない」と話すので、ぼくが「デザイナーも起業化することもあるけど、アルティザンの起業の方が発展が早いかもね」とコメントすると、「そう!ただ、その若いアルティザンがこのロバルディアではいなくなった」とまた考え込みます。

それで、ぼくは知人が最近スタートした北東のウディネのプロジェクトの話をしました。それはこういうことです。若い人に「釘と金づちをもって何か作れ」と言っても気乗りしないでしょう。彼らはデジタルネイティブでコンピューターは好きで、そこの苦労は苦労にならない子が多いです。そこで知人の会社で小さなEVの全体設計をして、17-8才の子たちにそのレベルにあったコンポーネントの設計をさせ、それらを3Dプリンターで作り、自ら組み立てるワークショップをやったのです。彼らはモノを自らの手で作ることが面白く、喜々としてクルマを完成させました。つまり郷愁的なアルティザン文化に若い子をダイレクトに誘っても人数が限られますが、デジタルアルティザンの可能性を示すと展開は違ってきます。

それからトルトーナを歩いているとリトアニアのカウナス工科大学デザインセンター長のルータと偶然に会いました。数週間前にサンケイビズの連載コラムで彼女の記事を書きました。「ソ連時代の美意識の欠如が社会の構築にあたり障害になっている」と。一方、ヴィルニウスのデザイン史研究者は、「ソ連時代の審美性に関する審査制度は最悪を生まなかった」と話しました。これは意見が対立しているのではなく、1人1人が自分なりの美的意識を持たない社会に将来性はない、ということを言っているのですね・・・ということをトルトーナの路上で延々と語りあいました。何かモノであれサービスであれ、自由な精神を基盤としてないとどうしようもないわけです。

結果、ぼくが今晩、日本の企業の人と夕食をとりながら話したしたのは、「アルティザンの一品モノ、低価格の大量生産品の二分化が中間層を喪失させたが、アルティザン型中規模量産を望む人たち、あるいはそうしたビジネスを実行したい企業はまた増加傾向にいきつつあり、それを実現させるロジックと方法を知っているのは欧州の企業である。そこに活路があると認識するのが第一歩」ということです。

 

Date:18/4/18

いつもサローネの会場は2日目以降に行くことにしていました。初日はスタンドでの対応に混乱があったり、2日目以降に訪問者の傾向や反応を聞くためですが、今年は初日に行き、そして最初にサテリテに行きました。北欧のデザイナーたちの家具づくりの上手さはさておき、日本のデザイナーの作品を眺めていて、1つの傾向を思いました。それは前回に書いたコンテンポラリーアーティスト・廣瀬智央さんが20数年前から作品で強調していたポイントが、若手デザイナーたちの関心事になっている、ということです。自然や環境との関係性で作品が作られ、したがって可変性がある。2つ目は、和紙をエスニックではなく使い始めている、ということです。

まず、自然や環境との関係性は、次のような作品にみられます。

 

 

 

上は Yuji Okitsuさんの作品、下はHiroto Yoshizoe さんの作品。両方とも、基本的にそれぞれのパーツは発光体ではなく(上の作品は発光体でもありますが)、周囲の光を意識しています。外の光などによって表情が変化するようになっているのです。ある構造体で決まったパーフォーマンスを発揮するのではない。パーフォーマンスが揺れ動くことに意味を見出しています。ベルガンティの『突破するデザイン』で紹介した意味のイノベーションと近いところに、デザイナーの思考がよってきていると言えるでしょう。また、和紙の作品も同じような意味の転回傾向があり、なお且つ日本の伝統的な表現とは違うイメージを放っています。

 

 

 

一つ目は原口敬子さんの作品。鹿児島で自分で和紙から作り上げています。このカタチをみて「ずいぶんと西アジアあたりのテイストが匂うなあ」と感心しました。いや、西アジアの素人としての思い付きなのですが、なにやら日本の空間においてもエキゾチックな雰囲気を醸し出していそうです。一方、2つ目はBaku Sakashita さんの作品。とても薄い和紙を使っています。彼もエスニックを売りにするのではなく、インターナショナルデザインで勝負をしたい、と考えているようです。

更に、これらのデザイナーに共通するのは、メーカー探しよりもアート&デザインギャラリーとの契約を望んでいそうなことです。如何にメーカーのカタログに入れてもらえるかではなく、デザイナー自身が主導権も持ちながら、限定した数量を(多分)それなりの価格で売れる市場を求めています。廣瀬さんも指摘していたデザイナーのアート分野への関心度の高まりは、デザインの問題解決型から意味の提案への希求を背景として、デザイナーの作品の流通システム自体の変化や多様化を促しています。

また少々話がずれますが、現在、モノのデザインよりもストーリーや経験の提供が盛んに語られますが、本当にそうなのか?という疑いはもってよいと思います。ぼくも『デザインの次に来るもの』で書きましたが、ストーリーの押しつけがましさは家系自慢のようなもので、とても好感がもてるものではありません。「結局は経験さ」と言いながら、その経験が記述されたプログラムのように「約束されたもの」である限り、経験は意味をもちません。鼻白むに過ぎないのです。そこで「やはりモノだよ」と一周してかえってくるわけですが、この時のモノは固定的ではないたたずまいをしていると、とても意味深い位置を占めることができるはず・・・とは考えられます。

最後に。これまでサローネのPAD16-18はデザインの新作をみる場として混雑する場でしたが、少々違和感がでてきました。いくつかの会社では入るのに登録が必要であったり、あまりに独自の世界を作るに夢中になったため壁で取り囲み、結果、通路に閉塞感が漂っています。複数のスタンドが共通する広場を形成する感じが薄れています。その点、PAD10もデザインですが、息がつげける空間になっています。

Category: ミラノサローネ2018 | Author 安西 洋之  | 
Date:18/4/16

 

 

2008年のブログでコンテンポラリーアーティスト・廣瀬智央さんの楕円形の大理石に花びらが浮いた作品について何回か書きました。今日、ミラノ市内のギャラリーでこの作品と再会しました。周囲の人の動きで大理石の上にはった水に動きが出て、花びらも動く。つまりこの作品は、環境によって変容するわけです。西洋美術の伝統にある「フィックスする」あるいは「フィックスしたオリジナルにこそ価値がある」という考え方に異を唱えています。西洋社会で重要なものにある重さの象徴としての大理石の上で、日本の美にある「はかなさ」を「泳がせる」。そこで「固いー柔らかい」「重いー軽い」「安定ー不安定」「固定ー可変」という対比が思い浮かびますが、これらの意味や感覚を対比することが目的ではなく、実は、「固いと信じているものは、本当に固いのだろうか」「固定としているものは、本当に動かないのだろうか」との問いを連続的に放つところに、この作品の面白さがあります。それも図式的にではなく、全ての両義性を小宇宙的に表現しているのです。

 

 

ぼくは、この作品について2008年に上梓した拙著『ヨーロッパの目 日本の目』でも紹介しました。およそ10年が経過し、社会での両義性に対する受容は高まってきたと思います。長く固定的と思われていたことが、そうではなかったと多くの人が現実に経験し、白黒をはっきりさせることが必ずしも善ではないとの認識も増してきました。これがまさしく欧州文化の行き詰りや影響力の低下として語られ、東洋の文化にある曖昧さを「救い」として見つめる人もいるわけですが、この作品を眺めながら思ったのは、アート作品にある予言性ではなく、アート作品にある価値や意味の持続性に注目しなくちゃあいけない、ということです。最近、いろいろなところでアートのもつ時代の先端的嗅覚が語られ、脳科学者とアーティストの共同研究なども行われています。その類の研究を、ぼくは欧州の哲学者からも聞きました。ぼく自身、この15年以上、アートをその観点で見る効用を人に話してきましたが、どうも最近、それを語る自身に違和感をもつようになってきました。まるでアーティストが、インスタのインフルエンサーと似た位置で語られるのと変わらないじゃない、という風に感じるのです。でもですね、インフルエンサーが悪いというわけではないのですが、やはり両者は同列にできないです(と、もう一度、ぼくは思い返すわけですが、一見の印象がどうしても似た位置にあることに困惑するわけです)。なぜならアーティストは考える量が勝負で、それが表現の1つ1つの細部で「暗躍」するのです。その「暗躍ぶり」ををどう見極めるかが鑑賞者の力量なわけで、鑑賞者もそれだけの考えた量がないと、作品をみてもイマイチ分からない羽目に陥ります。

 

 

廣瀬さんがレモン1万個を資生堂ギャラリーの床に置き、壁を黄色く塗ったレモンプロジェクトを行ったのは1997年です。視覚が主流のなかで嗅覚など他の五感に訴えるアート作品は、1995年、タイのチェンマイで床一面にカレーパウダーを敷き詰めた例などもあります。それからおよそ20年がたち、「視覚以外の五感をテーマにするアート作品は増えてきて、珍しくなくなってきた」と廣瀬さんは語ります。今回ミラノで展示した作品は、2008年のものです。レモンの木の周囲の床、あるいはギャラリーのかなり遠くの床や棚にもレモンがあります。レモンの匂いと、レモンの位置関係から、点と点がつながり面・空間となっていくのです。大理石が小宇宙なら、レモンは中宇宙かな、という感じで、この2つの作品が世界のサイズ感を示してくれています。そして、これらも対比ではなく、あるいはどちらがどちらを征服するということでもなく、両者が静かに対話しています。

 

 

ぼくは彼の作品を20数年間、見てきました。アーティストの作品は、1つだけ見て分かる面白さも当然ありますが、長年の作品の推移を追うと、抜群に深みのある感動を得ることができます。先に述べた作家が考えた量、つまりは視点の数の多さや、それらの視点が鑑賞者に立体的に迫ってくる迫力、そしてもう1つ付け加えるならば、作家のイデオロギーが表現される「愉快さ」です。社会的であれ、政治的であれ、デザイナーはイデオロギーを消そうとする。またはイデオロギーを隠そうとする。しかしながら、アーティストはその点に関しても自由でいられます。アートとデザインの境界がなくなる方向にあるような気配や動きがあり、アーティストがデザイナーになりたがるのではなく、デザイナーがアーティストの領域に入り込もうとするわけですが、イデオロギーの扱いが大きな障壁になります。自分の人生そのものを語るのがアーティストである、という時に、政治的・社会的なイデオロギーからまったく無縁の存在があり得るのか?との質問に、「あり得ない」と答えるのがアーティストでしょう。デザイナーはなかなかそうははっきりとコメントできない立場にいる、それがデザイナーの作品にある切れの悪さの要因だったり、良い面であったりするのですね。

 

 

展覧会情報です↓

Processo alla Natura at Spazio Maria Calderara

Spazio Maria Calderara – Via Lazzaretto 15, Milano

Monday – Friday 10:00-17:00 (until May 13)

 

 

 

 

 

 

Category: ミラノサローネ2018 | Author 安西 洋之  | 
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