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Date:11/12/1

何事も自分でやらないと分からない。サッカーの面白さも自分でボールを蹴って分かるし、絵も自ら筆をとることで表現の濃淡が理解できる・・・と言われます。しかし、すべて「見る側」から「やる側」に立場を移さないと何も語れないとしたら、ほとんどの人はただ口を噤むだけになります。語る資格はない、と。本当にそうなのでしょうか?

クラシック音楽において「やる」とは何なのでしょう。楽器を演奏すること、オーケストラを指揮すること、歌うこと。コンサートやCDで「聴く」のは「やらない」側に入るのでしょうか? 遠い昔にこの世を去った楽譜を唯一のマテリアルとして演奏し、それを聴く観衆がいます。現代のポップスは最初に演奏したミュージシャンの解釈をベースとすることが一般的なのに対し、クラシック音楽はそうなっていません。作曲家が書いた楽譜のみが高い場所にたてます。その意味で、芸術のなかで特にクラシック音楽は特殊な位置にあります。

古代文学が現代の書き方でないため普通の人にはなかなか読みこなせないことはありますが、18-9世紀の文学であればかなり勘はつけやすいです。絵画も見方を学ぶ必要がありますが、少なくてもアーティストとアマの鑑賞家は物理的に同じモノを見ています。しかし、クラシック音楽においては両者ープロ演奏家とアマの鑑賞家ーが肝心のマテリアルを共有していないことが大多数なのです。ベートーヴェンの交響曲を楽譜で読み楽しむー正しくは、読めて楽しめるーアマは稀であり、いわゆるマニアーことにレコードマニアーは印象と演奏の比較に終始します。ベームとアバドのどちらのテンポが速いか、という話です。よって、小澤征爾はレコードマニアを好まない。

だから小澤さんは僕に「スコアを読めるように勉強したら」と勧める。「そうすれば音楽はもっとずっと面白くなっていくから」と。

<中略>

会話を交わしたことによって、小澤さんと僕との音楽に対する根本的な違いみたいなものが、僕にもより正確に、いわば立体的に理解できるようになったし、それはかなり大事な意味をもつ認識であったと思う。

村上春樹はクラシック音楽におけるプロの演奏家とアマの聞き手の距離を示しています。しかし、アマはここで絶望すべきではなく、なんらかの穴を見つけていくことに村上は意味を見出すのです。本書は村上春樹が小澤征爾に1年にわたってインタビューした内容で構成されています。興味をひくのは、前半で村上春樹がレコードで聴きながら指摘することが、かなり的を得ていると小澤に評価されるのですが、後半になるに従い、小澤のテンションがどうも低くなります。体調の問題だけではなく、穿った見方をすれば、プロの演奏家とアマの聞き手の間にある厳然たる差異を前にして、小澤の気力が続かなくなってきたのではないかという気がしました。

しかしながら、村上春樹の凄いところは、このギャップについて当たり前ながら自身で強く感じながら、それを容赦なく曝け出していることですーレコード1万枚のコレクションにどれほどの意味がある?と。乖離を無理に覆い隠さず正直に出すことで、ギャップの埋め方を探る大切さを淡々と説いています。

小澤はカラヤンが音楽の方向性を優先した点を強調し、カラヤンの特徴を分かりやすく教えてくれます。

要するに細かいところが合わなくてもしょうがないということです。太い、長い一本の線が何より大切なんです。それがつまりディレクションということ。いわゆる方向なんだけど、音楽の場合はそこに『繋がり』という要素が入ってきます。細かいディレクションもあれば、長いディレクションもあります。

前半で、小澤は村上にこのような説明をしました。が、小澤がスイスで毎年夏に開催する若い人を対象としたセミナーを見学した村上は、後半、小澤の指導の鍵がどうしても分からないと吐露します。引用しましょう。

小澤さんが出す指示のひとつひとつの意味は、僕にもだいだい理解できる。しかしそのような具体的な細かい具体的な指示の集積が、どうやって音楽全体のイメージをかくも華やかに立ち上げていくことになるのか、その響きや方向性がオーケストラ全員のコンセンサスとして共有されていくことになるのか、そのへんの繋がりが僕には見えない。そこの部分が一種のブラックボックスみたいになっている。いったいどうしてそんなことが可能なのだろう。

それはおそらく、半世紀以上にわたって世界的な一流指揮者として活躍してきた小澤さんの「職業上の秘密」なのだろう。いや、そうじゃないかもしれない。それは秘密でも、ブラックボックスでも、なんでもないのかもしれない。それはただ、誰にもわかっているけれど、実際には小澤さんにしかできないということなのかもしれない。

たぶんーぼくは楽譜を読むことができないし楽器も弾かないー、楽譜を読んで演奏する人なら分かるであろう全体の構成への道筋が村上には見えてこないのです。繰り返しますが、村上はそれを「見えない」と率直に書くのです。

プロがプロたるゆえんは、全体像の構想力とその実行力にある・・・ということが実に明快に分かる本です。それは小澤征爾のことだけを指しているのではなく、村上春樹のことも指していると理解すべきでしょう。

 

 

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:11/11/27

日本にいるころ、相模湾でディンギーを仲間と乗っていた時期がありました。ある日曜日、かなり風が強く小雨まじりの中を友人と無謀にも舟を出した際、さほど沖にいかないところで船体がひっくりかえりました。ぼくらは海に身を放り出された後に舟をたてなおしましたが、ぼくは乗り込むにあたり船体をつかみ損ね、海面に一人残されることになりました。一方、友人をのせたディンギーもあっという間に流されていきます。陸から沖に吹いていた風と潮の流れが、ぼくの身を山の連なりからどんどんと遠くへと引き離していき、「明日、何処で発見されるのだろうか・・・」と文字通り天を見上げました。

漁民は山を見ていた。海から真剣に山を見ていた。海から見える山は、漁民にとって命であった。

冒頭の文章が、20年以上前の相模湾でのアクシデントを鮮明に思い起こさせてくれました。陸地にある建物など小さくあてにならず、見慣れたカタチの山こそが自分の位置を確認する唯一の指標になります。人はどこかにあるスタート地点をいつも確認できる構えが必要です。

海に浮かぶヴェネツィアの街のためにアルプスの木材がポー川で運ばれたように、ある地域は他の地域との相互補完の関係で成り立ちます。こうしたことを当たり前のことだと頭で知りながら、お互いに関係することを実際に見たり聞いたりすると、人は心を動かされるものです。地域や集団あるいは個人が閉じた孤立に陥らずに生きていることが確認されると嬉しく思う傾向があります。それも、自然の生態系にかかわることだと、さらに・・・。

植物プランクトンを育む窒素、リン、ケイ素、さらに、フルボ酸鉄の流入量は、圧倒的に、大川が供給していることがわかった。さらに大川の水は、外海に近い唐桑の海にも届いて、それが水深20メートルもの深さにまで達しているというのである。つまり大川の養分が、海の深い所にまで供給されていたのである。

森林、川、海と続く生態系の中に、生物の生存がある。ところが、この関係が数字で明快に示されることは、これまでなかった。松永教授の鉄を基準にした生物生産量の計測という研究は、単に気仙沼湾の問題にとどまらない。

牡蠣の養殖のために森を育てる根拠が科学的に説明されたのですが、科学的説明が可能であるという事実は、海で生きる生物に不可欠な鉄分は森によって提供されるシステムが、世界のどこの地域でも維持されないといけないとの警告になります。

ある科学的説明は科学的に説明されると有用であろうと直観で閃いたポイントでこそ花開きます。あてずっぽうにいくのではなく、「こんな感じが全体像ではないだろうか」と直観で思ったら、そこから鍵となるパーツを探し求めていきます。しかし、直観でつかむ全体像とは自分のリアルな経験(たとえ、ネット上の情報を扱うにせよ、「自分にとっての一次情報」という次元において)に基づきます。つまり、情報は目的や目標があってこそ「息が吹き込まれる」ものであり、実は「息が吹き込まれる」瞬間とは、眼前にあるディテールが輝いた瞬間であり、全体を構成する重要なエレメントであろうと直観で思う時です。すなわち、全体像とディテールの関係の把握が瞬時に行えた時以外の経験は、そのまま寝かせておいてよいものです。言ってみれば、あまり考え込まなくていい。

海に森に生きてきた畠山さんは、「経験の寝かしつけ」が上手いのではないかと思います。無駄に起こして徹夜などさせない。よく睡眠をとらせる。しかしながら、常時目を覚ませておかなければいけない部分は、「冷淡なほどに熱情的」になるよう仕向けます。

三陸海岸の一介の漁師の家に生まれた少年が、一人前の牡蠣士になり、森と海の自然の恵みと、それをおびやかす環境破壊の現実に目を開かれ、問題点を正確に把握して、その解決にむけ、仲間の輪を広げ、敢然と、しかしどこまでも明るく、立ち向かうリーダーになっていくドキュメントである。その筆致には高い文学性があり、叙事文学ともいえる。が、それにとどまらない。ゆったりとした序(経験の統合)、息もつがせぬ破(問題点の整理)、そして最後の急(実践)という、しっかりとした構成をそなえて、また多くの地域に妥当する処方箋が書き込まれており、実学の書でもある。

川勝平太のあとがきです。

 

Date:11/11/20

このドラマ、毎週、視聴率がぐんぐんと伸びているそうです。松嶋菜々子演じる家政婦ミタがまったく笑みや感情を出さず、ロボット的に仕事をこなしていく。ミタは崩壊した家庭に派遣されているのですが、その家の各メンバーがそれぞれ勝手に自分の気持ちを「正直」に表現し、ダイレクトにミタにいろいろな依頼をすると、ミタは「承知しました」と受けていくのです。それで、「小さな(?)正直」は「大きな破綻」をどんどんと製造していきます

透明性ーものごとは隠すことなくガラス張りにするほうが良い。暗示的であるより明示的であるべきだ。説明責任が常に問われる。その時々の感情は抑えるべきではないーという言葉が世の中を闊歩するなかで、それが一方通行的に進むことが適切なのか?というテーマが、ここで問われているのではないかとぼくはみます。今や、情報提供のプレッシャーが非常に強いです。数々の企業不祥事などからの反省も当然の成り行きながら、「ガラス張り」があるゆる局面においてベストチョイスなのか?といえば、そうとも言えないことが多々あります。一生隠し通したほうが全体の幸せを作ることもあります。

この月曜日、日本に来ました。その翌日、赤坂のインターコンチネンタルホテルでアリババのサプライヤーDAYがあり、およそ450人を前にローカリゼーションマップについて講演する機会がありました。そして他の方のパネルディスカッションを聞き、お会いした方たちと話していて、ネット上だけで異文化市場を読む難しさを考えました。難しいが、経済的リターンが即見えないところでネット上の情報に頼るしかないパターンが非常に多い。よって、「だからリアルな経験が必要なんだ!」とは言わない道を探さないといけません。ネット上には有象無象の情報-このブログも!-が徘徊していますから、どのように実態に近い情報に出会うかー出会えるかーは成功への分岐点になります。

この問題は昨日の勉強会「インフォグラフィックにみる文化差」でも提示され、面白い表現が目につきやすいということと、第一次情報から含めて信頼に足るレベルであるかどうかは別問題であり、現状、ここに多くの「穴」があることが浮き彫りにされました。情報の受け手が「分かりやすさ」「伝えやすさ」「共感のされやすさ」を重視すればするほど、本来かえりみられるはずの情報そのものの質の検証作業が遠のくというパラドックスに陥っています。定量情報ならよく、定性情報により不安だと述べる前のレベルで、そもそも情報がどのアングルから把握されたものであるかの確認が習慣化されていないのです。眼前に提示されている情報の「裏読み」の仕方を学ぶ必要があります。

ヨーロ危機およびイタリアの現況について多くの人から質問を受けますが、今回の問題の一つに、やはり透明性が挙げられています。たとえば、イタリア社会全体の「暗示的表現」を批判することを、英国の雑誌「エコノミスト」は大きな役割として任じている感がありーそれは対日本もそうですー、今回のイタリアの市場の「売り」は、まんまとその批判のツボにはまっています。イタリアの社会が変わらなければいけない点もたくさんあるのは当然ながら、批判の尻馬に乗るのも愚かではないかと考えています。それは、ユーロの優等生であるドイツを一方的に絶賛するわけにもいかない躊躇がアングロサクソン系雑誌ゆえに見られるからです。ここに「裏読み」が不可欠だと思います。

第一次情報が自分で経験したことであったとしても自分の視座には自覚的でないといけませんが、だれがポストしたかまったくわからないネット上の情報をどう選択していくは、前述したように、今を生きるに大きなテーマです。だからこそ、信頼を獲得したいとの思いが強い発信者は情報提供過多に陥ります。そして、多くの矛盾が指摘されて墓穴を掘る可能性が高くなります。が、その矛盾こそが信用できるとみる受信者もいますから一概に否定はできません。しかしながら、少なくてもこの構図を常に意識しないといけません。たまに軌道をはずしながらもなんとか全体的な信頼を得ていかないといけないーちょっとTwitterでクリティカルな反応を受けても気にしないで全体像をより確実なものにしていくー根拠をどう自分で強いものにしていくかが「鍛錬」の目標になります。

ミタが派遣されている家庭のメンバーは、ミタにそのような「鍛錬」を目的としたトレーニングを受けているのではないか・・・とみると、ドラマとしてはつまらないか(笑)。

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