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Date:12/2/19

周囲が見えなくなるくらいに何かにがむしゃらになるのは大切です。でも同時に、ぼんやりとする時を忘れてはいけません。自分が相手にする対象が大きければ大きいほど、その両者のバランスがより問われます。社会イノベーションに懸命になりながら、その社会自身が目に入っていなかったら本末転倒です。しかし、そのバランスをとる方こそが奇跡的に難しい。バランスとはおよそ目標に対する態度です。常に均衡している状態を期待はされるが、そうじゃないからといって追及されるのは「たま」です。

時代の変化に途方に暮れる人たちは本書のこの分析を読み、「ああなるほど、そういう血筋と生育環境の問題なのか」とようやく納得できるのだろう。本書が多 くの人に受け入れられたのはそういうことだ。大阪都構想を主張する橋下徹大阪市長に対しても、選挙前に一部週刊誌は血筋の問題をさかんに報じ、非難した。 内容はまったく異なるが、「自分に理解できる感覚だけで理解しようとする」という1点において週刊誌報道と本書は通底している。

これは佐野眞一『あんぽんー孫正義伝』に対する佐々木俊尚の書評です。テクノロジーの進化にのりながら社会変化を作っていこうとしている実業家ー孫正義ーにある人間的側面ーテクノロジーからの視点を拾わずーに佐野がスポットをあてたことを、「自分に理解できる感覚だけで理解しようとする」と批評していますーぼくは本書を読んでいないので、想像を加味した解釈をしています。であればこそ、より広範囲の読者を本書は掴んでいるという皮肉がここにあります。どんなにネットで評判になってもそれは狭い空間。TV番組になると聴衆のゼロのけたが全く違う。Twitter有名人でもどこかのパーティで「・・・さんですよね」と話しかけられるのがせいぜいで、街を歩いていて似たようなことがおこることは稀でしょう。

テクノロジーによる社会意識の変化の大きさを語れば語るほど、その語りが宙をふわふわしているように世の多くの目には見えてしまうのです。「自分に理解できる感覚以上のレベルで理解しようとする」のは特異な存在であり、人の理解できるレベルでまず理解を確認してみよう、という発想がTV番組のバラエティ化を肯定する理由になります。あらゆる事象はふつうの人たちの意識に痕跡を残した時に意味をもつという立場です。おばあさんが分からないことは分からないこととしてみなしてよい、と。そのうえで、理解できる感覚以上を目指すことがバランスのテーマになります。

世界30か所に展開しているThe Hub が今夏、東京でオープンするという記事を読みました。

この the HUB は、2005年にロンドンのIslington という芸術家地区で、350人の刺激的でエネルギー溢れる社会起業家とイノベーティブな環境系のスタートアップたちによるコワーキングスペースとしてスタートしました。

その特徴は、社会を変えるという志を持つ人が共に働く場所であるということ。単なるワークスペースとしての価値だけではなく、志のあるプロジェクト の知識や経験、その志への投資、 メンターとなるプレイヤーたち、心の支えになる人の繋がり、そういったそれぞれのリソースをシェアしていく場です。

今年のはじめからミラノのHubのメンバーとして、ぼくはこの場を時々活用しています。社会起業、ソーシャルイノベーション、デザイン思考、サステナビリティといった最近よく目にするキーワードが空気のように流れ、Mac 使用比率が高く、イタリアの空間にしては大きな声が幅を効かしていない。スペースを利用するにカードの提示や照合は一切なく、使用予定時間で月のタリフが設定されていますが、誰かが明確に管理しているわけではありません。ただメンバーになるにはサステナビリティや社会イノベーションに貢献する、そのポリシーを共有することが条件です。それが、この場がネットワークの契機だけでなくコミュニティとして機能することを目指す基盤であることを意味します。

ぼくはローカリゼーションマップを欧州で展開する道筋を得ようと思って入り、この1か月半、トークショーなどのイベントに参加したり、さまざまな人に会い話し合ってみました。頻繁に出入りする年齢層は20代から30代が中心です。Hubのメーリングリストに自分のプロジェクトをポストして、そこから交信が1対1ではじまり、Hubでリアルに会うという流れです。ネットのコミュニティで熱く語られるコンセプトが物理的空間に置かれることで具体的現実性が付加される。そういう感覚をもちました。新しい感覚がネットで流通すればするほど、そこに足と手と頭と心のカタチが必要になりますが、そういうバランスがこの場に作用しているのでしょう。

上述した内容でいえば、普通の人たちの意識に「変化への希望の痕跡」を残すための前線基地ということになります。ぼくは以前書いたように、これまで距離をもってきたソーシャルエンタープライズの「ヤワさ」に対して見方を変えつつありますが、そのような「ヤワ」な人たちがカタチをもち始めたのが  Hub ではないかとも思います。ぼくが知っているのはミラノだけで、他の都市にある Hub がどうであるかは知りませんが、システムやインフラ自身に新規性があるわけではなく、ホストと呼ばれる人たちの力量に相当程度左右されます。「そういうテーマを狙いたいなら、あの人と会うといい」とアドバイスしてくれる人たちです。

そして、その「あの人」の範囲がミラノに限らず、国を越えて繋がっていることに特徴があります。Hubのサイトで世界のメンバーのプロフィールが分かりますが、思いのほかLinkedin をリファーして自己紹介をしあっています。当たり前のようにフェイスブック上でも同じ名前は発見できますが、「あそこは酔った姿をさらけ出している」ためにLinkedin が優先されるというわけです。フェイスブックは「次のステップ」の場です。

短期間の経験で Hub がこうであると結論づけることはできません。ぼくが今言えることは、メンバーが350人以上いるミラノで経験する限り、思ったより居心地は良いし「刺激をうる道」が見えやすいということです。少なくても、社会を「理解できる感覚」の幅が広がることに貢献してくれそうです。

 

 

Date:12/2/11

今の世の中は複合的に動いているから、あるパーツだけを相手にしてもダメだということが盛んに言われます。ぼくもこのブログで繰り返して書いていることです。その一例として消費者の購入決定パターンがあげられます。店舗での実物、噂、TVのCM、オンライン広告、ブログ、SNSのコミュニティ・・・と数々のメディア接触が「この商品を買ってみようかな」という動機を生む。TVでタレントの使用シーンをみて「うん、決めた!」となる確率が落ちてきたわけです。だからサイトのインターフェースを斬新なものにすれば画期的な変化が起こる…と強すぎる願望をもってはダメだということです。ユーザーの一連の経験を総合的に捉えないといけないのです。どのように複数の経験が組み合わさると、どのようなタイプのユーザーの心は動くのか?

昨日、トリエンナーレでfrog design の本テーマに関するプレゼンターションを聞きながら、一人でこういうリサーチをするとしたら、どんなタイプの人間が良いのだろうかと思いました。通常、デザイナーやエスノグラフィーのエキスパートなどがチームを組みますが、まったく一人であればバックグランドよりも、「人間力」的な側面が重視されてくるでしょう。frog design のプレゼンテーターはミラノ工科大学にプロダクトデザインの学科ができる前の卒業でした。つまり建築学科卒業のプロダクトデザイナーです。カスティリオーニなどマエストロ達に育まれた世代で、幅広い視点でリアルを把握することが訓練されている…..ことが期待されて教育をうけた人です。

本は読めないものだから心配するな』にあるような読書体験とはあらゆる本の痕跡であり、それは旅も同様であると書く管啓次郎さんはぼくと同い年です。本は「はじめに」から「あとがき」までを一貫して読むことを教えられ、Aという本の1章目とBの本の2章目だけを読んでレポートを書くことがあまり推奨されなかった時代の「子供」です。しかし、ぼくはーたぶん管さんもーそうした章分けの息苦しさを感じながら生きてきたのです。だが、ここで書いておきたいのは、「はじめに」から「あとがき」までを通して読むことを否定しているのではなく、一冊の本の構成をしっかりと理解してこそ、あの本とこの本の「結合」ができるということです。分断された情報を一つのカタチにする能力は、一つのカタチとは何であるかを分かっていないといけないわけです

frog design のプロジェクトフィーがいくらかは知りませんが、冒頭に述べたようなリサーチを徹底すればするほど高額になってきます。統合したリサーチが必要とされればされるほど、その予算が組める大手の会社しか実施できなくなります。敷居が高くなるのです。予算が組めない会社は断片的なシーンしかつかめず、多面的なユーザー経験をはっきりとデータ化できずに負けが込む可能性が高くなります。それでは大手にしか勝ち目がないのか?と問えば、そうではありません。ある統合されたカタチは一人の人間の力でカバーすることが可能だからです。落し穴をなるべく減らし多様なアイデアを生むためにチームは生きますが、チームだけが勝算の唯一の道だけではないことも事実です。

世の中にイノベーションをおこすに人々が集まることは大事です。だからといって駒で生きるメンタリティであったはいけません。一冊の本ははじめから最後まで読み通し、しかし、それをすべて一冊の本として頭に入れておかないと気が済まないとのプレッシャーに耐えられないメンタリティであっては生き残れないということです。

非完璧主義」がここでも生きます。

Date:12/2/10

村上春樹の『1Q84』が各国語で出版され話題になり、ヨーロッパのどこの書店でも三島由紀夫やよしもとばななの本を見つければ、日本の作家の本はそれなりに海外で流通しているのだろうという気になります。ただ、それは日本の出版社が営業した結果がダイレクトな現象となっているというよりーこのあたりの事情は素人の想像ですがー、各国語の出版社かエージェントがリスクを負って翻訳本を出版してきた功績ではないかと思います。一方、アカデミックな研究者が世界で成果を評価されるには、一流の英語の学術誌に論文が掲載されないといけないと言います。このフィールドも疎いのですが、要するに「舞台」にのらないで観客席で何をやろうがー貴賓席であろうが!-それは評価の対象に入らないのです。しかし、そのサーキットにのりきっていないことが現実であることをいろいろなランキングで見せつけられます。

さらに学問の成果を世に問うには、雑誌掲載だけでなく書籍の出版という手段が必要です。京都大学学術出版会の斉藤至さんの『国境を越える学術出版ー英文共同出版の10年』という文章を読み、日本の出版社が英語の学術出版でほとんど主導権を握れていない事情を知りました。まず第一に、査読体制が不十分であるとの指摘があります。

特徴や評価基準の文化差から、相互の査読体制が食い違う(split)場合も生じるが、共同先に向けて企画の刊行意義を説得的に提案する工夫が求められる。

共同先とは海外の出版会を指しています。

日本からは英文書を海外に普及するまとまったチャネルが存在しない。北米ISBS社とはTPP社(豪のTrans Pacific Press)の仲介により2009年から直取引を開始した。ただし共同出版では、お互いが市場を侵犯せず共存するべく販売先を地域ごとに分担(share)し、小会が日本国内販売、共同先が日本国外販売を分担する。共同先の単独出版物を日本で販売する場合は小会が代行し、日本国外で直に普及が可能なのは、小会の単独出版物に限られる。

共同先と一緒に出版物を作っていくことがメインのビジネスであると想定されており、しかも、その書籍の企画を独自に推進するには敷居が高いようなのです。「なお契約上は、共同先の管轄しない地域ならば直販売できる。フランクフルトでのEurospan 社、南ムンバイでのAllied Publishers社との接触は、今後の有益な取引資源である」ともありますが、影響を及ぼしやすく商売のうまみもある市場へのアクセスが限定的であることが伺えます。が、かといって肩に力が入り過ぎてもいけません。

しかし問題は、英語化のトレンドに遅れるという焦燥に駆られ、地域の固有性を十分に経由せずして英語化へと走る事態であるように感じる。英語化のトレンドはむしろ英語をハブとした新たな翻訳交流を切りひらくものだろう。中心文化から周辺文化への侵略という言辞で「否定性」を煽り立てるのではなく、ローカリティに密着したユニークな知見を積極的に発信する好機として受けとめたい。

<中略>

また特に地域研究の分野でも、日本人が欧・米的な分析手法で対象地域を研究する著作よりも、各国人がそこから内在的に引き出した基準で各々の共通性と差異を比較しあう著作が有力な学術賞を多数受賞している。

これはとても示唆に富みます。現状、多かれ少なかれ、市場の流通と企画を先導できないのは日本の企業活動の弱点であり、学術出版が周回遅れであるわけでもありません。いやむしろ、学術出版の世界であらたなモデルを作ることが不可能ではないとの印象は与えてくれます。

デザインの世界のヒントがここにも満載されています。特にデザイン言語という見地で考えるべきことが多数あります。

 

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