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Date:15/3/28

いつの間にか、文章を書くことが多くなりました。今年定期的に書く場が紙とネットの媒体で6-7はありますが、自分の考えていることの妥当性をビジネスのために確認するというのが、そもそもの目的でした。いろいろなところで書いていますが、2008年に「ヨーロッパの目 日本の目」を上梓したのは、その数年前からアイルランドのユーザビリティやローカリゼーションをテーマとする会社と一緒に日本の自動車や電子デバイスのメーカーと付き合っているうちに、ふつふつと湧き出てきた僕自身の欲求でした。マーケティングや販売の担当はさておき、商品企画やデザインの人たちが異なった文化を理解するすべをあまり身に着けていないことに気づき、ヨーロッパを例に「文化ってこう理解するといいですよ」と語るためです。決して文章で食っていく、というわけではありません。ただ、最近、僕自身のネットとの付き合いの歴史を聞かれたとき、ふと思い出すことがありました。

僕がイタリアに来て一貫して注意していたのは、「イタリアだけを売りにするタイプ」にはならない、ということでした。また、イタリアと言えばアレ、というのも当初避けていました。トリノでクルマやトスカーナで文化センターのプロジェクトに関わっていれば、十分に「イタリアと言えばアレ」ですが、僕の気持ちとしてはそこに浸るのを微妙に避けていました。ミラノに来てもそうで、スタジアムなどの構造設計で著名な事務所のプロモートの一端を担ったのも、サローネに代表されるミラノの家具デザインビジネスと距離をとりたいとの気持ちが引っ張っていたのでしょう。例え家具やデザインプロダクトといえど、十分に知られた名前やカタチであっても、より「イタリアを超えている」ことが、僕の心の落ち着くところでした。あるいはオンオフの手作りではなく量産であることにこだわってきたのも、そのあたりの指向と重なります。

ネットの付き合いの履歴のなかで思い出したのが、メーリングリストです。パソコン通信には嵌らなかったのですが、メーリングリストには相当に熱心になりました。90年代末にあったビットバレーのメーリングリストやそこから派生したもの、はたまた別のテーマ・・・いろいろなところに顔を出したのは、「イタリアをテーマにせずにどこまで自分の考え方で人を説得できるか?」を知りたかったのです。そうはいっても、「イタリアの例では・・・」というフレーズはどうしても出てきます。第三者からみれば「またかよ」と思われていても、僕としてはギリギリのところで抑えていたつもりでした。その後、2004年頃からSNSの時代に入り、やはりいくつかの場所で自分の表現の領域の設定をさまざまに試みてみました。そうした10年近いトライアルを経て本を出したことになります。ネット以前は、紙媒体より原稿を依頼されるにはすでに世に名が出ているか、プロの書き手であることがふつうだったのです。しかも、僕はビジネスプランナーとして黒子に徹することを信条としていたこともあり、ビジネス以外の目的で人に見せる文章を書くことはほとんどありませんでした。

とにかく、長い間、イタリアのことはたくさん語り書いても、「イタリアってこうなんですよ」というポイントだけで話が終わらない・・・ということは考えてきました。最初の本がイタリアではなくヨーロッパまで範囲を広げたのもそうだし、二冊目の「マルちゃんはなぜメキシコの国民食になったのか」はイタリアを主要舞台にしていません。三冊目の「世界の伸びている中小・ベンチャー企業は何を考えているのか?」においても、イタリア企業はとりあげた企業の20%程度におさえました。しかし、僕の何気なく用いるケースが圧倒的にイタリアの現象であるのは否定のしようがないし、本や記事を読んでいらっしゃる方が「イタリアの経験ね」とみることに抗弁する気はありません。

これほどに長い期間、「イタリアの・・・・」というポジションを避けていた僕が、一昨年から「イタリアオヤジの趣味生活」という連載を書いている。たまたま編集の方とジャカルタを走っているタクシー車内で、そういう話になって書き始めたという「人生の不思議」みたいなものがあることは脇においておくなら、僕自身のなかで「そろそろ、イタリアについて語っていいかな」との心が芽生えはじめたのもあります。1990年にトリノに来てビジネスプランナーになるべく師事した宮川秀之さんというイタリア生活文化の体現者を身近に見ていた僕ごときがイタリアを語るのはおこがましいと思っていた。いや、今もそういう気持ちは十分にあります。宮川さんがジュージャロと一緒にカーデザインビジネスのトップをきわめ、黒澤明と人生を語り合う生活をしていたからではなく、毎日が冒険的な生活になるべく本能的に動いている人を前にして、何を言っても僕自身の浅さを感じてしまうのです。といって、いつかは僕自身もイタリアを語らないといけない時があると感じ始めていたわけです、数年前から。

やっぱり、語るのは難しいです。特に語りつくすのは不可能に近いです。そんなことをいくつかの記事の締め切りを前に考えています 笑。

Date:14/12/10

20数年前、イタリアで生活をはじめた時に、よく耳にする気になる言葉がありました。「これはクリエイティブか?」という問いかけです。とっても多い。それも日常生活のなかのこまごましたコトについて、「クリエイティブか?」なのです。クリエイティブはデザインや広告の世界の用語に近いと思っていたぼくは、クリエイティブであることが評価の大きな軸であるとの発想にすぐついていけず、馴染むに少々時間がかかりました。

その頃、日本では個性的であるかどうかはよく会話が交わされていましたが、日常の生活で「クリエイティブ」はほとんど俎上にあがっていなかったと思います。しかし、自虐的ですが、「イタリアの(非効率な)官僚システムほどクリエイティブなものはない」という表現を耳にして、クリエイティブが何たるものかが(否定的な側面からでも)分かってきます。日経ビジネスオンラインに連載している「イタリアオヤジの趣味生活」のために多くの人にインタビューしていて気付くのは、イタリア人は危機的な状況を生き抜くに得意ということです(もちろん、生き抜いた人をインタビューしているから話が面白い、ということはあります)。

つまり、このサバイバル能力とクリエイティブ度合のあいだに相関関係がある、という考え方をするとクリエイティブの意味がもっとよく理解できます。本書で「限界ギリギリのところで発揮する力」としてのクリエイティビティが語られています。これには、時間や文化を踏まえてコンテクストに新しい視点を持ち込むとのヨーロッパ的な伝統が活きています。タイトルが「世界で最もクリエイティブな国 デンマークに学ぶ」であり、インタビューに答えたのがデンマーク人であるにせよ、語られている内容はかなりヨーロッパ的です。それだけイタリアの文脈におけるクリエイティブとも共通性がある、ということです。

解説をリ・パブリックの田村大さんが書いており、シリコンバレーのピーター・ティール『ゼロ・トゥ・ワンー君はゼロから何を生み出せるのか』において強調されている「枠組みの外で考える」と「限界ギリギリで考える」の対比を指摘しています。これは文化圏の違いだけでなく、もう一つはイメージするビジネス規模やエリアの違いにも拠っているかもしれない、とぼくは思いました。ティールはテクノロジーによって独占的な市場をとる大切さを説いています。世界の大きな面積を相手にしないと元がとれないプラットフォーム的な商売をネタにする人たちと、アプリやコンテンツのようにローカル依存度が高いネタを扱う人たちという2つの次元があります。

発想のコツとしては、「枠組みの外で考える」と「限界ギリギリで考える」の両方も使えるのですが、実際のビジネスに現場において、どちらに重心を置くかが変わってくる・・・ということだと思います。ヨーロッパのビジネスリアリティにおいては、圧倒的に「限界ギリギリで考える」が活きるだろうし、たぶん、日本でもそうです。だから『ゼロ・トゥ・ワンー君はゼロから何を生み出せるのか』をぼくは凄く面白い本だと思う一方、そう全ての人が読まなくても良い本だと考えました。でもこういう本は爽快なのです。だから大ヒット作になるわけですね。

が、ゼロから何かを生み出せない自分に嫌気がさすのも現実です。それよりも、「今、自分のやっていることをもう少しギリギリまで追いつめてみないか?」とのアドバイスの方がよっぽどやる気が出てきます。大多数の人の実感にしっくりきて、なおかつ、一歩前に踏み出してみようという気持ちになるのです。よって『ゼロ・トゥ・ワンー君はゼロから何を生み出せるのか』を読むな!とは言いませんが、口直しに本書を読むと精神的バランスがとれますよ、とは言いたいです。

イノベーションが語られ、そのなかでクリエティブがいわゆる「業界用語」から脱却した今、いよいよヨーロッパの知は面白いところにあります。

 

Date:14/12/1

この数か月、新たな本を書きたいなと考え始めています。「イタリアの食デザインの現在」に関する本です。企画書にしてどこかの出版社に打診するというレベルではまだありません。しかし沸々とそういう気になってきた、というわけです。そろそろ、いわゆる食関係者以外の人間が、食とその周囲にあるテーマを多角的につっこむタイミングにきたのではないかなと思うのです。料理本でもない、ファーストフードやマス加工品の害を告発するのではない、広い範囲からの食の捉え方があるだろう・・・と。

ローカルの活性化の話になると、観光と食が語られることが多いです。食はレストランの食と土産品の両方が取り上げられることが多いのですが、ふつうの食加工品で且つ距離のある経済圏に移動するという次元のことが割と把握されていないという気がします。サンケイビズの連載にも書いたのですが、ある日本の地方の加工品のローカライズのプロジェクトをやっていて、高級品ではない加工品を海外市場に出していくにあたり考えるべきことは沢山あります。

一方、イタリアの経済人の動きをみていて気がつくのは、この数年、農業に投資する人が増えていることです。もともとイタリアではビジネスで成功するとワイナリーのオーナーになるというコースがあります。スポーツ選手もそうです。広い農園を散歩しながら自然を堪能し、自分のワインブランドが世界の食卓に普及するのを夢見るのです。が、ワインだけでなく、他の農産品に食指を伸ばしつつあります。オーガニック食品専門の大手スーパーの株主に誰がなっているかをみると、それははっきりとします。一人は「質の高い食こそが、現代の贅沢である」と話しています。

これは、世の中が動いている証拠です。今週、ファッションのブルネッロ・クチネッリ氏のプレス発表にでかけました。彼が使われなくなった他社工場を壊して自然の姿に戻すと語ったのですが、それがブルネッロ・クチネッリという企業ではなく、ファミリーの財団として行うことを強調しました。そして、この会場には自分の上場企業を観察しているアナリストたちがいることを何度も何度も繰り返しました。戻された自然のなかで子供たちがサッカーをする、畑でとれた野菜を自社の社食で使う・・・との説明がありましたが、この決断の肝は、風景という財産の形成にどう貢献するか?です。(←詳細は、次回のサンケイビスの連載コラムを読んでください)

ローカル、風景、農業、文化。これらを目がきく経済人たちが真剣に語っている様子を眺めていると、ビッグデータの動向を追っておくことと同じように、食とその周辺に対する人々の関心のありようを知っておかないといけないことに気がつきます。ライフスタイルのトレンドの理解において、ファッション、インテリア、クルマ、情報空間・・・を象徴的にみてきたように、食が表現する記号を読み取れないといけない時代であるとの認識が求められるのです。

来年5月からは食をテーマにしたミラノ万博がスタートします。ぼくの情報収集や思考もスピードアップできるはずなので、さて、本の下準備を考えようか、という気になるわけです。

 

 

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