「何でも基礎は退屈でやりたくないもの。でもそこを通過しないと面白いと思う領域に到達できない。そのあとに他の稽古事やスポーツへの展開を図ればいいのよね。それなのに生徒の親たちと話していると、子供が『つまらない、他のことをやりたい』というとすぐに変えさせる。子供の意思を尊重していると聞こえはいいんだけど、本当にこれでいいのかしら?」とイタリア人の子供たちにピアノを教えるぼくの奥さんの疑問です。3年から5年くらいはやらないと楽しくは曲を弾けない、と。日本で教えているとき、親は途中でやめたいという子供を叱った。イタリアでも親は子供を励ますが、あきらめのタイミングがきわめて早い。確かに判断に迷うところです。

一つのことを続けないデメリットをぼくも思います。しかし、何でもしがみつかせるのが良いのか?という問いも頭をかすめます。子供の時にいろいろなスポーツをやらせて身体の各部を平均的に使うことを重んじる人たちは、子供の全体的な能力を伸ばすことを優先するのではないだろうかとも考えるからです。一般に「つまみ食い」はネガティブなイメージを伴いますが、子供の人としての幅を広げるとの効用もあります。この見方に立った時、ピアノの基礎をマスターすることにどれだけの意味があるのかへの回答が揺らいできます。「何事も中途半端はよくない」との言葉は全面的に正しいのでしょうか。
あらゆる場面において全体像をつかむには二つの鍵があって、一つは直観です。この直観はある程度経験で身に着くもので、特に混沌とした状況に直面した場数が貢献するのではないかと思います。もう一つが、三つの視点の確保です。視点は何もないところにはアンカーを打てず、何らかの理由で足を踏み入れた経験のあるフィールドがあってこそです。この二つの鍵の重要性を考えるとき、カオスが日常化しているイタリアンライフと「つまみ食い」の二つが実は教育上看過できない要素ではないかとも思うのです。

プロジェクトの組み立て方や進め方からはじまり、プロダクトデザインやビジネスの取り決めに至るまで、どうしても全体像を描くのが苦手でディテールにこだわっている多くの日本人ーぼくも含めてーを見ていると、子供が稽古事をころころと変えることを割と容易に認めるイタリア人の親を批判するのに、ぼくはどうしても躊躇します。全体像の把握ができるということは、全体像を人に見せることをも得意とします。
「ぼんやりとしたコンセプトもコンセプトと言えるのだ」と喝破できるのは、自らの全体像に確信がもてるからです。いや、正確に言うならば、確信をもつ「術」を心得ている、あるいは不安の払拭の「術」を知っているというのが適切です。イノベーションを生むβ版の推進力の源泉は、このあたりにあるのではないかと匂いを嗅いでいるところです。
ヨーロッパの財政危機を巡る日本国内でのコメントや意見を耳するたびに、相変わらずEU認識にずれがあるなあと思います。まるで経済的な動機でEUが成立したかのような前提で論議されていることが非常に多いのです。EUはエリートの産物であるがゆえに経済的ロジックに嵌るはずがなく、統合の考え方は地に落ちていくのが当然であろうとでも言いかねない勢いです。言うまでもなく統合の出発点にあるのは、何世紀にも渡っていったいどれだけの人たちが終わりのない復讐に命を落としたのか? 戦いで流してきた血を止めるしか生きる道はないとの覚悟がすべての根底にあります。ヨーロッパ統合のコンセプトが破綻しないための経済的な括りが共通通貨に表現されていると考えるのが妥当でしょう。
何か前向きなことが生じると一斉にヨーロッパの将来を語りはじめ、少しでも暗部が露呈するとすべてが終わりのようなシナリオに夢中になりすぎる。短い期間をとっても、2007年のリスボン条約締結以降の日本の書店のヨーロッパ関係の本棚を観察すれば、そのあたりの節操のなさがよく分かります。ヨーロッパが市場として規模が大きいかどうかではなくー北米より大きいが言語が細分化されて面倒との見方をする企業が多いー、「こういう考え方をしたらどうだろう」との提案をするヨーロッパの動向を定点観測しておく意味がよく理解されていない。すなわちは世界の思潮を見極める大きな要因をフォローせず、世界各地で起こる一現象に振り回される確率が増えるという悪循環に陥っています。世界を動かすメカニズムのキーの一つがヨーロッパにあるのに見過ごしているといえます。新興国の台頭で米国も含む西洋社会は凋落の傾向にあってでも、です。

一例がここにあります。「21世紀はモラルの時代になる」と一部の人たちの間で前世紀から語られてきました。明示的なルールではないレイヤーでの勝負とは言わない「紳士的な振る舞いでの「勝負」」が重要視されるだろう、と。実は、それが目に見えない机上の理想論ではなく、現実の世界に浸透しはじめているのがCSR (Corporate Social Responsibility =企業の社会的責任)ということになります。
CSR とは、社会面及び環境面の考慮を自主的に業務に統合することである。それは、法的要請や契約上の業務を上回るものである。CSRは法律上、契約上の要請以上のことを行うことである。CSRは法律や契約に置き換わるものでも、また、法律や契約を避けるためのものでもない。
これがヨーロッパの発想です。企業幹部が不祥事で頭を下げるたびに話題になる法律の遵守がCSRではなく、明示できない問題への対処がCSRのテーマになるのです。グローバルに展開するサプライチェーンによって、自国では維持する価値を他国では踏みにじるー本社のある国での人権は途上国にあるサプライヤーでも同じく尊重されないといけないーということが生じないようにするにはどうすればよいかを考えるのです。
ヨーロッパは持続可能な発展を環境保護と経済発展の両立とは考えない。環境保護と社会的一体性の維持とそして経済発展の3つが同時に成り立つことがヨーロッパの言う持続可能な発展である。
環境と経済だけが表に出やすい米国や日本との違いは、この社会問題を同等に扱うとの定義にヨーロッパの意思が表れています。EUのRoHS指令(電気電子機器に含まれる特定有害物質の使用制限に関する指令)はヨーロッパを含む世界中の産業界に喧噪を引き起こしましたがCSRの狙いを的確に読み取れば、議論のレベルをどこにもっていかないといけないかが明らかになります。本書には、「CSRマネジメント規格の議論の位置づけの日欧のちがい」という説明があります。
ヨーロッパ
社会問題への危機感→企業の責任についての議論→CSRという概念構築→経営に取り込む方策の模索→規格の必要性の有無についての議論
日本
ISOでの検討開始→CSRへの関心→過去のISOマネジメント規格に関する苦い経験→ISO規格とCSRへの警戒感
日本でのISOに関する苦い経験は環境管理システムを定めた14001や品質規格の9000を指していますが、上の経緯を見ただけでも、考え方の道筋のありかを見定めて態度を決めないと大気圏外に飛ばされてしまう可能性があることに気づくでしょう。財政問題しかりです。
ネット上でいろいろとブックレビューを読んでいて気になることがあります。本の要約から書き始めることが多い。この点です。そして、その本がどんなタイプの目的に合うかがコメントされている。他人に本を紹介するために書いているのでしょうか。プロの書評家じゃないのに?それはそれで勉強の一つとして良いのですが、そんなに時間に余裕があるのかなとぼくは思ってしまいます。何が言いたいかといえば、本は自分の何らかの内的動機とのリンクでしか読めないはずなのに、そのリンクを外れた部分で語ろうとしているという無理を感じてしまうのです。
個人的事情の襞で読み込むと読書体験は圧倒的に血となり肉となりえます。内容を細かく覚えている必要はない。いやおうなしに頭に入った内容が自分の言葉で残っていればいいのです。それが自分の言葉にならないのなら、内容かタイミングがマッチしていないと諦めるしかありません。いつか用を足すこともあるかもしれないなと軽く流せばすみます。本の海を泳ぎ切ろうなどと無駄なことを考えるのではなく、それなりの流れの本の川を横断する程度に構えることです。もちろん、大海を泳ぐのが趣味であれば問題ありません。趣味が趣味たるゆえんです。

実は、これはローカリゼーションマップへの立ち位置でもあります。ローカリゼーションマップは地域の傾向を大ざっぱに素早く掴むためのものです。100%地域文化を理解することはありえないのですから、自分のビジネスを「今日」前進するための礎があれば十分なのです。「これでは不十分ではないか」と思い悩み、プランを実行するという本来すべきことができないという罠に陥らないには、「本の要約など不要」と割り切ることです。この発想の転換ができると、つまらない映画などないし、つまらない人などいないし、あらゆることは吸収すべき対象になり、吸収しえなかったことは不要であったのだと思えるのです。
コンサルタント業界の人は新しいプロジェクトを前にしたとき、スタートの1-2週間で頼りになる仮説をたてろと言います。そのために、さまざまな人に電話をかけまくり話を聞き、現場の実感を貪欲に獲得すべきだ、と。本書の著者・山本真司さんもそうです。どうして、このことが強調されるのか。逆に言えば延々と時間と金をかけて情報収集と分析を行っても、事業企画をたてるに100%満足できるネタなど決して用意されるはずがないという前提があるからです。それよりチームが効率よく「小さな失敗と軌道修正」を重ねながら前進してプロジェクト音が高々と鳴り響くことが大事なのです。ローカリゼーションマップはポジションとして、コンサルタント業界でいうところの「仮説思考」に相当するでしょう。
こうでもしないと全体図が見えてこない。しかしながら全体図をみた実感のない人は、このぼんやりとしたラインに不安を抱きます。もっと明確なラインを描くべきではないかと考えてしまいます。「そんなことない、十分」と思ってもらうには、実際に何度かそういうあいまいな地図でスタートを切り、だんだんと輪郭を作っていくとの経験を積んでいくしかありません。経験主義の横暴ではなく、経験則の構築です。

今朝、本書をミラノに戻る機内で読み終えヴェネツィアの上空1万メートルからイタリア半島を眺めながら、半島は反転したとする説を思い出しました。現在長靴の膝にあたる部分は地中海ですが、かつてはアドリア海にあったというのです。アペニン山脈を真ん中にひっくりかえったわけです。両岸の地層を調べると半島がぐるりと寝返ったとするのが妥当だといいます。こういう説はロジカルに考え、かつ思考のジャンプがないと出てこないでしょう。それにしても、夢膨らむ仮説だと思いませんか?