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Date:15/5/6

万博やオリンピックは時代遅れのイベントであると言われて久しいです。サイズ自身が今の感覚に合わなくなっているなどいろいろと理由はありますが、5月1日からスタートしたミラノ万博を巡り、「万博は面白いか?」を問うてみたいと思います。つまらないならなぜつまらないのか、おもしろい点は何なのか、これを会期中の半年間、考えていきます。

さて今回の万博は、誰にも馴染みのある食がテーマであるがゆえに誰でも親近感がもてますが、カバーする範囲があまりに多岐で複雑で超巨大なので、このイベントは自分なりの視点をもたないと楽しめないのではないかと思います。世界には餓死する人たちがたくさんいる一方、飽食で病気になる人たちがたくさんいる、という現状に対する問いかけがここにあります。例えば、我々が今のように牛肉を食べつつけ、その習慣が新興国で定着していくと食糧事情はどうなるのか? それなのに多くの残飯が大量に捨てられる運命にある。このような背景から、世界の貧困や人権問題と戦う宗教団体のカリタスやバチカンが参加している。また先進国だけでなく、貧困国といわれるところからも参加している。これらが特徴です。

下の写真は9つのクラスターエリアの一つ、「米」に参加しているバングラデシュの農業研究機関のパビリオンです。

ミラノ万博はおなじみの国ごとのパビリオンだけでなく、「米」「カカオ」「コーヒー」などのテーマエリアがあり、ここに先に挙げたあまりお金に余裕がない国が参加しています。違った地域の国が同じ材料を相手に違った事情をプレゼンするわけです。バングラデシュはその一つなのですが、壁にパネルがはりつけられています。ブレイカーのあるスペースを使っているのは仕方ないとしても、上のパネルはちゃんと読めるように縦に貼られていますが、その下のスペースに2枚のパネルを縦に貼れないので、それらを横にして貼っています。書かれている英語を読むには、床にはりつき顔を横にしないといけません。

これを嘲笑するために紹介しているのではありません。こういうパネル展示の経験が殆どない農業機関の人も参加しているところに注目すると、ミラノ万博を読み取るヒントが得られるのではないかと考えたのです。万博というと、国際コンペで勝った建築空間の各国間の競い合いという印象がありますが、これに真っ向からNOをつきつけ、新しい道を切り開いているのがオランダ館です。大げさな建築物は一切なしで、メインスペースにはテーブルとチェアの周囲をストリートフードのバンが並び、そこで食事や音楽を楽しむ趣向になっています。

このパビリオンのデザイナーは「いろいろな展示のデザインをやってきたが、正直いうと、映像を流しているのは簡単なんだよ。まったくのリアルの世界で本当に経験を提供するほうがよっぽど難しいだいたい、暗い空間をつくり、大きな3D的な映像と音響で見る人を圧倒させようという発想はもう時代遅れだしね」と語っています。オランダ政府は3年前、一度はミラノ万博の不参加を決めたのですが、昨年の夏ごろから、食の産業集積地や世代を超えたチームが「食と農業のオランダが参加しないというのはあり得ない」との動きが出始め、政府として参加を決めたのは昨年の秋も深まった頃です。それからレイアウトや資金集めがスタートしたので、そもそも大規模な建造物を作る余裕がなかったのですが、結果的にそれが良い結果を生みました。

オランダの開放性を表現するのに、ストリートフードの世界を再現するのがベストであるとのアイデアを固め、なんとコンペなしに政府から承認を得たのです。ぼくは保守的な官僚組織を相手にクリエイターたちがどうアイデアを通過させたのかを聞いたところ、時間や資金が不足していたところが結果オーライになったこうしたプロセスを話してくれたのです。「時間も金もないからやらない」ではなく、その窮地で知恵を絞ったがゆえに面白いことができた。もちろん、「どこの国もがこういうカジュアルな演出をすべきとも思っていない」とデザイナーは説明を加えます。しかし、このチャレンジにとても満足そうです。

中東のバーレーン館も、とても静かな空間を作っています。ミニマリズム的な世界にあって小さな散歩道に小さな庭があるような感じです。そして、その庭にはレモンやオレンジの木などが植えられ、その香りはとても心地よい。文化遺産の展示が奥にあります。そのセクションの、どの説明にも白い石版(に似たプラスチック)に白い文字で書かれており、決して説明的な理解を強要しません。「我が国にとって農業は大きな産業ではない。とても文化的な結びつきが強いのです」と話すディレクターは、文化や観光が担当の省庁にいる人です。だからこそ、文化は押しつけがましくするものではなく、静かに語りかけるものであることがよく分かっています。文化には輸出はなく輸入しかない、という定理を古代からハブとして栄え、石油時代の次に金融センターを作り上げた国らしい”教養”です。「他のパビリオンがうるさい落ち着かない世界を演出しているなかで、この静けさが印象に残るはず」と戦略的デザインの背景を語ってくれます(一番奥には、万博会場で一番豪華と自負するトイレがある!)。

尚、最初に書いたように、先進国の肥満解消も万博の大きな課題ですから、会場のあちらこちらにトレーニング機器があります。プレスセンターのチェアをみれば、その意図が一目瞭然です。一筋縄ではいかないテーマに挑んでいることがよく分かるはずです。

 

 

 

Date:15/4/20

この何年か、ミラノのデザインウィーク中、大がかりな展示をするカーメーカーは、日本のレクサスと韓国のヒュンダイしかありません。今年、アウディがファッションストリートであるモンテナポレオーネ通りの路上とちょっとしたスペースを使って展示していました。あるいはシトロエンも路上や野外スペースで一目を惹く展示をしますが、レクサスやヒュンダイは屋内のそれなりの大きさのスペースを使って展示をしています。それだけクルマのメーカーが、この期間を利用して現行商品以外を主体にメッセージを出そうとするのは一般的な戦略になっていません。

レクサスは10年近くカタチを変えながらやっていますが、レクサスのブランド力向上のためよりも自身の勉強のためではないか、と第三者的には解釈しています。ヒュンダイはレクサスの後追い的な表現をしておりー暗い空間でアート的表現をみせるー、これはやや首を傾げざるを得ない。そういう状況のなかで今年はブレラ地区にマツダが屋内展示をしました。一見、ディーラー展示とあまり変わりません。確かにインハウスがデザインした自転車やソファが展示されているのが通常ディーラーと違うと言えば違いますが、メルセデスのギャラリーと同じと言えば同じです。

壁にはビデオがあり、デザインチームの仕事ぶりが見えることになっています。現在、マツダのクルマの評価は高く、日本におけるPR戦略も気が利いている印象があります。しかしながら、残念ながら、この会場のビデオから同様のインパクトは受けません。「我々のものづくりへの情熱は深い」と英語の字幕で伝えるってあまりに芸が無さすぎます。表現が陳腐すぎる。

また、ぼくは展示のオープニングに行かなかったのでよく知りませんが、どうもヴォーグとファッション畑のコラボベントを実施したようです。推測で書くのは、二階にのぼるとビデオがあり、そこをみるとオープニングの様子から「何かやったんだな」とは分かります。だが音声はないので字幕をみるしかなく、その字幕を読んでも人の名前が分かる程度で何をやったのか分かりません。そもそも二階にあがる階段にろくに説明はなく、案の定、一階にはそれなりの人がいるのに二階には誰もいませんでした。

ぼくが思ったのは、ミラノのデザインウィークの文脈を読み切れていないのでは?という点です。特にその文脈におけるクルマの位置づけです。あえて言えば、ヨーロッパにおける車産業の位置づけです。これはぼくが25年前にイタリアに来た当初から感じていたことですが、欧州では日本ほどに優秀なエンジニアが車メーカーに集まっていない、車産業が欧州文化のセカンドクラスと見なされている。特にジュネーブのモーターショーに出かけると、この感覚がよくつかめます。一方、プロダクトデザインの世界も微妙な位置にあります。建築家よりは下に見られ続けてきたし、いわんやアートの世界からは視野に入っていないかのようです。したがってアート的なアプローチをすると違和感があるというか、無理が透けてみえてくるのです。そこで開き直りをして、ブランドファッションストリートで上品さなどくそくらえと派手目に登場しているのが、アウディでありシトロエンであると言えます。

マツダのデザインチームは、このようなことをどれほどに踏まえたのだろうとぼくは思ったわけです。そしてデザイナーの熱い思いは日本の文脈ではよく分かるのですが、モノづくりに魂を込めるとは表現しない欧州人は、あの動画の表現をどう読むだろうか。仮にその差異を前提に「一歩踏み込むつもり」であったならば、字幕で出す言葉はもっと練られたものにすべきだったのではないかと思います。一生懸命に「欧州に我々の躍動感をそのまま伝えたい」という姿勢そのものに、マツダともあろうメーカーが存在がそうなの?という風に解釈されてしまう。このあたりのギャップを理解するのに、ルイ・ヴィトンの見せ方を対照させてみましょう。コルソ・ヴェネツィアの格式ある建物を「知り尽くした感」がある展示です。何人かのデザイナーにメーカーの皮革を使ったものをデザインさせている。

 

あのブランドの力をして当然と思わせる。「デザインウィークってこう出るんだよ」という自信が出ています。ぼくが、これをみて思ったのは、「こういうブランド力あるメーカーはデザインウィークに毎年登場する必要はまったくないんだ」ということです。業界を超えて顔出しするのは余裕のない証拠とさえ見られる。ただ、やるとなれば決定版を見せつける・・・。このメリハリの良さが求められる良い事例です。レクサスは毎年出ることがマイナスなのではないか?と思わせるし、マツダはもっと派手目路線にシフトして商品プロモーションよりにしてよいのではなか?と考えさせるのです。逆にデザイナーの勉強であるならば、もっと簡易的なスペースでワークショップをやればいいのに、と思います。それを実現しているのは一例がミニです。

小さな雑貨から街づくりまでをテーマに会場でワークショップをやっています。同時にそうしたワークショップで生まれた結果を展示しています。カジュアルな空間でカジュアルな手法を採用し、ミニが展示されていないのに、ミニのブランドや世界観がとてもよく伝わっています。車業界なのに知的でさえある!トルトーナ地区でぼくが一番印象に残ったスペースでした。気の利いた人たちは、自転車やカーシェアリングをどんどん利用するようになっているトレンドを踏まえながら、ミニはさりげなく存在感を醸し出しているのです。ドレスアップではなくドレスダウンを表現した時に人となりがよくわかりますが、これは企業の実力についても同じように適用できるのです。クルマそのものに位置、ミラノの街、ミラノのデザインウィーク、それぞれのコンテクストの理解なしにデザインウィークに参加するデメリットをよく考えるべきだと痛感します。

Category: ミラノサローネ2015 | Author 安西 洋之  | 
Date:15/4/20

5月からスタートするミラノ万博を前にして、今年のデザインウィークは前哨戦的な色彩が濃いのが特徴でしょう。一番はっきりしているのはトリエンナーレの位置づけです。万博のプレオープンとして「アートと食」をテーマとした展覧会を開催しています。ここ数年間、トリエンナーレはこの期間の場所貸しで年間維持費をとる勢いでスペースを細切れにしてきました。たまに面白い企画もありましたが、全般的にトリエンナーレの名には相応しくないと思われる展示が多かったというのが正直な印象です。

デザインウィークの後も引き続き開催している、「アートと食」の展覧会はアートの力を存分に発揮しています。この展覧会は、これからより深刻化が予測される食糧危機に対して食習慣をどう維持・変化させていくかとの問題意識をズバリと表現しています。問題提起を得意とするアートが活躍する場であって、問題解決に立ち向かうデザインの出番ではないと示唆されています。当然ながらアートだ、デザインだと領域を定めること自身に無理があるといえばそうなのですが、1人の人間が両者をカバーすることは滅多にないところをみると、気持ちとしては分かるが多くのケースで現実的ではないと見るべきです。

ただ、アートはデザインをちっとも見ていないのにデザインがアートに片想いを寄せている状況の歪さを、今年のトリエンナーレは見事に浮彫にしたともいえるのです。すなわち、デザインは今後もっとアートの力を頼るべきではないかと感じます。正確に言うなら、デザイナーはアーティストという別人格を頼るべき、ということです。

これが今年のフオーリサローネの象徴的シーンです。この点については、サンケイビズの連載コラムでも書いたので、参照ください。

サローネの会場では久しぶりにクラシックに足を運びました。郊外に会場が移ってからデザインとサテリテがメインで、モダンやクラシックのエリアからは足が遠のいていました。しかし、一般家具のパビリオンが合計14のうち、クラシックは4。この数字は割合として大きい。その部分を長い間無視するのは現実を見ていない証拠だと思ったのですが、まさしくそうでした。中東から中国にかけての地域のお客が、この分野を確実に動かしています。あるいは5つ星クラスのホテルです。自宅で採用する場合、デザインはブランドメーカーの有名デザイナーの高価な作品をメリハリとして使うことが可能ですが、クラシックは自宅のすべてを統一しないと恰好がつきにくく、お金のかかかり方が違います。このエリアを眺めながら、古典的な欧州のブランドの底力を思い知らされました。

フオーリサローネに戻り、印象的だった作品を挙げるとするとスイスのモジュール家具メーカーUSMのコンセプチュアルな作品群です。その一つに建築家の長谷川豪さんや黒川彰さんの作った土の柱とその周囲を巻いているロープは存在感があります。これは肉体、頭脳、感性のすべてが総動員されており、そのストーリーを知ると知的興奮も覚えます。柱の型枠となるロープの太さは人が力を入れて手で握るにちょうどよい太さだし、長さは街のブロックの基準となる長さ、とかモジュール概念に対する大きな絵を描いています。もともと昨年、フランスの城の庭で行ったワークショップの結果に基づいています。

 

この作品は多くのフオーリサローネの参加者に対しても参考になる点があり、まずフオーリサローネは徹底してコマーシャルにいくか、コンセプチュアルにいくか、この二つの選択肢しかありません。中間に位置する作品はインパクトが出せません。そして後者に向かった時、デザイナーが力を発揮できるのはアーティストを気取ったものではなく、デザイナーとして徹底して頭脳を使い切ったものでないといけません。しかし、時に幸運にもそれがアートピースのように受けることもある。その一つこの柱とロープです。実際、USMのオーナーは、この作品をアートピースとして保管する意向のようです。

2点目は、日本のデザイナーに対して参考になります。日本のデザイナーがミラノのデザインウィークの展示で「陥る罠」は、ミニマリズム的な表現と技術依存の二つです。これらの二つにしか日本のデザイナーの売りはないのか?と思うほどに、安易にこの穴に嵌ります。コアとすべきテーマをすり抜け、つまりはアイテム1に全力を注ぐべきところ、アイテム2以降のディテールへの技術の投入と表現にバカ丁寧になりがちです。が、かといって、この2つを回避しようと意図的に行くことが正解ではないでしょう。表現すべき内容こそがより深く考えられるべきです。土でできた柱は、丁寧な思考を辿りながら身体を使い切って発揮する感性が可視化されたような印象を受けます。

すなわち問題は考えるべきことをちゃんと考えているかどうかによって作品の質が問われます。もちろん考えるべきことをちゃんと考えていても、メッセージの伝え方はそう簡単ではない。単に一生懸命に言葉を尽くせばよいわけではない。その例として、次のエントリーでマツダの展示について取り上げてみましょう。

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ミラノサローネに関する基礎的な把握は、4年ほど前に日経ビジネスオンラインに書いた以下の記事が参考になるでしょう。もちろん、過去、7年間に書いた本ブログのミラノサローネのカテゴリーを読んでいただければ、ぼくなりの「ミラノサローネ考」がお分かりになると思います。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110425/219631/

Category: ミラノサローネ2015 | Author 安西 洋之  | 
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