ミラノサローネ 2009(13)-一人で全体をみる
Date:09/2/27
昨年6月「ぼく自身の歴史を話します」というタイトルで20数回にわたって、イタリアに来る前あたりからのヒストリーを書きました。カーデザインの巨匠であるジュージャロと一緒にイタルデザインを作った宮川秀之さんのもとで修行するのが、ぼくが日本を出る契機でした。
今日、その宮川さんと久しぶりに電話で話しました。その時に友人であった映画監督の故黒澤明氏のことが話題になりました。数年前に出された本、『黒澤明 VS。ハリウッド』のことです。1960年代後半の真珠湾攻撃を扱った映画『トラ・トラ・トラ』で黒澤明が監督をつとめていたところ、途中で解任された謎を探るという内容のようです。宮川さんが言うには、この本は米国と日本の文化論を語るに非常に貴重な内容を含んでいるのにも関わらず、黒澤明の個人的なレベルのエピソードとして読まれていることが多いのは非常に残念だということでした。
「日本の文化も、日本を離れて外国で実際に生活してみないと見えてこないよね」ということも語っていましたが、どれが文化論として摘出できるかどうかは、外国文化のなかで自国文化を相対化した経験をもたないと、その摘出すべき部分が目に飛び込んでこないのかなとは、ぼくも思います。ぼくもネットでの書評を読む限り、水村美苗氏『日本語が滅びるときー英語の世紀の中で』(筑摩書房)を言葉論としてしか読んでいない人が多く、これを文化論として読めば良いのにという感想を言いました。
日常の細かいエピソードを如何に一般性のある話に持ち上げるか?というのが、極めて重要なことだと思います。米国の大統領といえど、40数年の人生をその細かい日常生活のなかで生きてきており、その経験に基づいて世界の動向を揺るがすような重大は判断を日々行っているわけです。最初から帝王学を学んだわけではないのです。元NTTドコモの夏野氏がダボス会議でのリーダー達の発言にショックをうけたことが、下記に書かれています。これは、「一般性への昇華の仕方」に彼我の差があるのではないか、自分ひとりで全体をみて判断するという習慣のあるなしに関わっているのではないか、そういうことをぼくは考えています。
http://it.nikkei.co.jp/business/column/natsuno.aspx?n=MMIT33000012022009&cp=2







