ミラノサローネ 2009(10)-熱く語りかける

昨日の日曜日、ぼくの奥さんの従兄弟夫婦が我が家に来ました。彼らは二人ともクラシックの歌手で、テノールとソプラノです。従兄弟は水船桂太郎といいます。普段は日本で活動しているのですが、スロヴァキアの劇場のオーディションに昨年受かり、今月上旬、舞台に立ってきた帰りでした。水船桂太郎は、音大を卒業してから中学の教師をやっていたのですが、歌い手になることを諦めきれず、10年ほど前に教師を辞め、イタリアのボローニャに留学。確か2年くらい滞在して、日本に戻りました。今はプロです。写真は、水船夫妻です。撮影の時に、水とワインのボトルをどけるのを忘れました。失礼!

実はぼくの奥さんも音大ピアノ科卒なので、こういう食事では、音楽の話で盛り上がります。ホールの残響、イタリア人の音痴ぶり・・・など色々とテーマはあるのですが、水船桂太郎が話していた「何度もイタリア人の先生に注意されるのは、レチタティーヴォでもっとメッセージを伝えるように、ということ。アリアはメロディにのってしまうので、それほどでもないんだけど、レチタティーヴォはイタリア語が母国語じゃないということもあるけど、本当に何度も直されるんだよね」というのは、とてもよく分かる内容です。

レチタティーヴォというのは、オペラのなかのいわば朗読的な部分ですが、ここでの言っていることが観客に伝わらないとどうしようもない。そのパートで苦労するというわけです。それは言葉のハンディがあるにせよ、伝えるコアを力をこめて熱く語りきれない、そういう面をイタリア人の先生が指摘するのです。これはぼくの奥さんもよく言っていることで、ピアニストが舞台の上でピアノの前に座ったときから、そのピアニストのもっている何かを訴えたい気持ちが伝わってくるのは、ヨーロッパの演奏家に多いというのです。音程の取り方は日本人のほうが上手いことが多いけど、そのメッセージ力は、圧倒的にヨーロッパ人が上と評します。

デザインでも同じことが言われます。熱く語れるかどうか・・・なのでしょうか。熱くなるために勉強は不要。熱く伝えたいものがあるかどうか、それに自分が身体中から100%信じれるかどうか、自分の宇宙や世界を構築できるかどうか・・・こういうところなのでしょう。とすると、「ミラノサローネ2009(7)」で紹介した、『日本語が亡びるとき』の以下の一文がひっかかってきます

日本の小説は、西洋の小説とちがい、小説内 で自己完結した小宇宙を構築するのには長けておらず、いわゆる西洋の小説の長さをした作品で傑作と呼ばれるものの数は多くはない。だが、短編はもとより、 この小説のあの部分、あの小説のこの部分、あの随筆、さらにはあの自伝と、当時の日本の<現実>が匂い立つと同時に日本語を通してのみ見える<真実>がち りばめられた文章が、きら星のごとく溢れている。それらの文章は、時を隔てても、私たち日本語を読めるものの心を打つ。

しかも、そういうところに限って、まさに翻訳不可能なのである。

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Category さまざまなデザイン, ミラノサローネ2009 | Author 安西 洋之