ミラノサローネ 2009(6)-日本語が亡びるとき 1

小説家の水村美苗氏『日本語が滅びるときー英語の世紀の中で』(筑摩書房)は、ネットの世界でも大いに話題になりました。シリコンバレーにいる梅田望夫氏の2008年11月7日のブログが口火を切ったようで、小飼弾氏も梅田氏のブログの紹介で、この本を読んだと11月9日に書いています。ぼくも遅まきながら、今週、読了しました。本書はデザインにおける文化距離感を考えるにも参考になるので、複数回にわたって、これを取り上げます。

実際、すでに<叡智を求める人>は、今の日本文学について真剣に語ろうと思わなくなってきている。今の日本文学について真剣に考察しようと思わなくなってきている。だからこそ、今の日本では、ある種の日本文学が「西洋で評価を受けている」などということの無意味を指摘する人さえいない。

ここで書いている「西洋で評価を受けている」本が何を指すか、具体的な名前を挙げずとも、分かるでしょう。そして、これは文学に限らず、アートやスポーツの世界にもあることだと思い浮かべられると思います。

言葉について真剣に考察しなくなるうちに、日本語が西洋語に翻訳されることの困難さえ忘れられてしまったのである。近代に入り、日本語は西洋語からの翻訳が可能な言葉に変化していく必然性があった。日本語で読んでも西洋語の善し悪しがある程度分かるのはそのせいである。

日本は雑種文化とも定義づけられてきましたが、この雑種であるがために、日本文化は輸入文化をローカライズする術に長けてきたといえます。したがって、ヨーロッパのデザインについても、「ある程度」分かるわけです。しかし、それが西洋においては違うというのが以下の部分です。

ところが、西洋語は、そのような変化を遂げる必然性がなかった。西洋語に訳された日本文学を読んでいて、その文学の真の善し悪しがわかることなど、ほとんどありえないのである。わかるのは主にあらすじの妙であり、あらすじの妙は、文学を文学たらしめる要素の一つでしかない。

それは漱石の文章がうまく西洋語に訳されない事実一つでもって、あまさず示されている。実際、西洋語に訳された漱石はたとえ優れた訳でも漱石ではない。日本語を読める外国人のあいだでの漱石の評価は高い。よく日本語を読める人のあいだではほど高い。だが、日本語を読めない外国人のあいだで漱石は全く評価されていない。

以前『ニューヨーカー』の書評で、ジョン・アップダイクが、英語で読んでいる限り、漱石がなぜ日本で偉大な作家だとされているのかさっぱりわからないと書いているのを読んだときの怒りと悲しみ。そして諦念。常に思い出すことの一つである。

拙著『ヨーロッパの目 日本の目』で、東洋文化に関心の高い欧州人は、その文化体系に評価のポイントをおいているので、日本の雑貨や家具デザインを前にして、「とりあえず褒めておこう」という傾向が強い旨を指摘しました。この漱石に対する評価が真っ二つに分かれる現象は、欧州人の日本デザイン評価と非常に近いものがあります。日本人の欧州デザイン評価、欧州人の日本デザイン評価、この二つを比較したとき、前者のほうが「ある程度分かる」率が高いのです。ただ、話はあくまでも「ある程度」です。

<本ブログや拙著『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』に関するコメントやご意見は以下のメールアドレスにお願いします>

european.eyes@gmail.com

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Category さまざまなデザイン, ミラノサローネ2009 | Author 安西 洋之