ミラノサローネ2018 (1) -世界観や考え方の行方をみる

ミラノサローネについて本ブログに書き、今年で11年目です。ここで書いたことを、その後、本の一部に使ったりしてきましたが、思い返してみると、自分の論点で変化してきたこと、変わらないことの両方に気が付きます。変化について言えば、日本企業の「ローカリゼーション観点のなさ=異文化音痴」への指摘が減ってきたことでしょうか。というのも、多くの他の人が同じような点を語るようになってきたので、ぼくは別のところに目を向けたほうがいいな、と思ったのもあります。それと何と言ってもそれなりに言い尽くしたから、というのもありますね。また、膨大な量の情報に触れてあるトレンドを総括するのが時代的にマッチしなくなってきたこともあり、より自分の関心領域での解釈に集中するようになっています(と言いながら、ずいぶんとトレンド的なことに触れていますが 苦笑)。例えば、昨年書いた、「人間中心」の人間とは何か?というのも1つです。

テクノロジー・デザイン・人間という三角形のどこにパースペクティブの的を絞るか、という時に、人間が的になっているのは皆、異論がないのです。電子デバイスのユーザーインターフェースからはじまり、そういう方向にきたわけですが、人間とはユーザーと同一であることが多く、それは十分じゃないな、と。人権や人への尊厳という点もからみ、個人情報の保護を目的としたGDPR(EU一般データ保護)が実施されることも、その趣旨を表層的に捉えている意見も日本のメディアでは散見し、これじゃあルールを作った背後にある世界観が分からないだろう、ということになります。「競争戦略としてのグローバルルール」のなかで藤井敏彦さんが、ドイツやイタリアが個人情報に敏感なのは「ユダヤ人狩り」の過去への反省に基づいていることを指摘しています。

 

 

また、この人間は、クラフツマンシップの文脈でいうと、フランス語のsavoir-faire 、イタリア語のsapere-fare、英語のknow-how をもつ人です。これらを日本語で何と置き換えようか考えている最中ですが、これらの言葉がどのあたりの「人間への見方」を踏まえているのか、との問い自体がテーマになります。「世界観」や「考え方」が分からないと状況を理解したことにならないことがどうしても多いのですね。同時にビジネスの優位性とは、この世界観や考え方の普及度にあるわけで、欧州文化やEUのルールメイキングはその現象の1つなわけです。これをイタリアで言うならば、パスタというモノもさることながら、生物多様性のためのスローフード財団が主導する世界各地の農産物に対する認定(プレシディア)や子どものレッジョ・エミリア教育が例になります。

イタリアのこれら2つ、スローフードとレッジョ・エミリア教育は世界100か国以上に普及していますが、これは決してあるモノの輸出ではありません。この2つに共通するのは、ローカルのコンテクストを重視して、普遍的とされる価値観や考え方をそのなかでどう根付かせるか、の闘いです。お金儲けに長けた機転の利く子になるかどうかはその子の人生ですが、その子がどのようなsavoir-fareがあれば豊かな人生を送れるか。それがレッジョ・エミリア教育の動機になっていて、これが世界各国に広まり、その定着にあたり各国機関はレッジョ・エミリアに助言を求めにくるのですね。スローフード財団も各国にある伝統的製造方法をいかに維持するか、というお手伝いをします。

これらに特徴的なのは、シリコンバレーのエンジニアがつくったデザインシンキングのように、体系化したマニュアルをあえて作らないことです。ローカルのコンテクストを重視するので当然のアプローチなのですが、「いや、いや、そういうことも含めてマニュアル化すべき」と反論する人は、このような議論の場から無言の排除を受ける・・・ということです(実のところ、そのようなものがスローフードなどにまったくないわけでなく、それなりのレベルのものはあります。が、それを外販しません)。つまりはEUのルールメイキングのように記述化を図る体系的な攻め方から、スローフードやレッジョエミリア教育のようなとてもセンシティブなアプローチまでを視野に入れて、古くからある考え方(世界観)の更新や新規のヴィジョンをどのように作りつつあり、それらをどのようにして惹きつけさせるか(力づくで広めるのではなく)にぼくの関心は昔からあるのですが、その関心が更に増している、というのが現在です。よってサローネへの観察も、この点がポイントになります。

 

 

もう一つは、最近、バルト海三国のリトアニアのデザイン関係者と接する機会が増えており、新興国あるいは開発途上国とカテゴライズされる地域でのデザインの役割を考えることが多いです。しかしながら、先進国と違うようでありながら、実は同じ・・・・と思うことと、両者を同じと思うのはオカシイと感じることの間を行き来しています。イタリアのデザイン関係者と彼らを比較してまず感じるのは、自分の文化への自信の持ち方です。それはいかんともしがたい差です。だが、今ある最前線の課題に対して、その自信はどれほどに貢献するだろうか、とみたときに明確な回答がない。単にプロパガンダ的に文化アイデンティティを作り上げても無駄というよりも有害なだけです。イタリアデザインのプロパガンダの弊害も見るにつけ、リトアニアがそのあたりをどう処理していくか、ということに注視しています。

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Category さまざまなデザイン, ミラノサローネ2018, ローカリゼーションマップ | Author 安西 洋之