ミラノサローネ2016(6) 効率と相性の悪いハイコンテクスト文化

今回はちょっとアングルを変えて話します。

イタリアの人が「世界の人はイタリアの食について、あまりに無知である」と欲求不満をもっていると聞くと意外に思われる方もいるでしょう。これほどに世界市場で成功している食もあまりない。「何が不満なの?」と聞きたくもなりますよね。しかし「パルミジャーノが何であるか分かっていない」「地方の料理がバラエイティに富んでいることが知られていない」「あまりに米国化したイタリア食ばかりが世界に広まっている」と言うのです。

イタリアの農産品・食品の年間輸出金額はおよそ3兆5千億円です。日本の昨年の数字が7千億円に近いとすると、5倍はあります。だから日本の食関係者は「イタリア食の成功をモデルとしたい」と語ります。「日本の酒が何たるか、全然知られていない」「和牛はオーストラリアのWAGYUと同じと思われている」「醤油はキッコーマンとウヤマサが全てだと思われている」という不満は、イタリア食ほどに世界で認知が高まれば消えていくだろうとの期待感も漂わせて。

しかしながら世界にこれだけ普及したと傍目には見えるイタリア食の関係者も、「本物が伝わっていない」と不満だらけなのです。ここから気づくことがいくつかあります。1つは、世界であるものが普及するとは、いわばスタンダード化したものの認知度が高くなるということです。別の表現をすれば、ステレオタイプへの寛容度が高まる。これは消費者だけでなく供給者においても、です。

だからこそ逆に、移民第一世代のイタリア食がステレオタイプの形成と定着に(結果的に)尽力し、ローカルで生まれた世代、創作系の新しい料理の担い手、テロワール的なテーマに関心のある人たち、この人たちが「より深い」イタリアの食を紹介しているからこそ、普及におけるレイヤー差により目がいくようになっている、とのストーリーが見えてくるのです。ステレオタイプであると批判を受けるのは、ステレオタイプではないものを知っている人たちが現れているとの反証ですからね。

2つ目、これは仮説ですが、イタリアの食関係者がこれほどに不満を抱えるのはハイコンテクストのタイプだからこそではないか、ということです。「パスタを味わうというのは、ボリュームも含めたことなのに、その重要な要素が入っていないじゃないか!」「テーブルクロスがない?なんて衛生観念が低いんだ」「時間をかけない食事なんて食事じゃない」という類の指摘が数多出てくる。出発の時間が遅れ、ものすごく急いでいるミーティングを前にして高速道路を150キロ以上で走り、その途中のサービスエリアで食事をするときに、「さあ、ワインは飲まなくちゃあ」と言う。

食空間に対する感度があり、食事のコースへのバランスに意見がありワインを選択する。これらを全て視野に入れて、イタリアの食スタイルが成立する。どこの国でも、そういうスタイルはありますが、ハイコンテクスト文化の国はそのスタイルのキープ度が高いというのが、ぼくの見立てです。(因みに、エドガー・T・ホールのリサーチの中では、イタリアはハイコンテクストとローコンテクストの中間ですが、ローコンテクストの北ヨーロッパと比較してハイコンテクストという位置にあります)

3つ目、食と住をトータルにライフスタイルとして「意識的に」おさえているところにイタリアデザインの特徴があり、それが(日本における懐石料理が日常の料理ではないのと対比して)日常生活をベースにしているがゆえに、様式美であるよりもカジュアルな美がより評価の対象になる。したがって、この文脈(あくまでも、この文脈で、ですよ!)において「本物の美」とはどこかの教科書で説明されていることではない、とぼくは思っているのですね。好き嫌いの要素も入り込みやすい。これで、ますます「本物が伝わっていない」欲求不満の背景が浮き彫りになってきますね。主観の強い本物ですから。

で、デザインです。

イタリアデザインはタイプとしてはハイコンテクスト文化であり、それは「人、モノ、スペース」の相互関係を重視しているから、と何度か書いてきました。それが自然との関係をみていたスカンジナビアデザインへの問いだった、とも。ハイコンテクストな傾向とは、「これが分かるには、あれが分からないといけない」との欲求が強いということでもあります。ローコンテクストが「あれが分からなくても、これだけで判断する」という傾向ですから、ハイコンテクストは効率と相いれないことも多い。ただし、一度うまくはまり込めば愛着の度合いが強いというか、そこから離れる動機を見出すのが大変であるわけです。

最後に。ぼくは本物という言葉に疑問をもっており、本物なんかどこにある?という気持ちをもっています。実はイタリアのデザインにある「本物なんかないけど、本物としか言いようがないからとりあえず本物と言っておく」というレベルのデザインが語りかけてくるものは、往々にしてコンテクストへの理解度でこちらを試してくるわけです。それも、ハイコンテクストとしてね。効率が悪く、しつこい。だから、やっかいなのです。このあたりに日本のデザイン研究者がイタリアで博士号を取りたがらない要因があるのなかなぁ・・・と想像したりして 笑。

 

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Category ミラノサローネ2016 | Author 安西 洋之