ミラノ万博(Expo2015)の読み方3 - 石田遼さんの意見

先日、石田遼さんという20代後半の外資系コンサルティングファームに勤める方とミラノ市内のレストランで食事をしました。数年前、まだ彼が院生の頃に会ったことがあるのでずいぶんと久々の再会です。彼は大学時代、都市計画を勉強し、フランスにも留学していました。今の会社でも世界各地の都市問題の解決に文字通り飛び回っている元気な青年です。「基本的に一か月に一度は日本に戻ります」というから、ほぼホテル暮らしです。

石田さんと夕食の時に万博が話題になりました。1-2日見たようですが、ぼくとの話の後に彼は再度万博を訪れ、意見を書いてきてくれました。なかなか骨のある内容です。ぼくのもとだけではもったいないので、彼の許可を得てペーストします。ところどころにぼくのコメントを入れておきます。

今回のexpoはつまるところ、食と人類、というグローバルなテーマをローカルな食文化という切り口からどう料理するのか、というところがお題であったように思います。 ゼロでは自然との関係性、文化、技術、ロジスティクス、環境、廃棄、など多岐にわたる食にまつわるテーマが時代を追って提示されており、今回のテーマ設定は非常に巧みであったと感じられるものでした。(ゼロも展示自体の質はそこまで高くありませんでしたが。) ゼロを見た後でようやく安西さんがなぜオーストリア館とオランダ館を高く評価し、日本館に批判的であったのか理解できました。

このゼロとはパビリオンゼロのことで、ここに今回の万博のコンセプトが表現されています。

日本を含む多くのパビリオンはexpoのお題には応えきれておらず、自国の食と食文化の魅力を伝えるにとどまっていました。 その中で(ほぼ唯一?)オーストリアは環境、オランダは食の作るコミュニティーという普遍的課題にきちんと応えてようとしていたやに思います。(ちなみに、それでも私自身はオーストリア館はサステイナビリティーの観点からconsistencyが取れていないこと、オランダ館は屋台空間がスローフードエリアなどの他の類似の店舗と如何ほど異なるのか差別化しきれていないこと、から両館はそこまで好きにはなりませんでした。) この事実はexpoの難しさを浮き彫りにしているように感じました。

ぼくと夕食を共にしたとき、確か彼はオーストリア館とオランダ館を見ていなかったのだと思います。ぼくはこれらのパビリオンを高く評価していますが、それはコンセプトの作り方と表現の方向があっているからです。それも他のパビリオンと相対的にみています。彼が指摘す点はもっともだと思いますが、彼自身も言うように、そこに万博というシステムの問題が潜んでいるのとの考えには同意見です。

具体的には、 - ある程度知的に食の問題をとらえるためには批評性を伴う展示が必要だが、これが各国のプレゼンテーションの場としてのexpoのフレームにあっていない -食という、本物を味わおうとするとそれなりに時間も手間もかかるものが大人数をさばかなくてはならない万博の制約とマッチしておらず、結果として見本市的つまみぐいになってしまった -さらに枠を広げて素材までさかのぼっても、生産地の空気を感じたり、生の素材を持ってきたりすることは難しく、そのためムービーを駆使する展示が 多発した といったところです。 対比として、美樹品や技術の展示であれば本物を現地にもちこんで大人数が目にすることが可能です。万博の起源はまさにこの形式でした。

万博というシステムをとると、特に今回の食というテーマの場合、それぞれの国の文化にいわば「嘘臭い感じ」がどうしても漂ってしまうところに彼は反応しています。逆にいえば、暗い空間に美しい映像を用意するのは、不可避であるとも考えられないわけではない。この点、ぼくの意見を余談ながら追記すると、映像表現が古臭いかどうかとの問題とは別に、映像を使ったとしても、リアルなインタラクティブな関係がガイドと見学者の間にあるのが望ましく、それがないで映像に依存するのは本末転倒であると思います。ぼくは、オランダにせよオーストリアにせよ、皆、会場で気に入ってスタッフに「責任者と会わせてくれる?」と聞いたら、ディレクターの名刺を気持ちよくすぐもってきてくれたのです。この対応が、これらのパビリオンをさらに素晴らしいと思った理由です。

そう考えると、課題やそれに対する解決策がオブジェクト型(美術品や製品)でなくシステム型(環境や食にまつまる絡み合ったテーマ)になっている中でexpoというフォーマットがそれにそぐわなくなっているのだともいえます。(愛知の展示は行きませんでしたが、同じような課題があったのではないかと推測されます。) たとえば、予算も時間的制約も無視するならば、本物の懐石のようなものを目の前で作って食べてもらい、そもそもどうやってその料理ができたのか、素材はどう作られているのか、食器はどう作っているのか、その料理を食べることには文化的にどのような意味があるのか、現在どのような課題に直面しているのか(たとえば温暖化によって原料がとれなくなっている、高齢化で跡取りがなくなっている、云々)などを食べながら説明して理解してもらうことなどはひとつの解ではないかとおみます。(イタリアやフランスはともかく、ほかの食的マイナー国でこのような展示があれば少なくとも私はもっと楽しめたように思います。)

ここのところにきて、一つのことに気が付きました。石田さんは、すべてを万博会場内に求めている、と。実は、ミラノ万博では、市内のあちらこちらで政府と関係あるなにし関わらず、この指摘する部分を補完するイベントがさまざまに実施されています。EXPO in Cittaです。サローネの時のフオーリに相当します。そういう全体的な姿が、ミラノに一時的に訪問した人たちの目には見れるような情報活動が不足しているのですね。

もう少し現実的に考えても、たとえば日本館であれば四季で区切って、日本が季節ごとに食への向かい方をどう変えているのか、といったことを食べ方、メニュー、素材、料理法、保存法、食器などの観点から見せて気象と食というよりグローバルなテーマにつなぐ、といったことはできたのではないでしょうか。(四季の要素は最後のfuture restaurantで少し出てきましたが、少なくとも日本館としてはもっと押してもよいテーマだったのではないかと思います。) 今後のexpoについてですが今後もexpoが文化的に意味を持ち続けるためには、一度根本的にフォーマットを変えたものを行う必要がありそうです。上に述べたように現状のオブジェクト型をベースにしたフォーマットではシステム型のテーマに応えられないからです。たとえば、そもそも会場という概念をなくしてしまい、会期中1週間ごとに”Japan week”のような形で都市のいたるところで日本にまつわる展示やイベントを行う、同じく会場はなくしてしまいラジオやテレビ番組のような形でバーチャルに各国のプログラムを提供する、などなど。 なにぶん時間がなかったので一面的な感想ですが、いろいろ考えるきっかけを作っていただきありがとうございました。

四季については、未来のレストランだけでなく、入口から2つ目の水田風景のスペースでも表現しています。たぶん、石田さんは、それに気づかなかったのでしょう。気づかなったということは、多くのパビリオンを歩いて疲れている人間にとって、パビリオンのディスプレイや演出をそこまで丁寧に見るのはしんどいということになるのでしょう。これから、一つのパビリオンに多くのエレメントを入れ過ぎないという教訓が出てきます。多くの企画者は、「これも考えた。あれも考えた」とよく言います。しかし、見学者は企画書の上で判断するのではなく、疲れておなかもすいているところで気もそぞろに見たりするのです。

また、日本もサテリテ的な存在で会場の内と外でジャパンウィークを開催しますが、それだけでなく、前述したようにいろいろな団体が自主的にプログラムを進めています。しかし、それらの間での連携はあまりないし、日本関連のイベントを総括的にみれるサイトもカレンダーもありません。たぶん、誰も把握していないでしょう。これが非常にもったいないところです。万博で興味をもったところをさらに掘り下げてみたいという人への受け皿が見えるカタチで用意されていないのですね。これは日本だけの問題ではないです。

ミラノに2-3日しか滞在しない人たちへの全体の見せ方は大きなテーマです。

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Category ミラノ万博(Expo2015)の読み方 | Author 安西 洋之