吉原真里『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?-人種・ジェンダー・文化資本』を読む

クラシック音楽の演奏家を他のアーティストー画家や小説家ーと同じだと思うと誤解する。他の分野のアーティストといわず、作曲家や指揮者とも同じに見てはいけない。クラシック音楽の演奏家はアスリートと思うと納得のいく。なんでこんなに社会的な事象に対してナイーブな意見をもつのか、と疑問に思うこともあるが、文化の素養のある教養人だと思うから疑問に思う。別にアスリートを悪く言っているのではなく、演奏家の役割が違うことを強調したいがためにこう書いている。ベートヴェンは作曲家であって髪を振りみだして演奏するピアニストではない(少なくても後の世界の評価では)。

クラシック音楽の演奏の中心にあるのは、演奏家の感情や思想や自我の表現といったことよりも、まず作曲家の音楽的意図の実現なのである。

3ー4歳の頃から練習をはじめ、「神童デビュー」を夢見るなら毎日8時間も10時間も嫌になるほど反復運動を続ける。身体の一部を昔の人が作った曲を弾くために酷使する。だから演奏家に曲の歴史的背景の説明を求め、気の利いた答えが返ってこなくてもガッカリしてはいけない。演奏家が知っていればよいにこしたことはないが、知らなくてもすむことだ。したがってスポーツの世界で若い短期間の活躍で終わったがためにビジネスの世界に適合しづらいとの困難があるように、演奏家も同じ局面にぶつかる。

それにしても、だ。小さい時からレッスン代も含めて多額の投資をするわりにリターンの成功率は驚くほど低い。ソロのヴァイオリニストやピアニストとして世界のトップに立っても、F1やサッカーの世界で活躍するトッププレイヤーほどには稼げない。有名なオーケストラのコンマスや団員になるのも非常に少ない席を競いあうエリートなわけだが、ビジネスの世界と比較してみれば「わりに合わない」。しかも、クラシック音楽の演奏者は社会的にマイナーな存在である。それにも拘わらずプライドは高い。私たちは世界に普遍的な価値を実現する担い手である、との意識がある。

実にややこしい。えらい暗い話だ。それもヨーロッパで生まれた「普遍の顔をした地域主義」の音楽を扱うわけだから一筋縄ではいかない。次のような構図は全体を把握するに分かりやすい。

20世紀初頭のユダヤ系移民は多くの職業から閉めだされていたため、音楽は彼らがアメリカ社会で上昇しメインストリーム文化に同化するための数少ない道だった。それと同様に、言語能力や社会資本が限られているアジア系の移民にとっては、音楽はアメリカ社会に同化して受けいられるための道具となる、というのである。西洋高尚文化のひとつであるクラシック音楽の分野で成功するということは、西洋文化を信奉しマスターしたということの証明となる、と考えられるために、とりわけ有効に機能する。

キリスト教信者になると欧州でより生活しやすい、あるいはカトリックという知恵の集積をもっているとイタリアで生活しやすい、というのと似た話だ。そしてプロのアジア人の演奏家はいくばくかの理論武装をして生きている。本書ではその論理の特徴をこう指摘する。

第一には、特定の文化集団が他と比べてクラシック音楽をより正当に「所有」しているとはいえない、という論。第二に、今日のグローバルな情報社会においては、どんな音楽家も他の音楽文化を理解することが可能だ、という論。第三に、有能で才能のある音楽家は、自国で起源をもたないものを含め、あらゆる音楽的アイデアを理解し表現する能力をもっている、という論。そして、最後に、音楽的理解というものを地理的・文化的に制約されたものと考えるのは、偏狭であるだけでなく人種差別的な見方である、という論。

日本人のサッカープレイヤーが欧州のチームで、野球選手が米国大リーグで、体格やセンスの違いをどう克服するかを考えるより大げさな論理を展開しないといけないわけだ。本人たちがこういう発言をするから、演奏家=アスリートの図式を外部から見えにくくしている。なにせ演奏家は経済的価値の創造者ではなく文化創造者にスタンスを置いているから、市場の目は攪乱させないといけない。いや、もちろん意図的に攪乱させるのではなく、結果的にそういう風なカタチになっているといったほうが正しい。

本書の中には多数のアジア人(日本、韓国、中国、台湾の出身者かそれらの二世以降の米国人ー特にピアニストと弦楽器奏者)演奏者へのインタビュー記録があるが、「音楽は世界の普遍的言語」と語る人がだんだんと視野の狭い人に見えてくる(あくまでもぼくの印象だ)。一方で民族や国をアイデンティティのコアにおいて自国文化の曲に拘る演奏者はややエキセントリックにみえてくる(これもぼくの印象だ)。そういうなかでオーボエ奏者で音楽療法士の加藤香のフレーズにピンとぼくの頭が反応する。

たとえば・・・《Swing Low, Sweet Chariot》という歌があります。黒人霊歌で、天国や死についての歌です。でも、曲の感じからすると、私の日本的な感性からすると・・・へ長調なので明るい感じがするし、あまり暗く聞こえないんです。日本人だったら、誰かが死んだら、もっと暗い短調の曲を選ぶと思うんです。だから、患者さんがこの曲を歌いながら泣いているのを見ると、そういう音楽的感性を自分自身は理解したり共感したりするのが難しいと感じます。日本の音楽では、《さくら》だって短調ですし、たいていの子守歌も短調ですから・・・。

カトリック教会の讃美歌だって短調ではない。こういう差異をみないことにして「普遍」というのはやはり不自然だ。つまり逆にいうと「音楽は普遍」でなければいけないロジックを携えていないと自らの立場を確保ができないケースが多い、ということ自身に「仕方のないこと」としての悲劇が隠されている。

本書を読んでいて一つ欲求不満に陥るのは、クラシック音楽をメインテーマとしながらヨーロッパにおけるクラシック音楽をどう考えておくべきかの前提を、アメリカにおけるクラシック音楽を語る前に記していない点だ。各章の各所でヨーロッパにおけるクラシック音楽が演奏者の言葉で語られるのだが、著者自身の言葉が抜けている。そこでそうした各所で「軋み音」が聞こえてくる。あるいは「歪んだ画像」が見えてくる。多分、著者自身の中では決着のついている問題なのだろうから、どう解決したかを「はじめに」か「おわりに」に説明しておいて欲しかったと思う。あるいはオリジナルの英文版には書いてあるのかもしれない。

しかし、それを小さな問題に見せるほどに、この本が取り上げたテーマと多数のアングルからの突込みは凄まじい。本書は書店の音楽大学入試案内の書棚に必ず置かれるべき本だ。きっと大学側が買い占めて、高校生には読ませない禁書扱いにするだろうが・・・それほど、この本はこれから音楽の道に進もうと考える若い人にとって刺激が強い。または薬効が強いというのが適切な表現になるのだろうか。

 

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Category 本を読む | Author 安西 洋之