吉原真里『ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール 市民が育む芸術イヴェント』を読む

新興国のデザイナーの作品をみているとインターナショナルな様式の先端を追っていることを誇示するタイプがあります。それと反対にローカルアイデンティティを強調するものもあります。これは実は新興国だけでなく先進国にもある現象ですが、新興国においてその両者のギャップが大きいため目立ちやすいといえます。そこには経済のグローバリゼーションと文化的なグローバリゼーションとその反動としてのローカリゼーションが絡み合っています。

こうした状況を背景に、どの分野でもコンペやコンクールという形式の競争が増えています。今や大きな公共建築であれば国際コンペが実施されるのは普通だし、クルマのデザインも世界何拠点かの社内コンペで決まってくるし、各国機関のデザイン賞も国際スタンダードに沿うことで権威をあげています。クラシック音楽のコンクールが沢山あるのは、開催地の地域振興というメリットもあるでしょうが、市場のグローバル化に説得力をもたせる意味もあるのではないかと想像します。かつてなら親や先生の人脈で仕事をとれたかもしれないヨーロッパの若手ピアニストも、世界各地ー特にアジア圏ーのライバルと透明度が高いコンクールで名をあげる必要に迫られているわけです。ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールの審査員であるヨヘヴェド・カプリンスキーはこう指摘します。

若い音楽家が演奏の場を手に入れる方法としては、神童として子供のときに注目を浴びるか、指揮者や主催者となにかのつてで知り合って演奏の機会をもらうか、コンクールで入賞するしか方法がないのが現実です。

したがってコンクールの目的は一般の人が優勝者を賛美する観点とは違うところにあります。

コンクールというのは、XさんよりもYさんのほうがよい音楽家であると評価したり、または、優勝者がわれわれの時代の最大の芸術家であると判断したりといった目的のためにあるのではありません。単に、その時点でプロの演奏活動を始める準備がもっともできている人を見つける、それが目的です。

このコンクールの場合、優勝者は3年間、財団に演奏会のマネージメントをしてもらえるので至極当然のセリフです。しかし、一般の音楽ファンはこういう目でみないでしょう。殊に、日本の一般の人たちにその傾向が強く、音楽から料理に至るまでコンクールやコンペの位置づけを確認しないままに入賞者を持ち上げすぎるきらいがあります。コンクールに出場しなくてもやっていける道があることを知らないためでしょうか。あるいはオリンピックの陸上競技のように唯一の記録で評価されると同じ世界とどうしても錯覚してしまうのでしょうか。他方で、「あのコンクールは黒い」とわけもわからず酷評して優勝者の力量をまっとうに評価しようとしない。また、クライバーンの優勝者が必ずしもその後着実な実績をあげているわけでもないことを例に、コンクール否定論者になるわけです。このあたりは、ぼくがいつも違和感を抱くところです。

審査員のリチャード・ダイナーの言葉もなかなか面白い。彼はこう語ってもコンクール否定論者にならないのです。

『夜のガスパール』とかリストのソナタとか『ペトルーシュカ』ばっかりの演目のリサイタルを本当に聴きに行きたいと思う人がどれだけいると思うかい?コンクールではそういうひとにぎりの難易度の高い曲ばかりに注意が集中してしまうけど、実際にそんな曲ばかり弾いて演奏活動するピアニストっていうのはそんなにいない。そういう意味では、コンクールは、演奏されるレパートリーをつまらないカタチに歪めてしまっていると思う。

現実的なことをいえば、オーケストラを維持していくのには費用がかかるけど、室内楽は経済的にもっとやりやすい。シューマンのピアノ五重奏を弾いて活動するピアニストのほうが、ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番を弾いて活動するピアニストよりずっと多いんだ。ラフマニノフの協奏曲の演奏の機会っていうのは、独特の解釈をもっているベテランのピアニストか、ギャラの安い若造にいくようになっている。そうすると、若造の年齢を過ぎて中年ピアニストになったときには、誰もラフマニノフ三番を弾いてくれなんて頼んでくれなくなる。

クラシック音楽の市場がどういう消費者によって成立しているかが分かる話です。多くのコンサートホールや劇場は定番で客を確保し、現代の曲で挑戦的なプログラムを組むと客が寄り付かない。この苦境をどう打開してくれる新人を見つけるかがクラシック音楽ビジネスの課題なのだろうことが窺えます。演奏者のマネージャーは、このような文脈をどう読むかが問われるとして、演奏者本人が考えるべきことは、指揮者のコンロンの以下の言葉に集約されるでしょう。

芸術において、一番などというものはない。仲間と競争をしようなどと思うのは、才能のとんでもない浪費である。本当の競争は、自分がもっている精神的、知的、情感的な要素を引き出すための、自分自身との闘いであるべきだ。真の競争はひとつしかない。それは自分のもっている可能性を生きているうちにぞんぶんに引き出すための、時間との競争なのだ。

意地悪くいえば、こういう考え方自身がクラシック音楽市場を維持するに「必要」な要素であることも否定しがたいと思います。しかし、それを人の生きる道の真ん中に備え続ける意思は尊重しないといけないと思う態度も同時に大切です。

 

 

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Category 本を読む | Author 安西 洋之