「日本野」制作委員会『日本野~必要だけど足りない、これからの日本の緑』を読む

20代、ぼくは横浜でよく酒を飲み遊んでいました。ちょうどそのころ、桜木町にあった三菱重工の造船所が撤退し新たな都市開発が行われることが仲間の間で「噂」として広がりました。商業施設ができるとか、美術館ができるとか・・・ナニ?という感じでした。NOと言うわけじゃないけど、なじみのある風景を短い時間で急変させることに違和感を持ちました。そこで遊び仲間と「とりあえず、跡地を大きな空地にしようよ。そして次の世代にあの土地の利用を考えてもらおう」と言い始め、ああだこうだ、と議論が始まりました。オープンカフェなどというものがとんと普及していなかった時代、ぼくたちは街の中で質の高い空間を味わう経験がアピールには必要だと思い、日本銀行の前の大通りの並木の下で日曜日に集まることにしました。

道を正々堂々と使うわけです。警察に許可をお願いすることもなく。もちろん大通りのど真ん中でやるわけじゃないですが、ぼくのビッグホーン4WDや友人のBMWなどを駐車させ、そのクルマのまわりに椅子を並べ昼食をとったのです。80年代前半、そういう風景がパリにはあっても日本の都市にはない(と、思い込んでいた)。それは街の扱い方でもっと工夫する余地があるのではないか、という提案でした。通りかかりの人たちとも軽くコミュニケーションをとり、「街の軽い空気」を自ら演じることが大切だと思ったのです。

その後、仲間は増え山手のイギリス館で、横浜市長や都市計画局の人たちとのミーティングをもったりして、なんとかして「空地構想」を実現しようと動いたのですが、「みなとみらい」という既定路線は、当然のことながらビクともしませんでした。あ~あ~と開発が進むのを横目に見ながら、結局、ぼくは横浜を離れてイタリアにきました。だから、イタリアに来てから十年以上はほとんど横浜に足を運びませんでした。余談ながら、欧州風を吹かすバーのうさん臭さにも嫌気がさして、そういう店にも一切顔を出すのをやめました。

まあ、ぼくにとって「空地構想」は横浜のもつ「ニセ西洋」からの脱皮でもあったんだな、とも思います。ただ、一部でもいいから都市の空白を残しておきたいという欲求は特に日本の美学でもなく、同世代のイタリア人の友人たちが空地や路上でサッカーボールを蹴った日々を風景としても残しておいて欲しかったと語るのを耳にするにつけ、都市構造やランドスケープに本当のところ、どこまで文化性が問われるのかは、常に眉に唾つけて聴いておかないといけないと感じます。

いったい風景や景色というものは、そんなに変わるものなのだろうか。何年も何十年も、ばあいによっては百年の月日が必要にも思われよう。

が、東西の歴史を振り返れば分かるのだが、実はわれわれは景色を変えることしかやってこなかったのである。レバノン杉はすぐになくなったし、パリは変貌し、福岡のシーサイドは一変した。それが文明であり、文化というものだ。

文化や文明とは、その景色の変え方に本質がある。問題はその変え方だ。都市計画や環境計画や景観学や庭園学では、こうした変え方を「造景」「設景」「修景」などという。まとめて環境デザインともランドスケープデザインともいわれる。

こう松岡正剛は書いています。この話って、盛んにローカリゼーションマップで言っている、プラットフォームは同じでも文化が違うとアプリや使い方、あるいは売り方が違うという話と大分似たところにいます。空地で野球をやるかサッカーをやるかは違ったけど、空地が似たようなガラスと鉄骨のビルに変わるのは同じかもしれません。

過去形と現在形の狭間や過去形の遺し方の多様性にこそ注目すべきなのでしょう。

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Category 本を読む | Author 安西 洋之