デザイン観がそれぞれの文化圏で違う

どうも12月に入ると春の到来を感じ始めるという気の早い性格をもっているようです、ぼくは。10月末に夏時間が終わると、「ああ、これから暗い日々だ」ときて11月を過ごすわけですが、一か月もたつと、1月のたまにある春を感じさせる日を想像し「冬来たりなば春遠からじ」の現実感を思うのです。きわめて単純で楽観的な人間なんですね、幸か不幸か。ちょっと、そんなところで、だらだらと最近思っていることをメモしておきます。

ファッション関係の人と話していて、イタリアのハイファッションの世界にどうZARAやH&Mが入ってきたかということを教えてもらいました。いわゆるファッションリーダー的な人達が、この6-7年の間にずいぶんと変わってきた、といいます。「そんなZARAのTシャツ着てるの?」と馬鹿にしていた人が、ブラウスに手を出し始め、そのうちにバッグも買い始めます。そして最後に「靴も悪くない」と言う。かといって全てをファーストファッションで身体を覆うのではなく、シーズン限りのトレンディアイテムを上手く取り入れるわけですね。カシミアものみたいなものは長持ちするから、それなりの値段を出して買うとか。もちろんブランド品も買いますが、必ずバーゲンを待ちます。

ネクタイをしてスーツを着ている人は金融関係者か弁護士か?(←やや大げさですが)というくらいにファッションのカジュアル化が進行していますが、そのカジュアル化、あるいはドレスダウン化とファーストファッションの浸透が無縁ではないでしょう。それは時代が「怠惰への道」を選んでいるという見方もあり、確かに否定しがたいとも思うのですが、硬直化した社会の多くのコンガラガッタ糸を解いていくには「ドレスダウン」というフェーズの通過がどうしても必要なのではないでしょうか。

この日曜日にアップしたサンケイBIZのコラムで日産自動車とメルセデスベンツの動画の使い方について書きました。日本のメーカーはメルセデスのような統一した顔をもつのではなく、「あるがまま」の混沌を自らの企業文化アイデンティティと考えています。「語りベタ」の日本企業は混沌を混沌として伝えるに、動画の量で発信していくしかないのではないか? それを実践しているのが日産ではないのか?と見立ててみました。言ってみればわざわざ市場に分かりにくいブランド発信をしているのだから、それを補う努力が別のところで要望されてしかるべき、ということです。

但し、ここで言っておきたいことは(コラムには書きませんでしたが)、ぼくはメルセデス的な表現様式の無理も感じています。ハイカルチャーという存在がエリート社会の崩壊とともに希薄化したように、ヨーロッパの伝統様式の希薄化がポジティブな意味で必要とされているように思います。それが逆説的に伝統様式のエッセンスを維持する。日本で公開されているメルセデスのアニメ的動画は、クラシックなメルセデスファンは眉をひそめるかもしれませんが、今のメルセデス購買層の感覚と思ったより乖離していないのではないかという感をもちます。それはヨーロッパにおいても、そうではないか、と。前述したように、ファーストファッションが社会的・経済的なアッパー層に普及している現状において、「洗練されたアバンギャルド」こそが先端的である、というわけです。

LVの村上隆や草間彌生のコラボは、今述べたような文脈の上流に入ってくるのだと思います。バリバリに活躍しているヨーロッパ企業のCEOのデスクの後ろにルパン三世のドローイングがかけられているのが「現代の風景」です。シャガールでもカンディンスキーもないのです。正確にいえば、アバンギャルドは洗練されればアバンギャルドでなくなりますが、いわば「ドレスダウン」と近似のところにあるかもしれません。

次回のサンケイBIZのコラムに書いたのですが、デザイン観は世界でそれぞれ違います。色やカタチへの感覚だけでなく、デザインへの考え方そのものが違います。このあたりの理解が、ここで長々と書いたようなことをサポートするのではないか、と考えています。

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Category ローカリゼーションマップ | Author 安西 洋之