『ヨーロッパの目 日本の目』-6
Date:08/11/27
先週、フランスにクルマで仲間と出かけた帰り、フランスのチーズとワインを買っていこうということになりました。イタリアのワインやチーズも美味しいですが、やはりフランスのそれらも大変魅力です。しかし、ミラノといえども、フランスのワインやチーズが豊富な種類、入手できるとは言いがたいのです。ミラノにフランス料理のレストランが殆どない、その事実をもってもイタリアにおけるフランス料理の位置が良く分かろうというものです。あるいは、イタリア人の保守性が想像つきます。
ご存知のように、フランスでイタリア料理のレストランを見つけることは全く問題ありません。素材を生かすその軽さもあるし、パスタやピッツァという、それだけで世界を構成できる要素があるのも、イタリア料理が海外で普及した大きな理由ではないかと考えます。文化は必ずしも全体力ではなく、部分力で浸透するという一例になるかもしれません。
さて、先週の買い物ですが、高速道路に一度乗ってしまうと、なかなかスーパーを見つけるのも難しく、つまり見つけたときは、既に行き過ぎているということを繰り返しながら、モンブランの30分手前くらいでやっと事前にスーパーの表示を見つけました。小さな街ながら、それなりの大きさのカルフールがあり、チーズはかなり大量に買い込みました。イタリア製と比較しても、とても種類が多いと思います。
この種類の多いことに、愛国心の強い知人のイタリア人は「フランスのチーズは、素材が同じで色を変えたりして沢山のバリエーションを作っているだけだ」と語ります。この意見をぼくは残念ながらまともには聞かないのですが、一つだけ言えるのは、素材が同じでバリエーションを増やすのも一つの文化のあり方です。「平安時代の和歌は素材が限定されており、例えば歌にとりあげられた植物でその時代の植物の全体図は描けない。表現のバリエーションがあったのだ」ということを本で読んだことがあります。月に対する表現は多くても、星へのそれは少ないとか。
ことは、どうしてその素材にバリエーションが生じるか? それを考えることにエネルギーを費やすのがいいのではと思います。







