文化は変わるもの、変えるもの

文化は先天的に与えられたもの、という考えが強いと文化は固定的という見方をします。その延長線上にある一つの典型が「農耕文化は狩猟文化と違う」「一神教と多神教の世界は相いれない」「カトリックによりユニバーサルという概念を広めたヨーロッパには日本は勝てない」という話への必要以上の興味です。血液型性格判断もあながちこの系列ではないかと夢想しているのですが、こういう漠然とした文化論の落し穴は、現状への諦念を導きやすいことです。「どうせ・・・」という言葉が続くわけです。それも自分の文化、他人の文化、その両方を不変な対象としてみやすく、「あの親に生まれた子供なんだから・・・」という嘆きと似てなくもない・・・。

「それは文化なんだからと、そこで議論をストップさせるのではなく、その文化の中身を解析して前に進むべき」と語るのが、今日のローカリゼーションマップ勉強会の講師、『競争戦略としてのグローバルルール』の著者、藤井敏彦さんです。藤井さんは「ルールを与件のものとして考えるな!」と強調されていますが、これをぼくなりに翻訳すると「文化を与件のものとして考えるな!」ということになります。北欧の家屋の天井と南欧のそれで伝統的に高さが違うのは、室温の維持のためとされるなど気候条件がその要因でした。北欧が低く南欧が高かったのです。しかし、その南欧の天井も建築コストの面から低くなりつつあります。

これを文化の変化というでしょうか?気候にあった空間よりコストが優先されるようになったという点で文化に変化があったというべきでしょう。だが世界的温暖化現象があるにせよ、北欧と南欧には厳然とした気温差があります。こうした気候風土の特徴によってできている文化層はわりと維持されやすいです。地震国であるがゆえに日本の建物の耐震構造に強みがあるのは、この後も他国との比較では有利な位置を築く可能性が高いでしょうー不幸あるいは不運なことながら、というべきでしょうか。

それでは、その上の文化層である宗教・民俗はどうでしょうか。どの宗教も原理主義的な主張をする派があるにせよ、根強い文化を作っているようでいて案外もろく、既に日常の底に隠れきったと思われているのに突如顔を出す傾向にあります。ここは一方的にアンタッチャブルとするのではなく、ロジックの運用次第では変わる可能性があるとして見ておくとよいと思います。特に、この上にある現代のライフスタイルが、この層をスポンジのように変えていきます。水を含んだとき、乾いたときで、硬度は違うでしょうが。イタリアで宗教的理由からタブー色とされていた紫色が受け入れられるようになった変化は、その一例です。

これらの層と比べると、文化のライフスタイル層はより柔軟であると言ってよいです。欧州のユーザーはタッチパネルを嫌うから統合ボタンのカーナビを使うと6-7年前に「文化論」として言われたのが、iPhone の普及で「根拠のない理屈」であったのが2-3年後に証明されました。ただ、こうした先端商品の文化論があまり信用ならない反面、洗濯機のようにユーザー層が広く、使い慣れた年数が長く、機構上も合理性がある場合は「文化的挑戦」を避けた方が無難であるというケースがあります。

以上からみるように、文化をまったく無視してもよい存在と言うのは無謀である一方、過剰に大きくみるのも意味のないことです。今日の勉強会のルールに話しを戻すなら、ルールはこのような可変的な状況の産物でありながら、しかし無法地帯のごとくに誰もが簡単に占拠できる地でもない。そこは、「命」や「人権」や「社会的持続性」といった社会の多くの人たちが問題なく首肯するー逆にいえば簡単にNOといえないー価値を看板に掲げられるかどうかに設定の根拠があります。

「聖地は所与の地ではない」・・・・と考えても良いでしょう。

 

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Category イノベーティブ思考, ローカリゼーションマップ | Author 安西 洋之