田坂広志『官邸から見た原発事故の真実 これから始まる真の危機』を読む

チェルノブイリの事故の影響は、ヨーロッパのまだ身近なところにあったんだと痛感する経験が最近ありました。ぼくは今、新素材のビジネスに関わっているのですが、ある箇所に使用される材料について話し合っていたときのことです。木材コストに話が及んだとき、某国の事例で「実はね、木材は太刀打ちできないんだよ。チェルノブイリ周辺の木材が価格破壊的なレベルで出回っていて、どんな材料でも戦うのが無理なんだ」と低い声で囁かれたのです。やはり、そういうことなのかと状況を察知したわけですが、こうなると日本のことに思いを馳せないわけにいかなくなります。

昨年、原発事故が起きてから一つのことを考えています。「今とここに生きる」のが日本の美学の伝統的な要素であり、それを肯定し続けるのが良いのだろうか?ということです。加藤周一の『日本文化における時間と空間』の一節を引用しましょう。

全体に対して部分を重視する傾向である。時間における「今」の強調は、時間の全体に対して の部分の自律性(自己完結性)の強調と考えることもできる。したがって空間における「ここ」の重視、さらにはここ=限られた空間を構造化するのに全体の型 よりも部分の質に関心を集中する態度と呼応するだろう。「全体から部分へ」ではなく、「部分から全体へ」という思考過程の方向性は、「今=ここ」の文化の 基本的な特徴である。

こうした考え方が環境問題に対するバックキャスト的なアプローチー最悪の環境を想定して対策を講じるーを拒否しがちである説明に使われやすいのですが、一方で自然の流れに寄り添う大切さ、あるいは「起こったら仕方がない。水に流せばいい」という思い切りの良さを評価しやすいのも確かです。そして、自然と対峙する西洋合理主義がどうみても反省すべきまっただ中にいるなかで、自然と馴染むアプローチがエコロジーの面から注目されやすいーだが、包括的な接触でありながら部分に配慮しやすいー。しかし、いやおうなしに混沌とした世界に生きゆくぼくたちに、「今とここに生きる」限界を突きつけたのが原発事故ではなかったのかとの思いがどうしても消えません。田坂はこう語ります。

正確に言えば、「技術的」に、どれほど安全な対策を施していても、「人的、組織的、制度的、文化的」な要因から、技術者が「想定」していなかったことが起こるという落し穴です。(中略)

すなわち、言葉を正確に使うならば、安全設計において技術者が行っているのは、「起こり得る全ての事態を想定している」のではなく、「想定し得る全ての事態を想定している」に過ぎないのです。従って、その技術者、もしくは技術者集団の「想像力」を超えた事態は、「想像」もされなければ、「想定」もされないのです。

自然に対峙して全てを理解のもとにおこうとは思わない思考ー「全体」より「部分」へ注視ーが、全体の「想定」の範囲をどうしても狭くし、その境界線を曖昧なままにしやすい。それがゆえに、限界線での対策が甘くなりやすい。必ずしも田坂は、そう明言しているのではないのですが、彼の言葉にある「文化的要因」に当然含まれてしかるべき項目であろうと考えます。生活スタイルや美的基準でいかほどに自然に添う姿が良いと言え、バックキャスト的なアプローチが必要ーまたは優位ーな場合においては全体把握への立場をぐらつかせてはいけないと考えます。ただ、「文化的要因」であるため、そうしようと思ってできるものでもありません。

このテーマが抜き差しならぬもので、それこそこれらの状況すべてを含んだ「全体」をどう掴むかが、真正面から問われている。そのように考えます。すなわち、この事故の直接当事者だけではなく、日本人と自ら名乗るほとんど全ての人たちが自分の感性からロジック様式のあり方を問われているのです。他人事ではなく自分事であり、しかし自己責任という言い方での始末のつけ方ではない、新しい扉の選び方と押し方ー引き方ーを決めないといけないという認識が必要なのだと考えています。

いわば、日本人の文化アイデンティティがテーマになっているとの自覚をどれほどにもつか?です。

このエントリをはてなブックマークに追加このエントリをdel.icio.usに追加このエントリをLivedoor Clipに追加このエントリをYahoo!ブックマークに追加このエントリをFC2ブックマークに追加このエントリをNifty Clipに追加このエントリをPOOKMARK. Airlinesに追加このエントリをBuzzurl(バザール)に追加このエントリをChoixに追加このエントリをnewsingに追加

Category さまざまなデザイン | Author 安西 洋之