伊豫谷士翁『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』を読む

昨今、特に、ものごとは全体像を掴まないとだめだと言われるのは、専門分化が進み過ぎた弊害だけでなく、現象の背後にある文脈の絡み合いが尋常ならざるほどであるからです。「エコノミストだけに任すには経済は重要すぎ」「デザイナーだけに任すにデザインは大切すぎ」なのは、そういうわけです。しかも、世界の富の7割程度は三桁の数のグローバル企業が叩きだしているのですから、決定権をもつポジションにある人間の全体把握力の重要性はいやが上でも増さざるをえないのです。

また、そういうポジションにいなくても、そういうポジションの能力に全幅の信頼を寄せれるわけなんかないから、書店に出かけると、見えぬ目にせっつかれるのです。「君、全体のこと、わかってる?」と。勉強しなくちゃあどうしようもないというプレッシャーに晒され、その自分に疲れると、ふっと新聞からもフェイスブックからも遠のいてみたいとの欲望に駆られます。

しかし、グローバリゼーションとはシティやマンハッタンのビジネスの専有物ではなく、その言葉のとおり、地球上の誰もが逃れることができない現象です。人の助けをないと生活していけない老人の横に移民の女性が付き添う。これを可能にしているのも、この現象のワンシーンなのです。

明らかに、人はどこで生まれたかによって、価値が決められてきたのです。国境を越える人の移動はそれに対する抵抗でもありました。しかしいまだに、国境は人の価値を決定し続けています。

エクアドルの女性がイタリア人の老人の面倒をみることがあっても、その逆はほとんどない。人そののものに上下はなくても、パスポートの経済的価値の差異は歴然とあるのです。それは反グローバリゼーションとしてのナショナリズムの勝敗の結果ではなく、国という制度がグローバリゼーションをオーソライズしてきたことによって進行している「生活の風景」です。そして、エクアドル人の女性はイタリア人の老人よりも最新のLGのスマートフォンをもち、老人の世話の合間を縫って同国人とスペイン語で憂さを晴らします。

(ハリウッドに代表される)グローバルな文化商品は、単純にアメリカナイゼーションの浸透あるいはアメリカによる文化支配としてのみとらえうるものではありません。むしろ、文化が国民文化として一元的に産出されてきた近代と異なり、グローバル商品は、国籍を持たない文化として輸出され、世界的な共通経験を創りだしてきたのです。

ここで指摘されることは、いわゆる「文化問題」だけでなく、もう一つの側面とからみます。移民による労働市場のフレキシビリティが資本のフレキシビリティをもたらし、モノが記号を生むのではなく記号がモノを生み、商品は使用価値よりも生活での意味を承認する位置に反転してきました。これが現在の「今、モノじゃないんだよ。それでどう共感をうるかなんだ!」という叫びなのです。

先進国ではモノは飽きられ生活の質が重んじられ、一方の途上国ではモノが欲しいとされる。そのギャップを経済的な豊かさのワンウェイの現象としてみていると見誤る可能性があります。そのバックに経済と文化が同期化して動くグローバリゼーションのダイナミズムをみてとったとき、「モノじゃないんだよ」という言葉の裏にある意味にゾッとするはずです。

 

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Category ローカリゼーションマップ, 本を読む | Author 安西 洋之