『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』を読む

今月のはじめの日曜日、熱海の小料理屋で熱燗の酒を飲みながら社会学者の八幡康貞さんと古今東西のことを延々と話し合ったときのこと。ぼくが「このところいや増す情報の透明性へのこだわりは思想的にはどういう流れにあるんでしょうか?シリコンバレーがガラス張りを主義のように見せるのなんかも、その流れに入るんでしょう?」と尋ねると、八幡さんは「カルヴァン主義に告白を重んじる一派があり、それが米国に普及したけど、その流れとみるのが妥当なんじゃないかと考えますよ」ともともと哲学を専攻した八幡さんは教えてくれた。「大きな流れのなかのごく一部であることを認識しないとね」と付け加えて。なるほど、やはり宗教的な流れに沿っているんだ。そう、「やはり」。

透明度が高いかどうかが「先進性」「後進性」と表現されることに違和感をもってきた。よって、ぼくは八幡さんのこの意見を聞いて腑に落ちた。透明度の高さを謳うことを一方的に悪いとは言わないが、それがすべてではない。一度自分の多くをネットに出したらなかなか後戻りできない。自身の姿を露出するかどうかの判断を「世界の一部」の考え方に委ねるわけにはいかないのだ。少なくても、身を預ける居場所が「一部の流れ」でできていることを知っているかどうかは鍵だ。

歴史は、必ず「考え方」の流れをともなっている。たとえばアジアやアフリカの植民地解放では、運動の主導者は西洋への留学経験者であることが多く、西洋文化の論理を学んだことによって西洋の国と戦い独立を勝ち取った。歴史の皮肉ではなく起こるべくして起こったとーその時代の数十年後のー人が納得する流れだ。だから今の自分が「単に大きな声」に振り回されているかどうかを一歩引いてみるクセがどうしても欲しい。

1965年にサンフランシスコで誕生したロックバンド、グレイトフル・デッドをマーケティングの視点からとらえた本書を読みながら、ヒッピー文化から連なるネット文化のバックにある前述のカルヴァン主義のことを思った。この如何にも二重写しに見えるヒッピー文化と現在のマーケティングアプローチをどこから眺めると絶景なのかと考える。もちろん、絶景に酔ってはいけない。絶景ではない微妙にずれた位置がどこなのかを探るべきだと思うのだ。ぼくは、このロックバンドの最強の武器は名前とその由来にあると思う。

辞書によると、グレイトフル・デッド(感謝する死者)とは、正式な埋葬を拒まれた死者を助けた英雄に関するバラードの一種で、多くの文化でよく似た物語が伝承されている。名前が喚起する、意識の世界を超えた、奇妙で宇宙的な感覚は、バンドにとって完璧だった。

この「正式な埋葬を拒まれた死者を助けた英雄」という立場が何としても強い。圧倒的なブランドを作っている。捨て身でさえある。業界の常識に反してライブ録音を勧めたり、ファンとのダイレクトチャンネルに固執したりといったのは、実は末梢的なことだ。それらは、この名前からきた「結果」なんだと思う・・・と書いてもいいが、こう書いても不思議と思わせない力を発揮している点が、このバンドのブランド力として注目すべき点だろう。

すなわち、バンドのマーケティング戦略とは宗教のブランド戦略と同じく、戦略の存在を感じさせては失敗である。ユニクロのプロモーションが上手く「マーケティングが見事」だと思われることはいいが、バチカンの市場戦略は表だって語られてはいけない。そういうことだ。しかし、それをテーマに取り上げると本はこぞって売れる。本書の位置はまさしくそこにある。マーケティングの専門家としての力量が大いに発揮された書籍企画であった、と。その点が実に憎い。

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Category 本を読む | Author 安西 洋之