言い訳は体系化のトレーニング?

3週間の日本滞在を終え、今週の火曜日にミラノに戻ってきたのですが、この数日でもう「イタリアだなあ」と思うことがありました。小学生の息子が英語のクロスワードパズルの宿題をやっていました。あるところで、どうしても分かりません。「午後7時に人に会ったときに何といいますか?」という問いへの答えです。そこで「good night 」と入れます。これとクロスする単語の質問が「夜寝たい時に何といいますか?I am に続けなさい」。それで「 sleepy 」が6マスに入ってちょうど良いのですが、「good night 」のd とp がクロスします。d を含む6文字の眠たい時に言う言葉がどうにもぼくにも分からず、「明日、学校の先生に聞きなよ」とアドバイスするしかありません。

翌日、クラスの他の子供たちもこの問題の正解が分かりませんでした。しかし、正解は「sleepy 」で良かったのです。d との衝突は? なんと、そのマス目を二つに分けて、d とp を一緒のマスに入れろというのです!反則じゃないかと普通は思うのですが、英語の先生はこれが回答だと教えたそうです。クロスワードパズルのルールを破ることもたまには必要ということなのでしょうー明らかに問題作成者のミスだと思うのですが。まったくイタリア精神もいいところです。ふざけるな!と思う一方、なるほどなあ。ミスを認めないか・・・と半ば感心していたところ、奥さんが最近遭遇した別のエピソードを教えてくれました。

宿題にでた算数の問題です。最終的な正解で割り算で割り切れないとおかしいのですが、どうしても余りがでます。やはり、クラスで生徒たちが割り切れなかった計算結果を述べます。すると算数の先生は、「これは余りがでる。ミスだ。しかし、これは私がネットでみつけた小学生が作った式をそのまま提示した結果だ。その小学生が悪いので、私のせいではない」としゃあしゃあと言い放ったというのです。親からもなかなか評判が良い先生のセリフです。世の中は言い訳で成立している・・・ことを身をもって表現しているワンシーンです。

言い訳はみっともない。言い訳をするのは負け。恥だ。そういう教育を受けてきたぼくにとって、イタリアに20年以上住んでいても「言い訳文化(?)」は馴れない習慣のひとつです。いや、実をいえば西洋社会においても言い訳は育ちの悪さの表れであるとして、他人の言い訳に厳しい批判を加えることは「正当的行為」です。それにも拘わらず、言い訳は「通用」するのです。とするならば、この言い訳の積極的側面も考えるべきではないかと、ぼくはこの数か月思うようになりました。

日本の文化の弱いところは考えの体系化が不得意なことです。何かが上手くいかなかったら、それは自分の実力のなさに起因したと認め、目標設定自身も誤りであったとゼロからの反省をするように、失敗は「悪い根っこ」のせいであると考えがちです。道徳的にも、この態度が賞賛されます。その結果か経験の積み上げで作るロジックがなかなか成立しません。それに対して西洋文化の強みは体系化の巧妙さです。数々の場面を乗り切るロジックが積みあがった状態になっています。ぼくがこのごろ思うのは、体系を作るに言い訳はトレーニングとしてかなり貢献しているのではないかということです。無理やりにロジックのリンクを張る努力(!)が、出来のよさは別にしても、体系を構築するに役立たないわけはないよなあ・・・と思うのです。

言い訳されていい気持ちになったことなんて、一度もないんですけどね。

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Category ローカリゼーションマップ, 子育て | Author 安西 洋之