「宗教は文化のひとつだっていうこと」

ぼくは宗教に関して典型的な日本人です。要するに無神論ならぬ脱宗教。だからイタリアで子供を育てていれば、どこかのタイミングで宗教の問題にぶつかるのは分かっていましたが、「そろそろだなあ」と思っていたら、そろそろがきました。小学校の宗教の時間も選択制でしたが、「キリスト教のことは知っていたほうがいいよ」と言って押し込んで(!)おきました。その時間、イスラム教の子たちは別の学習をしているのですが、息子は幼児洗礼をうけているほとんどの子供と一緒にキリスト教について勉強してきました。本人は面白いと言うし成績もよかったので親としてガードが甘くなっていました。

今年の9月からはじまる中学の申込書を書くにあたり、宗教の授業をどうするかが親子のテーマになりました。宗教のほかにも選択しはいくつかあります。1)第一外国語は英語で、第二外国語をフランス語かスペイン語 2)週の授業合計時間を30時間か36時間 3)給食をとるかどうか(とらない場合は自宅で昼食をとり学校に戻る) 4)カトリックの授業をとるか(とらない場合、他の学習をするか、早く帰宅するか、などの選択もある)  1)はフランス語であっさり決定 2)は若干もめたけど36時間 3)も若干もめたけど給食あり で話し合いがすんだのですが、4)が決まりません。

「今の宗教の時間でも、みんなは教会で(教理を教える)カテキズモをやっているから、どうしても差がでるんだ。お祈りのしかたを知らないし・・・・カテキズモをやっていればよかった」と言い、その差を味わうのが嫌だから宗教の授業はとりたくないというのです。そして「みなはもうカテキズモを終えている今、一人でカテキズモに行きたくない」と。カテキズモをどうするかを数年前に話し合ったとき、「親である自分たちが信じていない宗教の教理をかなりの時間を割いて無理をすることもないだろう。自分で宗教を考える年齢になったとき、勉強すればよい」という判断をしていました。

中学の宗教については当初どちらでもいいかなと思っていたのですが、息子のNOの理由を聞いているうちに、それも良くないなあと思い始めました。「そういう理由なら、宗教の授業をとるほうを勧めるよ。パパもママもキリスト教をもっとよく知っていたらいいなあと思うことはたくさんあるからね。でもだからといって勉強できていないんだけど」と説得を試みるのですが、どうもかたくなにNOと言い続けます。ぼく自身、なにかのときに教会のベンチー日本であれば寺や神社ーで思いにふけることがあります。宗教的な場がもつ雰囲気の大切さは認識しています。しかし、くキリスト教を知っているというにはおこがましい。

息子が赤ん坊のころから孫のように面倒を見てくれているイタリア人のお祖母さんに相談すると、「分かったわ。私が言って聞かせてあげる」と引き受けてくれ、翌日、息子を彼女の家へ一人で行かせました。「なにか話があるみたいだよ」と。結果はYESです。「何が決定打だったの?」とぼくが息子に聞くと、「宗教は文化のひとつだっていうこと」。彼女に「ケンはこれからもイタリアで長く生きていくに、イタリアの文化はよく知っていたほうがいいわよ。お祈りの言葉なんか知らなくてもいいのよ」とかなり長時間にわたって説かれたようです。「脱宗教」の人間が宗教は文化理解の一つであると説明しても説得性に欠けますが、毎週必ず教会のミサに通う信者に言われれば受けるほうも違いますーだいたい息子は両親がイタリア文化をよく理解していると思っていない!-。

中学の申し込み書には「宗教の授業を受ける」にしるしをつけ、授業を受けていて考えが変わればやめる、あるいはカテキズモを勉強することを息子が自分で判断することになりました。

やれやれです。

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Category ローカリゼーションマップ, 子育て | Author 安西 洋之