「深くない」というのは批評になるか?

大学生のころ社会学者の真木悠介(見田宗介)さんのワークショップに何度か参加していたのですが、今もよく思い出す言葉があります。正確ではないかもしれませんが、「思想には軽いと重いという軸があり、それは軽い方がいい。そして、もう一つの軸に浅いと深いがあり、それは深い方がいい。つまり軽く深い思想を目指すべきだ」という内容だったと思います。その後何十年を経ても何かを判断するときの指標になっています。自分の血となり肉ともなったと言えるでしょう。ただ、それを自分で体現しているか?と聞かれたら、その自信はまったくありません。残念ながら・・・・。

以前からも当然ありますが、特に最近よく耳にし目にする言葉に「あれは表層的で深くないよね」というのがあります。実に多い。先日、自動車ジャーナリストが今年の東京モーターショーについて、「深くない」自動車の開発のありようを記事で批判していました。そう思ったのは事実であり、それはそれで分かるのですが、熟練したジャーナリストが「深くない」という言葉で対象を批評したつもりになっていることに違和感をもちました。

そもそも、深いとはどういう意味なのでしょうか。大雑把にいって、通常2つの観点で使っているのではないかと思います。論理の展開を途中でストップさせず、木の根が土の中にどんどんと深くまで伸びていくように「深く考える」。この痕跡が見えるかどうかを指摘していることがひとつめです。いってみればロジックツリーの長さの問題です。もう一つは範囲の問題ではないかと思います。論理の整合性を支える背景がどれだけの広さでカバーされているか。さまざまな感覚的なつながりでみているのか、論理を心との関係で語っているのか。つまりどれだけ「奥深くまで」踏み込んだのか、です。

「深くない」という表現は前述の2つの問題のどちらを指し、長さが具体的にどこで不足しているのか、範囲がどこまで至っていないのかを明示することによってはじめて見えてくる批評です。きわめて具体性ー抽象度の高い論議であってもーのある内容ですから、「熟練したジャーナリスト」であれば多くの具体的なポイントをつけることができるはずなのに、それをせずに「深くない」を連発する・・・・いったい、これは何なのでしょう?何がそうさせるのかを考えずにはいられません。深くない深いを論理的に語るのも嫌になるほどに、「深くない」状況に囲まれ厭世的になっているとの心境を吐露しているのでしょうか?

世の中が前進するための批評をする-正当性のあるー立場を自ら捨てているのです。実を言えば、盛んに聞く「深くない」という表現は、このような傾向をもっているケースが多数ではないかという印象があります。前進するための批評では、「深くない」とは言わずに何らかの別の方向の表現に努めていくはずです。たとえば、あるデザインは社会的に弱い立場の人をどこまで配慮しているのか?という指摘があるはずです。

それがなく「深くない」と書く人は、前線を退いた人間であるとみなしてよいかもしれません。

 

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Category イノベーティブ思考 | Author 安西 洋之