「病は気から」と思わない効用

小澤征爾と村上春樹の対談本の感想で「プロがプロたるゆえんは、全体像の構想力とその実行力にある」と書きましたが、この本を読んでいてまったく違った点で気になったことがあります。それは小澤が自分の抱える重大な病気ーがんーをモノ的に扱っているように読めることです。「モノ的」という言葉がふさわしくないなら、自分の運転するクルマの前に大きなタンクローリーが故障で止まってしまい、二車線の向こうからひっきりなしに来るクルマをよけながらどうタンクローリーの先に行こうかというような「邪魔者」としてのがんという存在がある・・・と見ているような印象がありました。

もちろん癌を歓迎すべき存在としてみる人はほとんどいないと思います。ただ、この「超えるべき物理的存在としての癌」という見方は、ぼくのイタリア人の友人が癌を放射線治療で治していたときにも感じたことでした。精神的に落ち込みながらも、ある種、淡々と治療を続けていく。「片づけていく」という表現でしょうか。小澤やぼくの友人に限らず、人生の大きな目標を自覚している人ほど「癌なんかで落ち込んでいる暇はない」と言います。ただ、これは別のアングルから語ることが可能ではないかとふと思いました。

分析的な西洋医学には限界がきて、体や心のバランスをよく見る東洋医学が見直されていると言います。両者が相互補完することはいいでしょう。「病は気から」なのだから、精神的ストレスを回避していかないといけません。しかしながら、自分の病をあまりに気の持ちように要因を求めることは、自らを責めることが多くなると言えないでしょうか。「あんな咳ばかりしている満員電車のなかに閉じこまれていればインフルエンザくらい移るさ」と他人事のように己の身体を語るのは、下手に重荷を背負う事態を避けるのに好都合ではないかとも思います。

病を第三者的に突き放してみる。心の問題とは無関係であると考える。そうであるからこそ、逆に心は軽く明るい表情もできると思ったらどうでしょう。自分の愚かさを笑ってみる。それなりの日常のややこしい問題を「人生ってこんなもんさ」と言い切ることで心が軽くなるのとまったく同じことが、病気への対処法として有効ではないかと考えるのです。とするならば、一概に西洋医学の限界を批判的にみるのではなく、西洋医学の心への効用を語ることが可能なはずです。

・・・そんなことを、東洋人であるからこそできる西洋音楽の解釈があると主張する小澤征爾の癌への感度を想像しました。

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Category ローカリゼーションマップ | Author 安西 洋之