村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』を読む

何事も自分でやらないと分からない。サッカーの面白さも自分でボールを蹴って分かるし、絵も自ら筆をとることで表現の濃淡が理解できる・・・と言われます。しかし、すべて「見る側」から「やる側」に立場を移さないと何も語れないとしたら、ほとんどの人はただ口を噤むだけになります。語る資格はない、と。本当にそうなのでしょうか?

クラシック音楽において「やる」とは何なのでしょう。楽器を演奏すること、オーケストラを指揮すること、歌うこと。コンサートやCDで「聴く」のは「やらない」側に入るのでしょうか? 遠い昔にこの世を去った楽譜を唯一のマテリアルとして演奏し、それを聴く観衆がいます。現代のポップスは最初に演奏したミュージシャンの解釈をベースとすることが一般的なのに対し、クラシック音楽はそうなっていません。作曲家が書いた楽譜のみが高い場所にたてます。その意味で、芸術のなかで特にクラシック音楽は特殊な位置にあります。

古代文学が現代の書き方でないため普通の人にはなかなか読みこなせないことはありますが、18-9世紀の文学であればかなり勘はつけやすいです。絵画も見方を学ぶ必要がありますが、少なくてもアーティストとアマの鑑賞家は物理的に同じモノを見ています。しかし、クラシック音楽においては両者ープロ演奏家とアマの鑑賞家ーが肝心のマテリアルを共有していないことが大多数なのです。ベートーヴェンの交響曲を楽譜で読み楽しむー正しくは、読めて楽しめるーアマは稀であり、いわゆるマニアーことにレコードマニアーは印象と演奏の比較に終始します。ベームとアバドのどちらのテンポが速いか、という話です。よって、小澤征爾はレコードマニアを好まない。

だから小澤さんは僕に「スコアを読めるように勉強したら」と勧める。「そうすれば音楽はもっとずっと面白くなっていくから」と。

<中略>

会話を交わしたことによって、小澤さんと僕との音楽に対する根本的な違いみたいなものが、僕にもより正確に、いわば立体的に理解できるようになったし、それはかなり大事な意味をもつ認識であったと思う。

村上春樹はクラシック音楽におけるプロの演奏家とアマの聞き手の距離を示しています。しかし、アマはここで絶望すべきではなく、なんらかの穴を見つけていくことに村上は意味を見出すのです。本書は村上春樹が小澤征爾に1年にわたってインタビューした内容で構成されています。興味をひくのは、前半で村上春樹がレコードで聴きながら指摘することが、かなり的を得ていると小澤に評価されるのですが、後半になるに従い、小澤のテンションがどうも低くなります。体調の問題だけではなく、穿った見方をすれば、プロの演奏家とアマの聞き手の間にある厳然たる差異を前にして、小澤の気力が続かなくなってきたのではないかという気がしました。

しかしながら、村上春樹の凄いところは、このギャップについて当たり前ながら自身で強く感じながら、それを容赦なく曝け出していることですーレコード1万枚のコレクションにどれほどの意味がある?と。乖離を無理に覆い隠さず正直に出すことで、ギャップの埋め方を探る大切さを淡々と説いています。

小澤はカラヤンが音楽の方向性を優先した点を強調し、カラヤンの特徴を分かりやすく教えてくれます。

要するに細かいところが合わなくてもしょうがないということです。太い、長い一本の線が何より大切なんです。それがつまりディレクションということ。いわゆる方向なんだけど、音楽の場合はそこに『繋がり』という要素が入ってきます。細かいディレクションもあれば、長いディレクションもあります。

前半で、小澤は村上にこのような説明をしました。が、小澤がスイスで毎年夏に開催する若い人を対象としたセミナーを見学した村上は、後半、小澤の指導の鍵がどうしても分からないと吐露します。引用しましょう。

小澤さんが出す指示のひとつひとつの意味は、僕にもだいだい理解できる。しかしそのような具体的な細かい具体的な指示の集積が、どうやって音楽全体のイメージをかくも華やかに立ち上げていくことになるのか、その響きや方向性がオーケストラ全員のコンセンサスとして共有されていくことになるのか、そのへんの繋がりが僕には見えない。そこの部分が一種のブラックボックスみたいになっている。いったいどうしてそんなことが可能なのだろう。

それはおそらく、半世紀以上にわたって世界的な一流指揮者として活躍してきた小澤さんの「職業上の秘密」なのだろう。いや、そうじゃないかもしれない。それは秘密でも、ブラックボックスでも、なんでもないのかもしれない。それはただ、誰にもわかっているけれど、実際には小澤さんにしかできないということなのかもしれない。

たぶんーぼくは楽譜を読むことができないし楽器も弾かないー、楽譜を読んで演奏する人なら分かるであろう全体の構成への道筋が村上には見えてこないのです。繰り返しますが、村上はそれを「見えない」と率直に書くのです。

プロがプロたるゆえんは、全体像の構想力とその実行力にある・・・ということが実に明快に分かる本です。それは小澤征爾のことだけを指しているのではなく、村上春樹のことも指していると理解すべきでしょう。

 

 

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Category 本を読む | Author 安西 洋之