畠山重篤『森は海の恋人』を読む

日本にいるころ、相模湾でディンギーを仲間と乗っていた時期がありました。ある日曜日、かなり風が強く小雨まじりの中を友人と無謀にも舟を出した際、さほど沖にいかないところで船体がひっくりかえりました。ぼくらは海に身を放り出された後に舟をたてなおしましたが、ぼくは乗り込むにあたり船体をつかみ損ね、海面に一人残されることになりました。一方、友人をのせたディンギーもあっという間に流されていきます。陸から沖に吹いていた風と潮の流れが、ぼくの身を山の連なりからどんどんと遠くへと引き離していき、「明日、何処で発見されるのだろうか・・・」と文字通り天を見上げました。

漁民は山を見ていた。海から真剣に山を見ていた。海から見える山は、漁民にとって命であった。

冒頭の文章が、20年以上前の相模湾でのアクシデントを鮮明に思い起こさせてくれました。陸地にある建物など小さくあてにならず、見慣れたカタチの山こそが自分の位置を確認する唯一の指標になります。人はどこかにあるスタート地点をいつも確認できる構えが必要です。

海に浮かぶヴェネツィアの街のためにアルプスの木材がポー川で運ばれたように、ある地域は他の地域との相互補完の関係で成り立ちます。こうしたことを当たり前のことだと頭で知りながら、お互いに関係することを実際に見たり聞いたりすると、人は心を動かされるものです。地域や集団あるいは個人が閉じた孤立に陥らずに生きていることが確認されると嬉しく思う傾向があります。それも、自然の生態系にかかわることだと、さらに・・・。

植物プランクトンを育む窒素、リン、ケイ素、さらに、フルボ酸鉄の流入量は、圧倒的に、大川が供給していることがわかった。さらに大川の水は、外海に近い唐桑の海にも届いて、それが水深20メートルもの深さにまで達しているというのである。つまり大川の養分が、海の深い所にまで供給されていたのである。

森林、川、海と続く生態系の中に、生物の生存がある。ところが、この関係が数字で明快に示されることは、これまでなかった。松永教授の鉄を基準にした生物生産量の計測という研究は、単に気仙沼湾の問題にとどまらない。

牡蠣の養殖のために森を育てる根拠が科学的に説明されたのですが、科学的説明が可能であるという事実は、海で生きる生物に不可欠な鉄分は森によって提供されるシステムが、世界のどこの地域でも維持されないといけないとの警告になります。

ある科学的説明は科学的に説明されると有用であろうと直観で閃いたポイントでこそ花開きます。あてずっぽうにいくのではなく、「こんな感じが全体像ではないだろうか」と直観で思ったら、そこから鍵となるパーツを探し求めていきます。しかし、直観でつかむ全体像とは自分のリアルな経験(たとえ、ネット上の情報を扱うにせよ、「自分にとっての一次情報」という次元において)に基づきます。つまり、情報は目的や目標があってこそ「息が吹き込まれる」ものであり、実は「息が吹き込まれる」瞬間とは、眼前にあるディテールが輝いた瞬間であり、全体を構成する重要なエレメントであろうと直観で思う時です。すなわち、全体像とディテールの関係の把握が瞬時に行えた時以外の経験は、そのまま寝かせておいてよいものです。言ってみれば、あまり考え込まなくていい。

海に森に生きてきた畠山さんは、「経験の寝かしつけ」が上手いのではないかと思います。無駄に起こして徹夜などさせない。よく睡眠をとらせる。しかしながら、常時目を覚ませておかなければいけない部分は、「冷淡なほどに熱情的」になるよう仕向けます。

三陸海岸の一介の漁師の家に生まれた少年が、一人前の牡蠣士になり、森と海の自然の恵みと、それをおびやかす環境破壊の現実に目を開かれ、問題点を正確に把握して、その解決にむけ、仲間の輪を広げ、敢然と、しかしどこまでも明るく、立ち向かうリーダーになっていくドキュメントである。その筆致には高い文学性があり、叙事文学ともいえる。が、それにとどまらない。ゆったりとした序(経験の統合)、息もつがせぬ破(問題点の整理)、そして最後の急(実践)という、しっかりとした構成をそなえて、また多くの地域に妥当する処方箋が書き込まれており、実学の書でもある。

川勝平太のあとがきです。

 

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Category イノベーティブ思考, 本を読む | Author 安西 洋之