ルイジ・コラーニは何を語ったか

ザハ・ハディドのデザインを見ると「今」を感じます。コンテンポラリーな表現であると思われやすいでしょう。それは有機的デザインだからでしょうか。フランス人のピエール・ポランとスイス系イタリア人のルイジ・コラーニ。かつて2人ともサイエンス・フィクションの世界のために有機的デザインの家具をデザインしています。彼らのデザインは美しいですが、「今」という印象は与えてくれません。それでは40年を隔ててどこにザハ・ハディドとギャップがあるのでしょう。

それは、ぼくが少年の時にみた映像に彼の作品があったからでしょうか。「今」ではなく「懐かしさ」を先に思ってしまう経験の問題なのかと考えてしまいます。コラーニの言葉に「私はSFデザインではなく、サイエンスリアリティを創っている」というのがありますが、空力そのものを体現したクルマが350キロ/時で走ることに重きが置かれる時代に「サイエンスリアリティ」があった。2011年、F1と同じスピードが出るクルマはもちろん空力計算を詳細に行っていますが、40年前ほどには実用から極端に離れないカタチになっている。そこに「サイエンスリアリティ」という表現は馴染まないと思います。

あえて「サイエンスリアリティ」というなら、それはクルマのスピードではなくドライバーとマシーンの関係や衝突しないマシーン間という側面に適用すべき言葉である。そういうリアリティ移動の結果として、コラーニのかつての「先端的」デザインが言及しきれていないスポットが浮上している大きな現実が、彼の40年前のデザインを相対化しているのです。当然ながら、それでいい。ぼくは何もコラーニのデザインにケチをつけたいわけではないのです。美しく且つ今によみがえっても十分に耐えられる力があるとはどういうことかを考えています。

イタリアに1960年代起こったアートの運動、アルテ・ポーヴェラは日常にある素材をもとに新しい視点を提供したわけですがーとぼくは見るのですがー、それは時代を共有しながらも、きっとコラーニの「サイエンスリアリティ」とまったく別の場所にあったでしょう。だがコラーニが「バイオデザイン」と呼ぶ自然にモチーフを求める姿と、アルテ・ポーヴェラのアーティストが自然にある素材を扱うところに何か違いがあるのかを考えます。

トリエンナーレで現在3つの見るべき展覧会があります。ボビーザで開催されているコラーニ、カドルナで行われているアルテ・ポーヴェラと時のデザインをテーマにした展覧会。3つ目のイベントは時そのものをデザインしていて刺激的です。ちょっとでも気を緩めると無情にも前進する時の怖さ、一瞬に気を緩める余裕を与えてくれる時の寛容さ、これらを真正面から可視化してくれています。

3つの展覧会から見えてくる世界は、かなり自在に変貌する三角形を作ってくれます。

 

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Category ローカリゼーションマップ | Author 安西 洋之