朝日と夕日は違うのか?同じなのか?

先日、「ヨーロッパの風景はどうなるのか?」を書きましたが、先週、あるミーティングでこれがテーマになりました。石造りやレンガの何百年もの歴史ある建物が、構造上脆弱になりつつあり、これをどう解決するか?です。全てを壊してゼロから建設することは景観維持の面からも難しい。かといって1階部分の負担は大きく、上階をいかに軽くして補強するかは大きな問題です。そこで、最先端技術で旧式の建物の再生が考えられることになります。逆にいえば、それだけ視覚的記憶やコンテクストは人が生きていくにあたり、重要な事柄なのです。

あるところで意外な人と会い、「この人、誰だっけ?」と一瞬戸惑ったことがあると思います。あなたのシナリオにない人と遭遇すると、こういうことが生じます。それぞれの人の顔は、顔の造作や表情、声だけでなく、その人との交わりの文脈があります。「仕事で六本木のオフィスで会う人」という記憶と一緒に顔がインプットされていると、鎌倉の古い寺の庭で急に会っても、顔自身の瞬時の識別が危うくなります。もちろん、オフィスで毎日会っていれば別ですが、たまに会うくらいだと、「場所なんか全く関係ない」とは言い切れないでしょう。

それだけ人は過去を「引きずります」

欧州人と話していて、「世界は同じになったね」と話し合います。「アメリカに行っても、アジアに行っても、同じようなタイプと会うね」と言います。先日も昼食をとりながら、そういう話になりました。同じであると思うのは、同じ工業製品をもち、同じソーシャルメディアを使うから、なお更そう思うのでしょう。アメリカ人も同じことを言うし、日本人もそう語ります。そして、「心理的な側面がすごく重要になっている」と指摘し、同意します。ただ、ここからがちょっと違います。欧州人は「結局、心理的な側面というのは、人の頭の中で何を考えるか、過去にどういう経験をしたかということだよね」と解説する傾向にあります(少なくても、ぼくが話す相手は)。それに対して、日本の人は「言葉で伝わらない感覚って同じなんですよ。感性とか」と言うことが多いです(・・・ただ、虫の鳴き声を詩的に聞くのは日本人の特徴と言う人もいます)。

これで、「世界は同じなのでしょうか」

同じような風景を見ていますが、見ている位置が随分と違います。あなたは二枚の写真ー遠くに見える赤い(あるいは黄色い)丸いものがあるーを眺めたとき、「朝日」であっても「夕日」であっても、同じ太陽であると言うでしょうか?それとも、「朝日」と「夕日」は文脈が違うといいますか?太陽だから同じだと言っている限り、それこそ、朝と夕方に生じる心象風景の異なりを全く無視することになります。感性レベルで言うなら、どこまでが共通するコンテクストであり、どこからが違うコンテクストなのか?例えば、「何らかの感傷に耽る」という共通性があるかもしれません。それで勇気が出たり、哀しくなったり・・・・しかし、その違いは太陽のせいではない!

こんなことを、最近、考えています。

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Category ローカリゼーションマップ | Author 安西 洋之