ミラノサローネ2011(24) 「ミラノサローネで世界進出」

ミラノサローネでのデザインに関する日本での解釈などを聞いたり読むにつけ、ある根本的な勘違いが原因で戦略のミスを招いていることに気づきます。結論からいうと、合理的や論理的という言葉の意味を正しく捉えていない、ということです。多くの人は、これらの言葉から近代ヨーロッパ思想にある数学的なロジックやセオリーのみを連想しているのです。これは一部は正しく、大部分が正しくありません。「この時代に限らず」、ローマの時代であろうが、平安の時代であろうが、あるいは江戸の時代であろうが、人の日常生活は合理性や論理性と無縁にあったわけではなく、日常生活で人に話して合意してもらう行為とプロセスは、これらの言葉によって定義される内容によって遂行されています。それにも関わらず、論理というと西洋近代の象徴との概念に囚われ、日本文化のアイデンティティはそこにないという「差別化」に走るのです。そのため、「感性」「直感」という言葉をアイデンティティにもとうとします。それも過剰に。何度も書いた、レクサスのL Finesse というデザインポリシーもその典型でした。


上の写真は以前も紹介した Joep and Annelou van Griensven の二人のオランダ人デザイナーの作品です。”Between Two Lives “というコレクションで”Yesterday’s future, tomorrow’s past”とのタイトルがついています。17-8世紀の家具を違うコンテクストー白いマテリアルに囲むーにセットすることで、過去と未来のエッセンスに共通軸を見出すことを意図しています。下の写真は時計。これが昨日も書いた、2つの価値共存への探りのもう一つの事例だと思います。違った価値に共通軸を見出すというのは、両サイドから似た要素をみつけて一つ にセットする以上の試みであることを暗示しています。多分、この若いデザイナーたちは今後表現を変えていくでしょう。より「曖昧な表現」で洗練させていく かもしれません。が、現在、コンセプトの基礎固めは着々と進んでいる感じがします。

ぼくが、サローネに出展している日本企業のスタンドを見て危惧するのは、「曖昧な表現」は「言葉で表現できない感性の世界」のものであるという固定観念に囚われ、そこに日本の表現の強さがあると信じきっている怠慢さです。囚われた姿です。そして哀しいかな、欧州人の賛辞の評価もできていないー誰が何を褒め、何を褒めないのかというパターンが分かっていない。喩えていえば、日本人の「すみません」を謝罪と受け止める日本語を習いたての外国人のようなレベルで、欧州人の口にする「素晴らしい」を聞いている・・・。

舞台道具に和服や鎧というアイコンを使わない分、一見と違い、問題はさらに深刻なのです。昨晩、ドリームデザインの石川淳哉さんのブログ「ミラノサローネで世界進出」を読み、これは進めるべきと思いました。ミラノサローネが、デザイナーやインテリア業界言語だけで通じる牧歌的サロンではなくなった今、そして日本の経済に余裕が殆どない現在、サローネに出る自分たちの言語=思考方法を根本から見直す必要があります。批評する次元でも、個々の作品のデザイン評やインスタレーション評だけでなく、海外戦略面からの妥当性を問うことが重要になってきています。日経ビジネスオンラインに書いた「ミラノサローネで失敗しないために」は、そのために一石を投じたつもりですが、石川さんが返歌を書いてくれて嬉しいです。

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Category ミラノサローネ2011 | Author 安西 洋之