ミラノサローネ2011(19) 白を巡る変化

アートギャラリーの壁は普通、白です。作品の背景に色をつけない。また、白はコンセプトの骨格を見せやすい色でもあります。そういう色だと分かっているのですが、サローネを歩き回っていて、この白がどうにも「古臭く」見えてしまうのはどうしてなのだろうと思いはじめました。(17)で書いたようなカラフルなプラスチックに目が馴れているからなのか?と当初、思いました。しかし、そういう問題とは違うところに理由があるはずだと考えるに至ります。13日、サテリテで山本さんの作品を見たとき、他の多くのデザイナーたちがプロトの量産化に専念しているなかで、アイデアのプレゼンに特化しているのは、とても好感がもてました。

ただ、壁もインスタレーションのマテリアルも全て白いことが、ぼくにはひっかかりました。昨年、同じ場所でモッツァレッラチーズをイメージしたスツールを彼は発表しましたが、その時、ぼくはその白い作品がすっと目に心に入ってきました。でも、上の写真の白には違和感をもちました。山本さんは、このマテリアルを使用する制約条件もあったようですが、コンセプトをよく説明してくれる色であると説明してくれます。それは分かるのですが、どうもぼくは腑に落ちません。なぜ、そういう心境の変化がぼくの内に起こったのだろうと思います。そこで、ふとトリエンナーレでみたオブジェが想起されました。

日常にある西洋的なモノの文脈を解体し、それをインドの文化にフィットさせるオブジェです。西洋にある日常的なモノとは便器です。通常は白い便器が、色と組み合わせで全く違ったコンテクストを作っています。ぼくは、これを見たとき、ローカライズの発想のヒントになるなと思いました。文脈の解体という点に我々はもっと習練すべきではないかを気づかせてくれていると考えたのです。そのうえでの文脈の再構成ではないか、と。白い色でコンセプトを見やすくすると考えるのではなく、白い色が既にバイアスがかかっている色であるということに注視し、その文脈自身を解きほぐすことにまず意味を見出す時代になっているのではないか・・・と、そうぼくは感じ始めたようです(あえて、傍観者的な言い方をしますが)。

この数年、天から光を受けたような印象を与える、上の写真のような表現をあちこちで見ます。このようなインスタレーションが凡庸になっているところで、ここで使う白にも何か痩せ細ったコンセプトと目に映ります。膨張感のあるものに親近性を感じているときに、痩せ細ったごつごつした存在が、まるでダイエット中の禁欲性の象徴のようで、「ご立派だけど、ぼくが今欲しいのはそれじゃないし、世の中には色があるんだから、その条件でコンセプトが成立するのを見たいんだよ」と言いたくなってくるのです。「脆弱なプロトタイプでお腹一杯にしたくないんだ」とも語りたい。だから、オラ・イトのシトロエンの2つのプロトも見方が違ってきます。

これは2010年の”EVO MOBILE”です。これには、ぼくの心はあまり動かない。しかし、今年のUFO(下の写真)には唸ります。1950年代のDSのラインが如何にフューチャリスティックであったかを知らしめ、シトロエンのアイデンティティの強さに感心するのです。

これは白ではない。もちろん、色だけが判断の決定要素ではありませんが、白で表現しようとする発想プロセス自身に、ぼくが何らかの不足感を抱いてしまっていることが、だんだんとわかってきました。

吉岡徳仁が霧が充満するような空間に白い椅子をおいたことにOUT OF DATE な印象を抱いたのは、2005年の石上純也のレクサス展示と似ているからではなく、この白を巡る発想への疑問から発しているのではないかと気づいたのです。

<追記>

2003年、吉岡徳仁がサローネで霧を使ったインスタレーションを発表しているとの指摘を受けたので、そのイメージを以下にご紹介しておきます。

http://www.tokujin.com/art/clouds/

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Category ミラノサローネ2011, ローカリゼーションマップ | Author 安西 洋之