生きろ。何がなんでも生きろ。

結局、今週の月曜日、ミラノに戻らなかった。成田エクスプレスの運休で、正確に言うと戻れなかったのだが、重いスーツケースをもち、駆けずり回って空港への他の交通手段を体当たりで探し回るということをしなかったのは、「戻らなかった」のか、それとも「戻れなかった」というべきか微妙なところだ。それでフライト日を変更し、まだ日本にいる。が、そのフライト日も流動的になってきた。アリタリアが成田発着便を当面やめ、関空に変更することを決定したからだ。

ただ、負け惜しみで言うわけではないが、輪番停電や原発事故の混乱を日本でリアルに経験しているのは、今後のぼくの活動を考えるにあたっても重要だと感じている。何度も大地を揺さぶる余震に身を任せ、節電で暗くなった駅や店舗を目の前にしながら思うことは多い。それも実に多い。また、マスメディアやTwitterなどのスマートメディアを通じてみる人々の言説のありようにも考えさせられる。例えば、なぜ自分たちの圧倒的な情報量を前にして、主に米・欧のメディアの原発事故分析に一喜一憂するのか。911、ハリケーン、イラク戦争でリスク対処をあれほどに非難された米国政府が「日本政府の原発事故に対する判断は正しい」というと、それをどうしてお墨付きのように扱おうとするのか。

疑問に思うことはまだまだ多数ある。批判したいこともある。しかし、そうしたことにエネルギーと時間を費やすのが至極無駄に思える自分がいる。停電で真っ暗になった空間で何度も頭を振った。人がどんなに意図的にやったところで、荒れ狂う自然の前でできることは限られている。今、ぼくたちは試されている。頭と心が同時に試されている。片方ではない。柔軟な思考と常識的な思考。専門家の知識や考え方を判断する力。全体的状況と局地的状況の把握に要する思考レベルの使い分け。一方で、強い心。自分を律することで、人に寛容になる。過ちで落ち込んだ人をユーモアのスピリットで力づける。迷う心と迷わない心・・・・・。

今日は寒い。あそこで服が濡れ寒い思いをしている人たちが数多いる。吹雪のところもあるという。3月の地震は、これから冬に突入する11月の地震よりマシのようにも思えるが、今、この厳しい寒さの中にいる人たちにとって、3月か11月かは全く関係ない。確かに春になれば、暖かい。しかし、それが今、希望として感じられるかどうか。それは無理だ。3月は何の慰めにもならない。希望の春を想うには、それなりの心の下地がいる。暖かい春は時差があっても人々に平等に到来するが、その到来を近くのものに思えるかどうかは、状況と人による。そんなとき、何が希望の下地を作ってくれるのだろう。いや、作れるのだろうかといったほうがいい。

希望は人の頭と心が作る。もちろん、健康な身体であったほうがいいが、頭と心の質が一番問われる。今、幸いにして自由に動ける人たちの頭と心が、今、苦境にある人たちの「希望の下地」を作る。希望は意志から生まれる。生きる意志、生きようとする意志。その意志さえあれば、あとは何とかなる。生に貪欲であることが、考えを鮮明にさせ、頑なな心を砕いていく。

生きろ。何がなんでも生きろ。

このエントリをはてなブックマークに追加このエントリをdel.icio.usに追加このエントリをLivedoor Clipに追加このエントリをYahoo!ブックマークに追加このエントリをFC2ブックマークに追加このエントリをNifty Clipに追加このエントリをPOOKMARK. Airlinesに追加このエントリをBuzzurl(バザール)に追加このエントリをChoixに追加このエントリをnewsingに追加

Category 未分類 | Author 安西 洋之